BLUE VACATIONは圧倒的にライブ版の方が好き
あっ、BOØWYの話です。
どーもこんばんは
さてさて、9月2日のオマーン戦よりカタールW杯アジア最終予選が開幕します!!
今回の会場はパナソニックスタジアム吹田です。関西では初めてとなる最終予選開催…なんとか勝点3をもぎ取り、カタールまで突っ走っていって欲しいです。
さて、W杯予選だろうがどのコンペティションだろうが、いつもいつもいつもいつも毎回毎回毎回毎回言われる事ですが、やはり最も大事なのは「初戦」です。いつもいつもいつもいつも毎回毎回毎回毎回言われる事ですが、いつもいつもいつもいつも毎回毎回毎回毎回言われるだけの重要性はやっぱりあります。
…という訳で今回は、過去のW杯アジア最終予選の初戦を振り返っていきたいと思います。
↓
1994FIFAワールドカップアメリカ大会アジア最終予選第1節
日本0-0サウジアラビア
1993年10月5日18:15@ハリーファ国際スタジアム
【登録メンバー】
MF8 福田正博(浦和レッドダイヤモンズ)
監督 ハンス・オフト
いわゆる「ドーハの悲劇」に続く最終予選の初戦。この時の最終予選はカタールのドーハでのセントラル開催として行われた。
この年はJリーグ元年。いわばバブル状態だった為、代表人気も当然ながら鰻登りである。一方で、当時の代表チームを取り巻く環境は壮絶だった。アマチュアからプロリーグに変わった事による様々な変化は勿論、当時のJリーグは延長・PK戦まで行われており、更に開幕が5月だった事からほぼ全試合を2日に1試合のペースでこなしていた。これによりチームは既に満身創痍になっており、直前のスペイン合宿の目的は「疲労回復」とオフトも認めていたほどの状態で、まともなコンディションで挑めた選手などほぼおらず、特に不動の左SBだった都並が欠場した穴は最初の2試合がボランチの三浦泰年、後の3試合がCBの勝矢寿延が担わなければならなかった。ドーハの悲劇を語る時は、まずこの辺りを把握しておく必要がある。
それを思えば、当時は間違いなくアジア最強で、アメリカW杯ではベスト16まで進む事になるサウジアラビア相手に引き分けを取れたのはかなり大きかったと思う。しかし結果的には、次のイラン戦に敗れた事が最後まで尾を引く結果となった。
1998FIFAワールドカップフランス大会アジア最終予選グループB第1節
日本6-3ウズベキスタン
1997年9月7日19:06@国立競技場
日本得点者:三浦知良(4分、23分、64分、80分)、中田英寿(40分)、城彰二(44分)
ウズベキスタン得点者:オレグ・シャツキフ(56分、77分)、アンドレイ・フョードロフ(69分)
【登録メンバー】
MF22 平野考(名古屋グランパスエイト)
DF28 中西永輔(ジェフユナイテッド市原)
監督 加茂周
フランスW杯予選の日本代表のプレッシャーは本当に壮絶だったと思う。W杯出場が現実的な目標になった一方、今とは違って日本の立場は当落線上のような位置だった事に加え、当時はファン・サポーターもどこか殺気立っていた。その上、2002年の自国開催が決まったいた日本にとって「自国開催(要するに予選免除)が初出場」という事態だけはなんとか避けたかったのだ。ドーハの悲劇の記憶も生々しい中で、今では考えられないほどの壮絶な空気がそこにはあったと思う。
対戦相手のウズベキスタンはグループの中ではカザフスタンと共に格下扱いだった。しかし三浦の4得点で攻撃陣は好調を見せたものの、前半を4-0で折り返したにも関わらず、勝利こそしたが後半だけで3失点を喫してしまい、必然的に不安は増す初戦の勝利だった事は間違いなく、そしてその不安は現実のものとなる。UAEに引き分けた日本は、続く韓国戦…未だに語り継がれる逆転負けを喫し、そして格下カザフスタンにもドロー。結局、加茂ジャパンはウズベキスタン戦以降勝てなかったのである。そしてドラマは加茂監督の解任、そして岡田監督の就任と更なる激動のストーリー展開を見せるのだった。
2006FIFAワールドカップドイツ大会アジア最終予選グループB第1節
日本2-1北朝鮮
2005年2月9日19:31@埼玉スタジアム2002
北朝鮮得点者:ナム・ソンチョル(61分)
