ギター弾いてみた的な動画たまに見るけどさ
B'zの「love me,I love you」「ギリギリchop」辺りはもうメカニズムから何のこっちゃさっぱりわからん
どーもこんばんは
さてさて、今年…2019年からちょうど20年前、1999年、日本サッカーの歴史は一つの大きな功績を残しました。
所謂黄金世代…79年組と呼ばれる世代が、ワールドユースで準優勝を成し遂げたのです。
FIFAが主催する、アジア規模ではなく世界規模の大会で日本が決勝戦に進出したのは史上初。その時のメンバーの多くが日本代表、そしてワールドカップ本戦のピッチを踏むなど、この黄金世代はこの大会で、そしてこの大会の後も偉大な功績をJリーグと日本サッカー界に残しました。
ちょうど明日の20年前に当たる1999年4月5日にカメルーンとの初戦を迎え、同年4月24日まで戦い抜いた伝説の1ヶ月からちょうど20年…多くの選手は今年で40歳とアラフォーに突入します。彼らがワールドユースの後、どのようなキャリアを歩んだか…今回はそれを特集していこうと思います。
単純に試合結果を振り返っていこう!という以前更新したブログと併せてご覧下さい↓
1999年ワールドユースナイジェリア大会登録メンバー(18人+バックアップメンバー1人)
登録メンバー(18人)
MF7 酒井友之(ジェフユナイテッド市原)
監督 フィリップ・トルシエ
コーチ 山本昌邦
コーチ サミア
GK1 榎本達也
(浦和学院高等学校→横浜F・マリノス→ヴィッセル神戸→徳島ヴォルティス→栃木SC→FC東京)
日本代表候補(2000)
ワールドユースでは試合出場はなく、所属先の横浜FMでも川口能活という絶対的存在の影響で出場機会は少なかった。だが2001年の途中、川口の海外移籍以降は正GKの座を掴み、同年のナビスコカップ決勝では当時黄金期のジュビロ磐田とのPK戦では3本もPKをセーブしMVPに輝く。その後移籍した神戸でも、チームの成績の安定化に大きく貢献した。
現在は育成年代に関わると共に、ブラインドサッカー日本代表の活動も行っている。
DF2 手島和希
(東福岡高等学校→横浜フリューゲルス→京都パープルサンガ→ガンバ大阪→京都パープルサンガ/京都サンガF.C.)
日本代表(2003)
負傷がちなところは難点ではあったが、京都の守備の要として3度のJ1昇格や天皇杯優勝に大きく貢献。若くして京都のディフェンスリーダーとなった活躍が評価され、最終的に出場はならなかったものの2003年にはジーコジャパンにも複数回招集されるなど、当時の日本代表監督であるジーコからも高い評価を受けていた。横浜フリューゲルス、ガンバ大阪への所属経験があるものの、何故か生え抜き感の強い選手である。
引退後は京都の育成部門に入り、現在は京都U-18で監督を務めている。
DF3 辻本茂輝
(近畿大学付属高校→横浜フリューゲルス→京都パープルサンガ→徳島ヴォルティス→佐川印刷SC→FC大阪)
手島和希、遠藤保仁と共に横浜フリューゲルス同期入団→京都パープルサンガ所属でワールドユースに出場した。ワールドユースでは全試合に出場したものの、その後の所属クラブでは怪我がちなところもあってコンスタントに出場機会を得るには至らなかったが、京都では天皇杯優勝と2度のJ2優勝を経験している。
引退後はヴィッセル神戸のアカデミーコーチを経てガイナーレ鳥取のコーチに。2019年からは関西サッカーリーグ1部のFCティアモ枚方の監督を務めるなど、指導者として着実にキャリアを積み始めている。
DF4 石川竜也
(筑波大学→鹿島アントラーズ→東京ヴェルディ1969→モンテディオ山形)
当時19人中唯一の大学生として出場し、大会の3年後の2002年には鹿島に入団。鹿島では相馬直樹、新井場徹など厚い選手層の前に定位置獲得とはならなかったが、東京Vを経て2007年に移籍した山形では絶対的な存在として活躍し、勝てばJ1昇格となる愛媛FC戦ではFKから同点ゴールを決めるなど大車輪の活躍を見せた。
2017年まで山形で11年プレーした後、同クラブで引退。現在は山形のアカデミースタッフを務めている。
DF5 加地亮
(滝川第二高等学校→セレッソ大阪→大分トリニータ→FC東京→ガンバ大阪→チーバス・USA→ファジアーノ岡山)
W杯(2006)
コンフェデ杯(2005)
日本代表64試合2得点(2003〜2008)
Jリーグ功労選手(2018)
ワールドユースの翌年に出場機会を求めて移籍した大分を経て2002年から加入したFC東京で選手として大きく開花。2003年に日本代表に初招集されると、2008年の代表引退までほぼ毎回招集される程の選手となり、2度のアジアカップと2006年ドイツW杯にレギュラーとして出場した。2006年に移籍したG大阪では中盤と攻撃陣が注目されがちなチームで絶対に欠いてはならない選手の1人として君臨し、ピッチ内ではいぶし銀的な選手だった反面、ファン感謝デーではこれでもかと前面に出ていく姿も印象的だった。ファン感などでのおちゃらけた面の一方で、グラウンドには誰よりも早く来て体のケアを行うなど、ストイックなエピソードも多く知られている。
