トイストーリーはやっぱり出来れば3で終わって欲しかった…。
どーもこんばんは
さてさて、以前はガンバ大阪の歴代監督を振り返ろう企画をやりました。
今回は1996年からJリーグに参加した京都サンガFC編です!参入当時は「京都パープルサンガ」でしたね。
サンガの歴代監督は今年から指揮を執る實好礼忠監督で21人目(代行監督も含めると24人目)。今回からは代行監督を除くサンガの歴代全監督を振り返っていきます(代行ではあるものの与那城ジョージ監督だけは半年指揮を執ったのでカウントします)。
初代監督
オスカー
在任期間:1995年〜1996年6月
国籍:ブラジル
Jリーグ成績:1996年16位(途中まで)
サンガ以外の主な監督キャリア:日産自動車(1989〜1991)、アル・ヒラル(1993〜1995、1997)、クルゼイロEC(1997)など
サンガ以外での主な実績:天皇杯優勝(1989、日産)、JSL1部優勝(1990、日産)、JSL杯優勝(1990、日産)など
ブラジル代表として3度のワールドカップに出場し、1987年に横浜F・マリノスの前身である日産自動車に入団。Jリーグ開幕以前に来日したガチのマジのトッププレイヤーという意味で先駆者ともされている。
サンガでは1995年に監督に就任し、その年にサンガをJリーグの舞台へと引き上げた。しかしJリーグの荒波は凄まじく、サンガは開幕から怒涛の16連敗。15敗目を喫した時点でオスカー監督は解任されている。
(2代目)監督
在任期間:1996年6月〜1996年12月
国籍:日本/ブラジル
Jリーグ成績:1996年16位(途中から)
サンガ以外の主な監督キャリア:読売サッカークラブ(1986〜1990)、FC琉球(2004〜2006)、ギラヴァンツ北九州(2007〜2010)など
サンガ以外での主な実績:天皇杯優勝(1986〜1987、読売)、JSL1部優勝(1987)など
日本サッカーの偉人の1人であり、読売サッカークラブ(現:東京ヴェルディ)のレジェンドと呼べる存在。長らく読売に選手・監督として在籍していたがJリーグの開幕は名古屋のヘッドコーチとして迎え、1994年にサンガのヘッドコーチに就任。
オスカー監督解任に伴う監督代行だったので正式な監督就任では無いが、最終的に1996年は当時の試合数の半数にあたる15試合を指揮している。最下位脱出は叶わなかったが、与那城監督が率いた期間は8勝7敗で勝ち越しており、後半戦だけ見れば16チーム中8位とチームを建て直した。
2代目監督
ペドロ・ローシャ
在任期間:1997年
国籍:ウルグアイ
Jリーグ成績:1997年14位(1st13位/2nd16位)
サンガ以外の主な監督キャリア:スポルティングCP(1988〜1989)、インテルナシオナル(1996)など
現役時代はウルグアイ代表で、またペニャロールやサンパウロといったクラブで活躍した1960〜1970年代のウルグアイを代表する選手の一人。
成績は振るわず1年での退任となったが、監督交代の多いサンガにとって初めてフルシーズンで通年で監督を務めた人物となった。しかもその後途中解任なくフルシーズン監督を務めるのは2001年のゲルト・エンゲルス監督の時。それまで監督途中交代を繰り返す事になる。
3代目監督
在任期間:1998年〜1998年6月
国籍:オランダ
Jリーグ成績:1998年1stステージ15位(途中まで)
サンガ以外の主な監督キャリア:日本代表(1992〜1993)、ジュビロ磐田(1994〜1996、2008)、浦和レッズ(2002〜2003)など
サンガ以外での主な実績:ダイナスティカップ優勝(1992、日本)、AFCアジアカップ優勝(1992、日本)、ナビスコ杯(2003、浦和)など
日本サッカー殿堂入りを果たすなど、日本サッカーの発展に大きな役割を果たした人物である事はもはや言うまでもない……が、松永成立、大嶽直人、森保一、黒崎比差支などドーハの悲劇の時のメンバーを揃えながらサンガでは低迷を余儀なくされ1stステージ終了を待たずに辞任。多分ほとんどの人がサンガで監督をやっていたこと覚えてなさそう…。
