さよなら平成
どーもこんばんは
さてさて、2017年11月に開設され、激動の平成の世を1年半共に過ごしてきたこのブログも今日、平成最後の日となる4月30日をもって最終回…ではなく、平成最後の回となります!
というかそもそも、平成の世にしか生きた事のない私にとっては元号が変わるなんて初めてのイベントです。感慨深さ…とまでは言いませんが、やっぱりソワソワはしてしまいますね。ありがとう平成。さようなら平成。
さぁ、平成最後のブログは先日から更新しております日本サッカーに歴史的意義をもたらした平成の日本代表戦ベスト50最終回!遂にベスト3の発表です!!
初めてのアジア王者、Jリーグの開幕…そしてかつて「W杯に出る事」が最大の目的だった日本代表は、気づけば「W杯でどこまで勝てるか」という事に重きが置かれるようになるほど、平成の世で日本サッカーは大き過ぎる進歩を遂げました。平成最後の日、そんな平成の日本代表で歴史的に重要な意味を持った試合ベスト3をいよいよ発表します!!
第3位
2002FIFAワールドカップ日韓大会グループH第1節
日本2-2ベルギー
2002年6月4日18:00@埼玉スタジアム2002
ベルギー得点者:マルク・ヴィルモッツ(57分)、ファン・デル・ヘイデン(75分)
GK12 楢崎正剛(名古屋グランパスエイト)
監督 フィリップ・トルシエ
フィリップ・トルシエ監督就任後、ワールドユースやシドニー五輪での躍進やアジアカップ制覇、コンフェデレーションズカップ準優勝など、着実に、そして急激に進歩していった日本代表。しかし、いくら自国開催と言えどもW杯の舞台というとやはり別物で、そこには嫌でも前回フランスW杯での3戦全敗という思い出が脳裏にチラつく。対戦相手のベルギーは今ほど強いと言われているようなチームでは無かったが、シャルケ04などで活躍していたマルク・ヴィルモッツなどを擁する実力のあるチームだった。
前半はスコアレスで折り返したが、57分に日本は先制点を許してしまう。静まり返る埼玉スタジアム、否が応でも蘇るフランスW杯の記憶…しかしその2分後、小野伸二のロングパスに抜け出した鈴木隆行が懸命に脚を伸ばしてゴールに流し込んで同点に追いつく。更に67分には稲本潤一が決めて逆転に成功。最終的には追いつかれて引き分けに終わったものの、日本が史上初めてW杯で勝点を掴み、W杯で負け続けた歴史を断ち切った。
初勝利はこの次の試合のロシア戦になり、記録の意味ではロシア戦の方がフューチャーされるだろう。しかし日本サッカーにもたらした歴史的な意味という点で考えれば、このベルギー戦の方が大きいような気もする。特に鈴木が決めたゴールこそ、今日に至る日本サッカー躍進の一つのキーポイントとさえなったシーンと言えるだろう。
第2位
1994FIFAワールドカップアメリカ大会アジア最終予選第5節
日本2-2イラク
1993年10月28日16:15@アル・アハリ・スタジアム
イラク得点者:アーメド・ラディ(55分)、オムラム・サルマン(89分)
MF8 福田正博(浦和レッドダイヤモンズ)
監督 ハンス・オフト
1992年、ハンス・オフトが監督に就任し、サッカーでは何百歩も先を行くヨーロッパのスタンダードが持ち込まれるようになった。Jリーグ開幕という時代の波も後押しし、遂にアジアカップも初めて制した日本代表にとっての1994年アメリカW杯というものは、是が非でも出場したい大会であると同時に「初めてW杯出場が現実的な視野に入った」大会だったと言える。その証拠に、最終予選では1分1敗のスタートだったもののそこから巻き返し、第4節ではこれまで日本の行く手を阻み続けた韓国に遂に勝利を収め、初めてのW杯出場に大手をかけた中で迎えたのがイラク戦だった。
試合は三浦知良のゴールで先制、前半を1-0で折り返すが、この時のハーフタイムの空気は凄まじく、チームのあまりの興奮状態にオフトが「Shut up!!」と言っていた事が証言されている。そして後半、両チーム1点ずつ加えて2-1となり、いよいよアメリカW杯への最後のワンプレーとなるイラクのCK……これが有名な「ドーハの悲劇」である。