現在は夫婦で経営しているサロンやレストランの仕事の傍ら、解説者としても活動。特に2018年はW杯経験者かつ、G大阪時代の監督だった西野朗氏が日本代表監督に就任した事もあり、ロシアW杯前後は各番組に引っ張りだこに。やべっちFCでは西野監督のモノマネを生放送でぶっ込んでスベる。
MF6 稲本潤一
(ガンバ大阪ユース→ガンバ大阪→アーセナル→フラムFC→WBA→カーディフ・シティ→WBA→ガラタサライSK→アイントラハト・フランクフルト→スタッド・レンヌ→川崎フロンターレ→北海道コンサドーレ札幌→相模原SC)
アジア杯(2000)
オリンピック(2000)
日本代表82試合5得点(2000〜2010)
小野伸二と並び、当時この世代でトップと言える存在だったがワールドユースでは負傷の影響もあって不調に終わった。だがその後はシドニー五輪、アジアカップ優勝、コンフェデレーションズカップ準優勝にレギュラーとして貢献し、若くしてトルシエジャパンに欠かせない存在となる。2002年日韓W杯では2得点を挙げ、特にロシア戦は稲本のゴールが決勝点となり日本にW杯初勝利をもたらし、日本サッカーの歴史に大きな足跡を残した。海外ではアーセナルでは苦しんだものの、ガラタサライではチャンピオンズリーグに出場し、得点も挙げる。
黄金世代の中でも比較的長く代表に呼ばれ続け、ドイツW杯、南アフリカW杯にも出場した後、川崎、札幌を経て今季からはJ3の相模原でプレー。
MF7 酒井友之
(ジェフユナイテッド市原ユース→ジェフユナイテッド市原→名古屋グランパスエイト→浦和レッドダイヤモンズ→ヴィッセル神戸→藤枝MYFC→ペリタ・ジャヤ→ペルセワ・ワメナ→ペリシラム・ラージャ・アンパット→デルトラス・シドアルジョ)
オリンピック(2000)
日本代表1試合0得点(2000)
ワールドユース後も世代別代表の常連となり、2000年シドニー五輪ではレギュラーとして全試合に出場。この年の12月にはA代表デビューも果たす。クラブでは市原退団後、名古屋でプレーした後2004年途中に入団した浦和ではJリーグ優勝も経験。神戸を退団してからは、当時静岡県リーグだった藤枝を経てインドネシアの数チームでプレー。
現在はスタッフとして浦和の育成に携わっている。
MF8 小笠原満男
(大船渡高等学校→鹿島アントラーズ→ACRメッシーナ→鹿島アントラーズ)
アジア杯(2004)
日本代表55試合7得点(2002〜2006、2010)
JリーグMVP(2009)
日本年間最優秀選手賞(2009)
ワールドユース後はトルシエ監督率いる世代別代表からは遠ざかったものの、選手層の厚い鹿島で若くしてポジションを掴み三冠やリーグ連覇に貢献。特に2001年チャンピオンシップ磐田戦でのFKは語り草で、その活躍が認められて逆転で2002年日韓W杯メンバー入りを果たした。ジーコジャパンではコンスタントに出場機会を得て、4年後のドイツW杯ではレギュラーとしてプレーしている。イタリアへの移籍から復帰した後は、文字通り鹿島の大黒柱、精神的支柱として君臨し、2009年にはMVPを受賞。東北出身選手として、東日本大震災の際には接客的な活動を行った。
鹿島で17つものタイトルを獲得し、唯一獲得出来ていなかったACLのタイトル獲得を最後に昨季をもって引退。今季からは鹿島のアカデミー・アドバイザーに就任した。
FW9 高原直泰
(清水東高校→ジュビロ磐田→ボカ・ジュニアーズ→ジュビロ磐田→ハンブルガーSV→アイントラハト・フランクフルト→浦和レッズ→水原三星ブルーウィングス→清水エスパルス→東京ヴェルディ→SC相模原→沖縄SV)
W杯(2006)
オリンピック(2000)
日本代表57試合23得点(2000〜2008)
JリーグMVP(2002)
Jリーグ得点王(2002)
アジア杯得点王(2007)
日韓W杯ではエコノミー症候群により落選、ドイツW杯で不調により不完全燃焼とW杯では結果を残せなかったものの、ワールドユースやシドニー五輪、アジアカップ2000など日本代表の歴史の中で重大な役割を果たし、今でも日本代表史上最高のストライカーとの呼び声が高い。黄金期の磐田では中山雅史とのツートップでゴールを量産し、2002年には得点王とMVPをW受賞。2003年からはドイツに渡り、ハンブルガーSVではオリヴァー・カーンの無失点記録を止めるゴールを奪い、フランクフルトでは06-07シーズンに11得点を挙げてサポーターが選ぶMVPに選ばれるなど結果を残した。
2008年に加入した浦和では期待度の割に結果を残せなかったが、水原、清水では存在感を見せ、その後は東京V、相模原を経て現在は自身が代表、監督、そして選手を務める沖縄SVで活動している。
…はい、前編はここまで。
後編も見てね!
マッチレビューのタイトル浮かばない時は誰かの歌詞に頼る習性。
ではでは(´∀`)