検察庁法改正案云々の話とか今日のワイドナショーを少し見て昨今の芸能人の政治的発言だのそもそもTwitter上の風潮について思うところをば〜「正論」とはなんぞや編〜

ヴィクトリアマイル、無事惨敗。

 

どーもこんばんは

 

 

さぁ、今回のブログですが、珍しくちょっと重めの話をしようかと(別に競馬に負けたからって訳じゃない)。


今週の大きな話題と言えば、もう新型コロナウィルス関連についてはある種の殿堂入りとして……「#検察庁法改正案」についてのハッシュタグTwitter上で一躍ムーヴメントとなった事でしょうか。

…先に言っておくと、ここで検察庁法改正案の是非を書くつもりはありませんし、賛成だの反対だのは皆さんご自身で調べて頂いて、その上で自分の答えを持って頂ければと思います。

今回のテーマは「芸能人の政治的発言の是非」について……です。

 

 


まぁ、そもそも私自身、これまでTwitterでも呟いてこなかったテーマをわざわざここで言い出したのは昨今の流れだったり、今回の件だったり、今日のワイドナショー指原莉乃さんの発言が話題になってたり…というところでもあるんですが。
というか、別に芸能人に限った話でなく、もっというなら私個人の政治的な事に対する考えでもなく、政治的な話そのものについてというか、その他諸々も含めたの昨今のTwitterなど流れ…に対して思うところは結構あるんですよね。なんなら、政治じゃなくて他のところでも。突き詰めると政治の話じゃなくて若干倫理的な話なのかも。やべぇな、テーマがガンガンずれまくってるぞ…。

 

 


まず大前提として、この国には表現の自由=意志を発信する事の自由があります。
物事に対して意見を言う事は権利の一つであり、当然ながら発言には責任が伴いますから発言内容に関しては批判される事も致し方ないですが、少なくとも発言した事そのものについて批判するのは筋が違うと言えるでしょう。それと同時に、発言しないという選択もまた一つの権利であるという事。発言する、しない……そのスタンスを批判する権利を持つ者は誰もいない、というのがまず大前提です。
今回の件に絡めて芸能人的に言うならば、一国民として意見を発信する事も自身のインフルエンサー的な影響力を考慮してコメントを控える事も「権利」であり「自由」ですから、「黙ってろ」という批判も「これについてコメントしろ」という批判もどちらにしてもズレてると思うのです。


その上で昨今、芸能人含め名のある人がそういう発言をしにくい理由は当然ながら、それをする事で多くのバッシングがある、批判が巻き起こるという事が一番多いです。それは言うまでもありません。
…が、それについては発言者側もある程度予測している事というか、反対側の意見を持つ人は少なくとも肯定はしないだろうという予想は少なくとも発言する時点で誰もが出来ているはず。むしろそうなってくると、厄介なのは「過激な肯定派」の存在になってきてしまうのです。

 

今回の件でもそうですが、政治的なツイートをした事で「政治的な意見を言ってくれたから好き」というタイプの肯定派が出てきます。そういう方達は例えば、これがミュージシャンなら「音楽<政治的発言」でその人を見る事になり(今や某お笑い芸人さんとか完全にファン層がそうなっちゃってますよね…)、それこそワイドナショーの中で松本人志さんが言っていたように次に同じことが起こった時にも前回と同様のスタンスでの意見を求めてくる、それが為されなかった時に「失望した」という印象を勝手に持ってしまう、それを繰り返す事で勝手に「その人はそういう人」という偶像を作り上げられてしまうのです。正直なところ、このタイプの発言に慎重な著名人が最も恐れているのは批判以上に肯定派が変に仲間扱いしてくる事なんじゃないかなと思います。

 

結局のところ、昨今の日本…別に日本に限った話でも無いのでしょうが、政治的な意味でTwitterなどで発信力を持つ人って基本的に極論の人が多いと思うんですよ。政治的な意見や考えは人それぞれですから、例えば「この論争については与党寄りの意見だけど、あの論争については野党寄りの意見です」という事も全然あっていい訳です。ただ、最近は「あの論争で与党側につくならのの論争でも与党側につけ」「あの論争で野党側につくならこの論争でも野党側につけ」…そんな風潮が強くなっていませんか?もう、右100%か左に100%じゃないと許されないみたいな。これが少しで9:1になると、その1を巡って「がっかりした」「丸め込まれたか」「カネ貰ったか」とか…。そういうヒステリックな反応が積み重なれば積み重なるほど、自分の意見とスタンスを表明する事に対して「……でも、この意見を言って『仲間』って勝手に思われたら面倒だな…」となってしまう事が、この類の話をやっぱりしにくい理由なんじゃないでしょうか。

 

 

 

別に政治的なネタに限った話ではなく、最近のTwitterを見て思うのが誰しもが余りにも100%を、それも自分の思う100%を他人の意見に求めすぎているという事。昨年の大型台風が関東地方を襲った時、被災地に吉野家がキッチンカーを出店した際に「なんで無償提供じゃないの?」という理不尽な批判がごく一部で出たりもしましたが(さすがにこれは極々一部だけでしたが)、昨今のコロナ禍にまつわるアレコレとか、芸能人のスキャンダルにしたって、著名人など強い影響力を持つ他人に自分の代弁者となる事を求め過ぎているように見えます。結局それが時に理不尽な大炎上を巻き起こしたり、的外れに勝手に偶像崇拝をするハメになって勝手に裏切られて文句を言うような事態を引き起こしたり…。SNSの発展は間違いなく人類に大きなメリットを与えました。受けたものは損害よりも間違いなく恩恵の方が大きいです。ただし、その手軽さと身近に色んなところにアクセスできるようになった結果、明らかに倫理的バランスを失った人は多くなったのではないでしょうか。だからこそ、意見を言う事は大事だけれど、意見を言うにあたって自分の中での編集と確認の作業は必要だろうとより強く思う訳です。

 

 

 

昔はそんなに思ってなかったけど、最近になって嫌いになった…というか、極力使わないようにしている言葉があります。それは「正論」という言葉です。

 

せい‐ろん【正論】 道理にかなった議論。「―を吐く」

(広辞苑より)

 

言葉の意味は時代と共に変わる…とはよく言います。しかし最近の「正論」という言葉が使われる場面は「道理にかなった議論が為された時」ではなく「自分の意見と同じことを言ってくれた時」になってしまっているんじゃないでしょうか。要するに、正論という言葉のイメージででそれがあたかも正解かのように言うけれど、今のこの言葉の使われた方はあくまで「支持」だったり、せいぜい「同意」くらいの意味にしかなっていません。そしてその程度の意味でしかなくなってるけど、元の言葉のイメージを使って物事を正しく見せる事が出来る便利な言葉になってしまったというか。どっちが正しいかなんてこの際関係なく、自分の考えに近ければ「正論」、自分の考えと逆なら「邪論」…これが染みこみ、極端な意見を持つ人の声が大きくなった土壌が今、Twitterなどでこういう話を避けたいと思う人が多い根底にある気がします。

 

 

 

話逸れたなぁ…。

ではでは(´∀`)