4代目監督
在任期間:1998年6月〜1999年6月
国籍:日本
Jリーグ成績:1998年13位(1st15位(途中から)/2nd11位)、1999年1stステージ14位
サンガ以外の主な監督キャリア:横浜マリノス(1991〜1994)、アビスパ福岡(1996)、ベガルタ仙台(1999〜2003)など
サンガ以外での主な実績:天皇杯優勝(1991〜1992、日産)など
日産自動車、横浜Mで監督としての実績を積み、1998年のオフト監督就任と同時にヘッドコーチとしてサンガに加入した。その後、オフト監督が早い段階で辞任したことで6月からサンガの監督に就任している。
1998年の2ndステージでは勝ち越しに成功して残留に何とか成功したが1999年は序盤から奮わず1stステージ終了後に退任し、仙台の監督に就任。仙台は2001年に今尚語り継がれる劇的なJ1昇格を決めたが、その劇的な試合を演じたロケーションは古巣である西京極でのサンガ戦だった。
5代目監督
在任期間:1999年6月〜2000年6月
国籍:日本
Jリーグ成績:1999年2ndステージ9位、2000年1stステージ16位
サンガ以外の主な監督キャリア:日産自動車(1974〜1989)、横浜フリューゲルス(1991〜1994)、日本代表(1994〜1997)など
サンガ以外での主な実績:天皇杯優勝(1983、1985、1989、日産/1993、横浜F)、JSL1部優勝(1989、日産)など
こちらも後に日本サッカー殿堂入りを果たす事となる指導者。1997年に日本代表の監督を解任されて以来となる監督復帰の場となった。オスカー、ローシャ、オフト、清水秀彦…といったサンガの有名人監督路線は一旦この加茂監督で終わる。
1999年2ndステージは9位に入って残留争いの一番エグいゾーンには巻き込まれずに済んだが、2000年は1stステージで僅か2勝と大幅に出遅れて解任された。その後大学サッカーでは監督を務めているが、プロレベルでは現時点でサンガが最後の監督歴となっている。
6代目監督
在任期間:2000年6月〜2003年6月
国籍:ドイツ
Jリーグ成績:2000年2ndステージ12位、2001年優勝(J2)、2002年5位(1st7位/2nd6位)、2003年1stステージ16位(途中まで)
サンガ以外の主な監督キャリア:横浜フリューゲルス(1998)、浦和レッズ(2008)、モザンビーク代表(2011〜2013)など
サンガ以外での主な実績:天皇杯優勝(1998、横浜F)など
伝説となった横浜フリューゲルス天皇杯優勝時の監督で、即ちフリューゲルス最後の監督。2000年の加茂監督解任を受けて2ndステージサンガの監督に就任した。前半戦の出遅れが響いて降格は免れなかったが、2ndステージの成績はそこまで悪くなかった事で翌年も留任。J2では若手を積極的に起用しながらJ2優勝とJ1復帰を果たすと、翌2002年には黒部光昭、朴智星、松井大輔の3トップを軸に天皇杯優勝にチームを導く。天皇杯優勝も然りだが、この年はリーグ戦でも年間順位で5位にまで上り詰めていた事も大きく評価されるべきポイントである。
2003年は開幕から大きく出遅れた事で解任されたが、2004年から浦和のヘッドコーチに就任するとギド・ブッフバルト、ホルガー・オジェックといったドイツ人監督の下でチームの黄金期を支えた。2019年には中田一三監督が就任したサンガに1年だけヘッドコーチとして復帰。同年の躍進に大きな貢献を果たしている。2020年からはINAC神戸レオネッサの監督に就任。
7代目監督
在任期間:2003年7月〜2003年11月
国籍:オランダ
Jリーグ成績:2003年2ndステージ14位(途中まで)
サンガ以外の主な監督キャリア:大宮アルディージャ(1998〜1999)、韓国代表(2006〜2007)、オーストラリア代表(2007〜2010)など
サンガ以外での主な実績:FIFAワールドカップ出場(2010、オーストラリア)、ロンドン五輪出場(2012、U-23モロッコ)など
