1991年10月1日、大阪府吹田市を本拠地とし、俗に言う「オリジナル10」の中で唯一の関西球団として発足したのが【ガンバ大阪】でした。
某重鎮に「ガンバなんて消えてなくなれ!」と言われた日もあれば、ユースから多くの優秀な選手を輩出して「育成大国」と呼ばれた日も。
そして2002年に西野朗監督が就任して以降はクラブは強豪としての道を歩み始めました。2005年の余りに劇的なリーグ初優勝に始まり、2008年にはアジアを制覇。マンチェスター・ユナイテッドとの激戦をリアルタイムで観ていた人は、あの躍動を生涯忘れる事は無いでしょう。
J2降格という未曾有の危機に直面してもJ1昇格即三冠という形で這い上がったガンバは、30周年を迎えて今、再び危機に直面していますが、新エンブレムと共に装い新たに挑む来季以降紡ぐ、新たな軌跡を信じて応援していきたい所存です。
…という訳で、今回は維新の十傑ならぬ脚大の十傑、いえ、ガンバ大阪の十一傑+1を僭越ながら選んでいきたいと思います。
要するに、これまでも当ブログでやってきたベストイレブンや名選手ランキングとはまた異なり、選手のみならず、ガンバ大阪に関わる方々の方の中から「クラブ史に大きな影響を与えた11人+1」を、このガンバ大阪30周年の大晦日に振り返っていこうと。そういう企画でございます。
2021年最後の日、ガンバ大阪30周年の最後の日、過去に思いを馳せ、来年の未来に期待を描きましょう。
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#1 釜本邦茂
生年月日:1944年4月15日
ガンバ大阪での主な役職:監督(1991〜1994)
1991年に全身の松下電器サッカー部監督に就任。そしてJリーグ入りが内定していたガンバにとって、釜本氏は記念すべきガンバ大阪初代監督となった。
監督としての2シーズンでは芳しい結果を残したとは言い難いが、ガンバ大阪の未来への貢献は尋常じゃなく大きい。Jリーグクラブを創設するにあたって、既に下部組織を持っていたヴェルディ川崎と横浜マリノス以外のクラブは一から下部組織を編成する必要に迫られた中で、ガンバは釜本氏が設立、運営していた「釜本FC」がそのままガンバ大阪ジュニアユースとして移管され、上野山信行氏など釜本FCに参加していた指導者もそのままガンバ大阪の所属となった。
他クラブがゼロベースから下部組織を作る、或いは片手間程度にしか手をつけなかった中、ガンバの育成組織が早くから質と評価の両面を確立出来たのは釜本FCという存在があってこそとも言える。
#2 上野山信行
生年月日:1957年5月26日
ガンバ大阪での主な役職:ユース監督(1992〜1996)、強化部長(1997)、取締役(2014〜2019)など
1992年以降、Jリーグ技術委員長を務めていた一時期を除いて2019年までガンバのフロントにいた重鎮。元々は前述の釜本FCで指導者をしていたが、釜本FCがガンバの下部組織になる事に合わせて初代ガンバ大阪ユース監督に就任した。
「育成大国」とも呼ばれるようになったガンバユースの最大功労者と呼ぶべき人物であり、その礎を作ったのはこの上野山氏であり、時代と共にアップデートされつつも上野山氏の育成スタンスは今も活きている。1996年まではユースの監督として宮本恒靖や稲本潤一、橋本英郎に二川孝広や大黒将志らを指導し、その後は強化部長やサテライトコーチ、フロント業務などに従事。ガンバ大阪30周年の歴史を語る上で、必ず触れる必要のある人物である。
#3 西野朗
生年月日:1955年4月7日
ガンバ大阪での主な役職:監督(2002〜2011)
ガンバの歴史を2つに分けるとしたら、多くの人が「前半15年、後半15年」ではなく「西野以前、西野以後」で分ける事であろう。それまでは育成部門の評価は高まっているものの、数年に一度上位争いに絡むだけで下位が定位置だったチームに起爆のきっかけを与え、そして西野体制の10年間で築き上げたサッカーはまさしくJリーグの歴史に残る作品となった。