今でもW杯予選の度に三浦知良のタックルがかわされるシーン、ボールが松永成立を横切ってゴールに吸い込まれるシーン、ピッチで項垂れるラモス瑠偉、ベンチで崩れ落ちるように倒れこむ中山雅史の映像が流れる。急激に進化した日本サッカーがまだ補えていなかった部分が浮き彫りになった事は大きな要因で、この教訓は後々の大会に活かされていき、歴史は積み重なっていく事を改めて感じさせる。
また、この時の日本サッカーはJリーグバブルなど余りにも順調に進み過ぎていた。物語は一気に上り詰めるより段階を踏んだ方が面白いと言う。ある意味、ここでドーハの悲劇のようなショッキングな形でアメリカW杯出場を逃した事が、日本のサッカーの興行的な価値を高めた…という側面もあるのかもしれない。
第1位
1998FIFAワールドカップフランス大会アジア第3代表決定戦
日本3-2イラン
1997年11月16日@ラルキン・スタジアム(マレーシア、ジョホールバル)
日本得点者:中山雅史(39分)、城彰二(75分)、岡野雅行(118分)
イラン代表:アジジ(46分)、アリ・ダエイ(58分)
FW14 岡野雅行(浦和レッドダイヤモンズ)
監督 岡田武史
ドーハの悲劇の後、日本サッカーはまた新たな展開が生まれる。1996年、2002年のW杯が日本と韓国で共同開催される事になり、共催という形ではあるがW杯の自国開催が決まったのである。当然、2002年に向けて盛り上がっていきたいところだったが、肝心の日本代表はアジアカップではベスト8に終わり、W杯予選も苦戦が続き、遂に加茂周監督解任という事態に陥る。後任にはコーチだった岡田武史監督が昇格し、何とかプレーオフへの出場には漕ぎ着けたが、当時のチームに吹く風は決して追い風ではないプレッシャーだった。日本は既に開催国枠として2002年のW杯出場が決まっているが、過去に「開催国枠での出場がW杯初出場」となったケースは一度もなく、必然的にその記録を回避する為には絶対にフランスW杯に出なければならず、また、フランスW杯出場を逃すという事は、Jリーグバブルが終焉し観客数低下の一途を辿り、翌年には横浜フリューゲルスの消滅に至るほどのJリーグ全体の低迷もあって、文字通り日本サッカーがこのまま成長出来るか、はたまた一時のバブルで衰退するかを左右する試合だった。
中山雅史のゴールで先制した日本だが、経験は一枚上手のイランに逆転を許してしまう。しかし途中出場の城彰二がゴールを決めて同点に追いついた事で、試合は延長戦に持ち込まれた。そしてその延長戦も終了間際、この試合で何度も決定機を外していた岡野雅行が中田英寿のミドルシュートのこぼれ球に走り込む。当時の延長戦では点を取った瞬間に試合が終了する「Vゴール方式」が採用されていた為、岡野の押し込んだボールがネットを揺らした瞬間、フランスW杯出場が決まると同時に日本サッカーは重かった新しい扉を開いてみせた。
気が付けば日本サッカーは大きく成長し、今やアジアトップのチームとなっている。現在ではW杯予選は勝って当然という目で見られるようになり、重要なのは予選ではなくW杯本大会での成績となった為、当時のような空気をW杯予選で感じる事は当分無いだろう。しかし平成が幕を開けた頃は、予選突破はおろか、予選で白星を挙げる事も難しかったのだ。
「日本が果たして世界的に見ても有力な国なのか?」
この質問の答えは色々分かれるだろうし、ロシアW杯で露わになったように、世界のトップレベルとはまだまだ差はある。しかし間違いなく言える事は、この平成という世に日本サッカーが歩んだ軌跡というものはまさしく激動で、そして間違いなく多大な、大きな、劇的な進歩と成長を遂げたという事であろう。
いつか令和の時代も終わる時が来る。その時、日本サッカーはどうなっているのだろうか。
…平成の間にW杯観に行けるとは思ってなかったよ。
ではでは(´∀`)