【登録メンバー】
GK1 楢崎正剛(名古屋グランパスエイト)
MF6 中田浩二(オリンピック・マルセイユ)
DF14 三都主アレサンドロ(浦和レッドダイヤモンズ)
監督 ジーコ
前回大会(日韓W杯)では自国開催につき予選が無かったので、W杯予選を戦うのは実に8年ぶり。久々の予選ともあって、当時のメンバー18人のうち、前回大会の予選を経験したメンバーはGKの2人と中田英寿くらいなものだった。一方、当時の日本は海外組が増え、かつ日韓W杯ベスト16とアジアカップ2連覇という実績を手にした日本にとって、このドイツW杯予選は初めて「W杯は出て当たり前」という立場で戦う事になった大会だったとも言える。
海外組を招集した事で、それを中心にしたメンバーが予想されたものの、ジーコ監督は意外にも前年のアジアカップ優勝を果たした国内組メンバーを中心とした3-5-2を採用。試合も開始早々に小笠原がFKを叩き込んで幸先よく先制する。しかしその後は「日本とは違う意味のプレッシャー」を背負う北朝鮮と一進一退のオープンな試合展開となった。前半はリードで折り返したものの、61分にはクロスの位置からナム・ソンチョルが放ったシュートがGK川口の衣装を完全について同点に追いつかれてしまう。ジーコ監督は高原、中村の海外組を投入してシステムを4-4-2にシフト。それでも2点目が遠く、そして日本が一方的に押し込めていた訳でもなかった。そんな中でジーコ監督が最後に切ったカードは大黒だった。
選手起用ではかなり保守的なジーコにとって大黒投入は相当な賭けだったようにも思う。前年のJリーグで20得点を獲得したとはいえ、大黒は直前の親善試合でデビューしたばかりの「初招集組」だった。しかし後半ロスタイム、小笠原のクロスをGKが弾いたところに詰めた福西が繋ぐと、最後は大黒が冷静に流し込んで日本サッカー史に残る劇的な決勝ゴールを叩き出す。埼玉スタジアムはかつてないほどのボルテージに包まれ、そして新たなる救世主が生まれた。
これにより、大黒は一躍時の人となる。「神様仏様大黒様」はちょっとした流行語になり、所属するG大阪もオフィシャルショップ内に「ガンバ大黒神社」を健立。更にUNOの大黒モデルまで登場し、Jリーグファンだけが知る良い選手は一夜で国民的スーパースターとなった。そして大黒自身もこれに慢心する事なく、6月の北朝鮮戦でW杯出場を決定付けるゴールを決めれば、コンフェデ杯でもギリシャとブラジル相手に得点するなど勝負強さを見せ、かつ所属するG大阪でと16得点を挙げてチームの初タイトルとなるJ1制覇の立役者となるなど、大黒にとって2005年はまさしく全てを手にした一年だった。
2010FIFAワールドカップ南アフリカ大会アジア最終予選グループA第1節
バーレーン2-3日本
2008年9月6日21:30@バーレーン・ナショナル・スタジアム
バーレーン得点者:サルマン・イサ(87分)、オウンゴール(89分)
日本得点者:中村俊輔(18分)、遠藤保仁(44分)、中村憲剛(85分)
【登録メンバー】
MF9 松井大輔(ASサンテティエンヌ)
FW12 巻誠一郎(ジェフユナイテッド千葉)
MF17 長谷部誠(VfLヴォルフスブルク)
監督 岡田武史
その当時、日本代表というプレミア価値は微妙な立場に侵されていた。ドイツW杯での惨敗もさることながら、同年から就任した岡田監督の下でもまだパッとした結果を出せていた時期ではなく、志半ばで夢が潰えた「オシムジャパンへの未練」をみんながどこか心の中に抱いていた頃だと思う。無論、その風当たりの「底」はここでは無かったのは少し後にわかる事になるのだが……。
それでも当時の日本はセットプレーという必勝パターンを持ち合わせていた。Jリーグ開幕後ではセントラル開催以外で唯一アウェイ開幕となったこの試合ではそれがよく活きた。18分に中村俊輔が直接FKを沈めて先制点を奪うと、44分には遠藤がPKを冷静に決める。このPKもセットプレーからの攻撃で得たものだった。後半は静かな展開が続いたが、終盤には中村憲剛のミドルシュートで3点目。中東アウェイでの初戦をこれ以上ない快勝で終えた……と思ったのも束の間、87分に失点を許すと、89分にはGK楢崎と闘莉王の意思疎通の間にミスが生じ、結果闘莉王のオウンゴールになって一気に2-3。遠藤のPK時にレーザー光線が浴びせられたように過酷な中東で勝点3を掴んだのは大きかったが、快勝ムードは一転、勝利はしたものの「勝った気のしない空気」に包まれていた。