今もなお「ガンバ大阪」といえば最初に思い浮かぶイメージは西野時代の10年間かもしれない。10年間で5つのタイトルを獲得し、かつ10年間でトップ3を逃したのは僅かに2度。それもそのうちの一つである2008年はACLや天皇杯を制した為、事実上2003年以外は全て成功と呼べる結果に引っ張っている。
西野監督については過去のブログでも何度も書いたのでそちらを見て頂きたいが、間違いなくガンバ大阪というクラブの歴史と流れを変えたのは彼だった。
#4 鴨川幸司
生年月日:1970年7月28日
ガンバ大阪での主な役職:ガンバ大阪ジュニアユース監督(1997〜1998、2004〜2016)、アカデミーヘッドオブコーチング(2019)など
1992年にジュニアユースコーチとしてガンバに入団して以来、2019年までガンバの育成を引っ張ってきた名指導者。ガンバの主力は勿論、日本代表選手や海外組を多く育てた。上野山氏がガンバの育成を築いた人物であるならば、鴨川氏はそれを加速させた、或いは完成させた人物と言うべきだろうか。近年でも東京五輪に出場した堂安律や谷晃生らまで、育て上げた人材は国内でもトップクラスに多い。
本田圭佑、東口順昭、昌子源、鎌田大地、林大地らがガンバのジュニアユースからユースに昇格出来なかったのは有名な話で、その判断が疑問視される機会は確かにある。だが、特に中学年代の選手は身体的な部分も含めて伸びるタイミングは読めない事も踏まえて、それなら無理に昇格させて埋もれさせるより他のチームで羽ばたかせる方が選手にとってもいい…というガンバとしてのスタンスがある事は忘れてはいけない。また、こういった選手が高校や大学で羽ばたくその下地はガンバJrで培った財産であり、鴨川氏らを始めとした指導陣の育成の正しさの一つの形と言っても過言ではない。
#5 宮本恒靖
生年月日:1977年2月7日
ガンバ大阪での主な役職:選手(1995〜2006)、監督(2018.7〜2021.5)など
記念すべきガンバ大阪ユースの一期生。上で釜本FCがガンバ大阪ジュニアユースに移管されたと書いたが、これはあくまで中学年代の話である為、ユース一期生となった宮本は1年生から3年間キャプテンを務め、1994年のJユースカップ優勝の実績を引っ提げてユースからの昇格第1号選手となった。
初年度からコンスタントに出場機会を得て、類稀なインテリジェンスとルックス、そして各世代別代表で主将を務め、若手育成が評価され始めたガンバの象徴とも呼べる選手であり、退団する2006年までガンバの「顔」であり続けた。アカデミーやU-23での指導・監督を経て、2018年7月にトップチームの監督に就任。初めてのユース出身選手であるツネ様は、初めてのユース出身監督ともなっているなど、ピッチ内外でガンバに大きな影響を与えたのは言うまでもない。
ちなみに、日本代表でのイメージやそのキャラクターからすると少し意外ではあるが、実はガンバで正式にキャプテンを担ったのは2000年と2004年の2シーズンしかない。これは代表とガンバと2チーム分の主将を務めなければならない事の負担を考慮したクラブ側の判断もある。
#6 稲本潤一
生年月日:1979年9月18日
ガンバ大阪での主な役職:選手(1997〜2001.7)
ガンバが強豪と呼ばれ出すのは稲本が海外移籍をしてから少し後の事で、当時のガンバは弱小クラブだったが、その中でも育成大国として若手育成では高い評価を得ており、その評価を決定づけた、ガンバユースのブランドを確立させたのは稲本だった。
当時はまだ高校サッカーの方が勢力が強い時代で、Jクラブのユースから稲本のようなタレントが出た事は、関西の優秀な選手がガンバを選ぶ大きな後押しにもなっただろうし、Jリーグの潮流にも影響を与えたと言っても過言ではない。シドニー五輪、アジアカップとガンバの選手として初めて日本代表に定着し、ガンバユース出身選手として初の海外挑戦となるアーセナルへの移籍を果たすその過程は、文字通りガンバやファンにとって希望であった。
