ロシアW杯直前の今だからこそ振り返ろう!第1回 西野朗の率いたガンバ大阪〜前編・出会いは風任せ〜

最近やたらと京都駅来てる気がする。

 

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どーもこんばんは。

 

さてさて、ハリルホジッチの解任、西野朗の就任という衝撃的な幕開けも迎えた今週も週末を迎えようとしていますが

 

そんな西野朗氏の率いた時代のガンバ大阪、そして今だからこそ前回大会のザックジャパンの功罪について考えていきたいと思います。

 

とりあえず今回からは数回に渡って、西野朗が率いたガンバ大阪についての連載を始めていきたいのでよろしくお願いします。

 

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...あれ?やたら一方的な始まりになってしまった...。

 

まずガンバ大阪に就任する以前の西野監督のキャリアは此方の記事にざっくりと書いた通りなのですが

 

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改めてかいつまんで説明しますと、現役引退後は世代別代表の日本代表監督に就任。チームを28年ぶりのオリンピック出場に導くと同時に、そのアトランタ五輪マイアミの奇跡と呼ばれるブラジル代表を下す大番狂わせを演じ、その後に就任した古巣、柏レイソルでも好成績を残しました。

 

今、西野監督の就任に伴って、改めてマイアミの奇跡がクローズアップされがちですよね。

ですがマイアミの奇跡1試合だけ切り取れば美しい思い出の試合なのですが、アトランタ五輪サッカー日本代表という視点で見ればしこりの残る思い出の1つなのです。

   

結果から言えば、初戦でブラジルに勝利した次の試合でナイジェリアに0-2で敗れた日本は終戦ハンガリーに勝利。

このような形式の大会だと2勝1敗もあれば通常であれば予選リーグを突破出来るのですが、日本の他にブラジル、ナイジェリアが同じ2勝1敗勝点6で並ぶという珍しいケースになってしまい、得失点差により日本はグループリーグ敗退を喫してしまいます。

最終的にブラジルとナイジェリアは再び決勝で戦い金メダル銀メダルを獲得したため日本にとっては悔やまれるというか、巡り合わせが悪かったような結果になってしまいました。

 

西野監督はガンバでのイメージが強いため攻撃的な思考の監督というイメージが強いです。

実際本人もヨハン・クライフを崇拝しており、ガンバの試合のバスでは常にバルセロナの試合を流していたので、ポリシーや理想のスタイルとしてバルセロナ、攻撃的なパスサッカーがあるのは確かです。

 

ですが監督しては基本的には、手元にいる選手にあったやり方をするスタイルの監督で、アトランタ五輪の際には日本と強豪揃いのグループでの力関係も踏まえて守備的な戦術で戦い、中田英寿らと意見の相違があったとは言え、2勝1敗で終えた訳ですからひとまずその狙いは成功したと言えるし、むしろそれしか手段がなかった事も1つの事実でしょう。

 

しかし当時のサッカー協会からはこの守備的な戦いを否定され、失敗の核印を押されてしまいます。西野監督もこれには当時相当悔しい思いをしたそうで、柏も西野監督解任後に柏が不振に陥った事も踏まえれば、年間勝点1位を獲得した翌年に1stステージ6位という決して悪くはない成績で解任された事も相当悔しかったはずで、そのリベンジの場を探していました。

   

一方、当時のガンバはと言うと、Jリーグ元年は関西唯一のJリーグチームという事で期待されていましたが長く低迷が続き、1997年と2000年の2ndステージを除いてまともに上位争いにすら絡めず早野宏史監督の下で若手が出場機会を掴み始めて今後に期待を持てるチームではあったにせよ、どうしても一皮剥ける事のできないチームでした。

 

後に西野監督は、ガンバを可能性のあるチーム興味のあるチームと感じていたみたいで、まさしく運命的な出会いだったと言えます。

 

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ただ前述のように、基本は選手に合わせたサッカーをするスタイルの監督なので、2002年に上位進出を果たしたガンバは、パスサッカーというよりは当時の長身ストライカー、マグロンの能力をフルに活用したスタイルと言えるでしょう。(それでも優勝争いの大一番で当時全盛期の磐田と4-5の壮絶な打ち合いをするなど、その後のガンバの片鱗を窺わせるものもありましたが。)

 

所謂西野ガンバというものの形が構築され始めてきたのは2003年頃遠藤保仁は代表に定着するような選手になり、大黒将志二川孝広橋本英郎らユース上がりの選手らも主力として定着し、内容が飛躍的に向上しました。

 

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西野体制でトップ3を逃したのはこの2003年と2008年の2シーズンのみで、2008年はACL天皇杯の二冠を達成している事を考慮すれば成績的に失敗と言える唯一の年だった2003年ですが、フロントはこの年限りで契約の切れる西野監督をサッカーの内容がこれからに期待が持てるものと判断し契約延長を決断します。これはまさにフロントの英断でもあったでしょう。

 

翌年の2004年は、これまで攻撃の核でもあったマグロンが長期離脱。しかし開幕前に小柄なテクニシャンのフェルナンジーニョ配球センス、ビルドアップに貢献できるCBという、西野サッカーにおけるキーワードとも言える特性を備えたCBのシジクレイを獲得していた事もあり、本格的にパスサッカーを前面に押し出すスタイルへと移行していきます。

 

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この頃から今に至るまでのスタイルが固まり出した西野ガンバは2002年よりも手応えのある形で終盤まで優勝争いに絡み、翌2005年、《万博に1年だけ舞い降りた天使》ことアラウージョというラストピースを手にしたガンバは、圧倒的な攻撃力とJリーグでも特異なスタイルを有してクラブ初のJリーグ優勝を達成したのです。

 

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西野監督とともに作り上げ始めたJリーグ史に残る超攻撃的チームはJリーグ優勝を通過点にし、さらに強く、そして攻撃的なチームを作るべく新たなステージへと進んでいきました。

   

つづく。