尚、この後長らく確立される事になる遠藤と長谷部のWボランチが定着したのはこの2008年である。余談だが、当時はジーコジャパン時代から各大会で余りにもバーレーンと当たりすぎた為に「またバーレーン」がちょっとした流行語になっていた。
2014FIFAワールドカップブラジル大会アジア最終予選グループB第1節
日本3-0オマーン
2012年6月3日19:30@埼玉スタジアム2002
日本得点者:本田圭佑(11分)、前田遼一(51分)、岡崎慎司(54分)
【登録メンバー】
FW9 岡崎慎司(VfBシュトゥットガルト)
FW10 香川真司(ボルシア・ドルトムント)
MF17 長谷部誠(VfLヴォルフスブルク)
FW19 宮市亮(ボルトン・ワンダラーズFC)
監督 アルベルト・ザッケローニ
今なお「日本代表史上最強」と言われ続けているのがこの時のチームである。この頃の日本代表の完成度と娯楽性、そしてスター性はアジアレベルのそれでは無かった。6万人を超える観衆が詰めかけた埼玉スタジアムを文字通り魅了したのがこの試合と、次のヨルダン戦だったのは言うまでもない。
始まりは11分。得意のパスワークで左サイドを完璧に崩して長友がクロスを上げると、中央に走り込んだ本田がダイレクトで合わせて日本が先制。相手のGKであるアル・ハブシはプレミアリーグで守護神として活躍するほどアジアNo.1GKとして名が知れた存在だったので2点目を取るのに苦労はしたが、それでもワンサイドゲームには変わらなかった。結果、後半開始早々に前田、岡崎と当時のストライカー陣が1点ずつゴールを決めて3-0。圧倒的な実力と華麗なるサッカーで確かな結果を得た。この頃のチームは本当に強かったが、逆説的なものとして…2014年ブラジルW杯での敗因の一つには「チームとしてのピークを迎えるのが早すぎた」との意見も出るほどだった。
なお、この時の初戦の相手であるオマーンとは今回も初戦で対戦する最終予選では無いが、ドイツW杯一次予選の初戦の相手もオマーンだった。
2018FIFAワールドカップロシア大会アジア最終予選グループB第1節
日本1-2UAE
2016年9月1日19:35@埼玉スタジアム2002
日本得点者:本田圭佑(11分)
【登録メンバー】
GK1 林彰宏(サガン鳥栖)
MF10 香川真司(ボルシア・ドルトムント)
MF13 清武弘嗣(セビージャ)
MF16 山口蛍(セレッソ大阪)
MF17 長谷部誠(アイントラハト・フランクフルト)
FW18 浅野拓磨(VfBシュトゥットガルト)
DF19 酒井宏樹(オリンピック・マルセイユ)
監督 ヴァイッド・ハリルホジッチ
「中東の笛」とは基本的に、中東アウェイゲームで起こる現象として知られており、ホームゲームで起こる事はあまりない。だが、この試合ではそれがホームで起こってしまった。
アジアカップ2015のリベンジマッチともなった試合は、早い時間に清武のFKから本田が合わせて幸先よく先制点を奪う。ここまでは良かった。しかしここから問題が発生する。20分に直接FK、54分にPKを決められて逆転を許した日本は宇佐美、浅野、原口とアタッカーを立て続けに投入。最初の事件が起こったのは67分だった。宇佐美が香川とのワンツーで抜け出すと、ペナルティエリアで相手DFに思いっきり押される形になって倒される。しかし笛は鳴らない。更に77分には右からのクロスを本田が頭で折り返して浅野が押し込む。ボールはGKに掻き出されたとはいえ、確かにゴールネットを割っていた。しかし……。Jリーグ開幕以降、日本が最終予選の初戦を落とすのは初めての事だった。
ただし当時の日本代表の閉塞感はなかなかなもので、敗因をジャッジだけに委ねられなかったのも事実である。主力組のコンディション、選手起用、誤審とは言えどもGKに触られてはしまった浅野のシュートを含めた決定機逸…非常に後味は良くない試合となってしまった。
あんなのチケット取れないわ!!
ではでは(´∀`)