#7 遠藤保仁
生年月日:1980年1月28日
ガンバ大阪での主な役職:選手(2001〜2020.10)
もはや説明さえも不要だろう。遠藤保仁といえばガンバであり、ガンバといえば遠藤保仁だった。クラブと共に躍進し、そしてクラブを牽引して、そのクラブのイメージと礎とイコールにしてしまうほどの存在といえば、Jリーグの長い歴史の中で見ても片手で数えられるほどしかいないだろう。ガンバ大阪というクラブにとってヤットさんの存在の意味は、今後どれだけ歴史を重ねても決して色褪せる事はない。2021年シーズンを最後に、遠藤は契約上でも正式にガンバ大阪を離れる事となった。来年はパナスタに敵として訪れる。その瞬間は来てほしくない気持ちと、少しだけ楽しみな気持ちもある。
気になるのは、ガンバがこれから「背番号7」をどう扱うのか。少なくとも遠藤が引退するまでは空き番号になると思う。欠番とするのか、それとも相応しい人材の誕生を待つのか…。
#8 金森喜久男
生年月日:1948年12月5日
ガンバ大阪での主な役職:代表取締役社長(2008.4〜2013.1)
西野監督退任のプロセスとその後の2012年の結果もあってスポーツ面や辞任直前の印象はあまり良いとは言えず、ファン・サポーターの間でも賛否は分かれる。だが、ガンバ大阪を一つの「スポーツエンターテイメント企業」として捉えた時に、彼の功績は大きかった。
悪い意味で当時の万博名物と化していたスタジアムの飲食売店を「美味G横丁」と題して良い意味での名物に昇華させるた事を筆頭に、サービス面の抜本的改革に乗り出しサッカー観戦という体験価値の向上に尽力。そんな同氏の最大の功績はやはり市立吹田サッカースタジアム建設計画を具体化させた事だろう。前任の佐野泉氏が構想して以降、様々な事情で難航し続けていたスタジアム建設は金森氏が形にし、そして後任の野呂輝久氏が完成させた。
#9 長谷川健太
生年月日:1965年9月25日
ガンバ大阪での主な役職:監督(2013〜2017)
クラブ史上初めて、J2という舞台で戦わなければならなくなったガンバ。そんなクラブ史上最も苦しい時期に監督として大阪の地に降り立ったのが長谷川監督だった。
西野監督体制での黄金期の頃から課題とされていた守備面の改善に着手すると共に、清水エスパルスでの監督時代から評価されていた若手の積極起用は、J1に昇格した2014年に実現したJ1昇格即三冠に大きく繋がった。J史上、三冠は2000年の鹿島アントラーズと2014年のガンバの2チームしか達成しておらず、日本人監督で言えば長谷川監督が唯一である。文字通り、ガンバの凋落の危機をV字回復させた。
ちなみに、J1の監督通算勝利数の1位は西野監督で、2位が長谷川監督。1位2位がガンバ関係者というのはどこか誇らしい。
#10 佐野泉
生年月日:1944年7月12日
ガンバ大阪での主な役職:代表取締役社長(2002.6〜2008.4)
多くの人に愛された名物社長であり、ガンバを強豪クラブに育て上げた立役者の一人。10シーズンに渡って指揮を執った西野監督だが、3位まで躍進した1年目に対して2年目の2003年は終了間際の失点が相次いで10位に終わってしまい、西野監督解任論が相次ぐようになったが「親会社にも西野でダメだったら自分が責任を取ると言って納得してもらった」と西野監督続投を各方面に説得し、決断したのはまさに英断だった。西野監督は佐野氏の社長退任後、或いは自身の監督退任後も佐野氏を恩人と慕い続けており、佐野氏が2016年に亡くなる寸前まで定期的に自宅を訪ねていたという。佐野氏もまた、社長退任後はいちファンとして年間パスポートを購入し、亡くなる僅か2週間前(宇佐美貴史のガンバラストゲームとなった2016年名古屋戦)まで観戦に訪れていた。