アジアを中心に長年活躍したオランダ人監督。サンガの残留を託され2003年7月から監督に就任した。就任直後は強豪の鹿島や今まで全く勝てなかった磐田に勝利するなど幸先の良い滑り出しだったが徐々に失速。結局、シーズン終了を待たずに監督の座を追われる事になる。
サンガを去った後は韓国代表、オーストラリア代表、U-23モロッコ代表、オマーン代表の監督を歴任。オーストラリアでは南アフリカW杯に出場し決勝トーナメント進出はならなかったがドイツ、セルビア、ガーナと同居した厳しいグループで勝点4を獲得し爪痕を残した。韓国代表コーチ時代を含めると2002年日韓W杯から3大会連続でW杯に参加している。オーストラリアを率いた2009年にはアジア最終予選で、U-23モロッコ代表を率いた2012年にはロンドン五輪で、オマーンを率いた2019年にはアジアカップで日本代表とも戦った。
8代目監督
在任期間:2004年〜2004年6月
国籍:日本
Jリーグ成績:2004年5位(J2)(途中まで)
サンガ以外の主な監督キャリア:U-20日本代表(1999〜2001)、セレッソ大阪(2001〜2003)など
G大阪ユースやワールドユースに挑む日本代表など育成年代で実績を積み、C大阪でも一定の成績を収めた事を評価され、一年でのJ1昇格を義務付けられたサンガの監督に就任。しかし、当時のJ2では圧倒的な戦力を有していたにも関わらず17試合を終えた時点で5勝7分5敗という成績により解任されている。
その後はC大阪のフロントを経てJFAの技術委員長に就任。ロンドン五輪を目指す日本代表の暫定監督としてトゥーロン国際大会などに出場した。
9代目監督
在任期間:2004年6月〜2006年10月
国籍:日本
Jリーグ成績:2004年5位(J2)(途中から)、2005年優勝(J2)、2006年18位(途中まで)
サンガ以外の主な監督キャリア:モンテディオ山形(2001〜2003)、栃木SC(2007〜2008)、ギラヴァンツ北九州(2013〜2016)など
西村監督の解任に伴い、2004年途中からサンガの監督に就任。序盤の出遅れも響いて2004年は5位に終わったが、翌2005年はパウリーニョとアレモンの2トップを軸にした合理的な戦い方でJ2を独走。ぶっちぎりの優勝でJ1復帰に導いた。
しかし殆ど補強を行わずに挑んだ2006年は力の差を見せつけられてC大阪、福岡と共にシーズンを通してずっと16位以下に沈み、第25節で浦和に1-5の大敗を喫したタイミングで解任。だが、2005年に京セラと立命館宇治高校と共同で設立した「スカラーアスリートプロジェクト」の提案・創設に携わり、今では結構優秀と言われるサンガの育成組織を整備した事は監督として残した成績以上に評価されるべき部分。
10代目監督
在任期間:2006年10月〜2007年10月
国籍:日本
Jリーグ成績:2006年18位(途中まで)、2007年3位(J2)(途中まで)
サンガ以外の主な監督キャリア:徳島ヴォルティス(2008〜2011)、AC長野パルセイロ(2013〜2015)など
初代主将も務めたサンガで1995年に引退した後は、ユースの監督なども務めながら長らく育成組織に関わった後に2004年からトップチームコーチに就任。柱谷監督の解任により残留を目標に残り9試合の指揮を執る事になったが、これが初のトップチーム監督となった美濃部監督には酷なミッションでもあった。降格は喫したものの翌2007年も留任し、7月以降は2位以内をキープするなど札幌、東京Vと激しいデッドヒートを繰り広げるが、湘南、福岡に2戦連続終了間際に同点に追いつかれて4位に落ちたタイミングで監督を解任される。余談だが、美濃部監督の解任を決定付けるゴールを決めたのは布部陽功だった。
その後は徳島や長野など下位カテゴリーのチームで監督を務める。徳島時代には柿谷曜一朗を育てた事で、柿谷が大ブレイクを果たした2013年頃は各種メディアでエピソードが取り上げられたりもした。
次回に続く!
みんな斜めを見てるよね。
ではでは(´∀`)