その人柄は選手や関係者のみならずファンやサポーターからも慕われており「社長グッズを発売したら即完売した」「ファン感謝デーの紅白戦に出場して安田理大に削られた」などエピソードも多い。その一方、加地亮や明神智和、播戸竜二にマグノ・アウベスらを獲得した2006年には新加入選手を集めて「今年は(補強に8億使った。頑張ってもらわな困る」と厳しい面も見せるなど、要はバランスが抜群だったのだろう。
その他にもスタジアムや練習場、選手寮の改修に着手するなど、ガンバが強豪と呼ばれる過程を築き上げたのが佐野氏という事になる。他方、それらを実現する為には佐野氏の前任社長であり、Jリーグ全体が赤字体質だった中でガンバの黒字化に成功させた乾勲氏の功績も忘れてはならない。賛否両論はあるだろうが、基本的にパナソニックからの出向人事である事を踏まえると、比較的ガンバには良い社長が来てくれていると思う。
#11 松波正信
生年月日:1974年11月21日
ガンバ大阪での主な役職:選手(1993〜2005)、監督(2012.3〜2013.1、2021.5〜2021.12)、強化アカデミー部長(2018.7〜2021.5)など
ガンバが「Jリーグのお荷物」と呼ばれていた時代からガンバ一筋でプレー。2005年の優勝を置き土産に引退した「ミスターガンバ」。二桁ゴールこそ1997年の1シーズンのみだったが、献身的なポストプレーや途中出場でも流れを変えてくれる存在は、ピッチ外での影響力を含めてチームと歴史に不可欠な存在だった。
引退後はユースのコーチとして宇佐美貴史や菅沼駿哉らを指導し、トップチームコーチを経て、クラブ史上最大の危機に瀕した2012年にセホーン監督の後任として緊急登板。2018年の強化アカデミー部長就任も、そして2021年の監督就任も、共通しているのはひとえに責任感の大きさだろう。監督として良かったかどうかはともかく、松波監督以外に監督をやってくれる人物はいなかっただろうし、結果的に彼の最新の結果を「降格」から「残留」に変えられたのは良かったと思う。
監督は退任し、2022年からはアカデミーダイレクターとしてフロントに復帰。強化部長時代の働きは良かったので、ここからの活躍にまた期待したい。
+1 橋本篤
生年月日:1973年5月7日
ガンバ大阪での主な役職:マネージャー(2000〜)
ガンバに於いて、まさしく「12番目の選手」という表現がぴったり当てはまる人物。通称"あっちゃん"。21世紀の全てをガンバのマネージャーとして過ごしており、ガンバが階段を駆け上がるその過程において、まさに生き字引と言える存在だろう。
文字通り、自身の全てをガンバのバックアップに捧げるその姿勢は多くの選手・関係者から絶大な信頼を寄せられており、プロフェッショナルをその姿に体現させたような働きは広く知られていて、2020年の天皇杯準決勝徳島戦の前にはゴール裏から横断幕が掲げられた。果たして横断幕を掲げられるほどの存在感を持つマネージャーがどれほどいるだろうか。あっちゃんがいるという幸運は決して当たり前ではない事は、一瞬たりとも忘れてはならない。
今回は橋本氏を挙げたが、この30年を裏から支える人物は当然橋本氏だけではない。トレーナーの桝井周氏や榛葉正太郎氏も来シーズンで20季目の古株である。もちろん、古株でなくても多く名前を挙げるべき人が裏にいる。今年は特にACLがウズベキスタン開催になるなど、例年以上の過酷さを伴うシーズンだった。その貢献は感謝の一言だけでは片付かない。
さぁ、2021年のブログは今回でラストでございます。
ガンバ的には完全にしんどい一年でしたが…来年もまた歴史を背負い、新たな歴史を作る為の戦いが始まります。来たれ2022年!
先日、第1話を更新した「さよならシンボル〜ガンバ大阪、2021年シーズン総括ブログ〜」の第2話は年明け以降にも更新していくので、そちらも宜しくお願いします。
それでは皆様、良いお年を!
ではでは(´∀`)