さて、6月1日です。
「梅雨ですよ!ぼく梅雨ですよ!」とでも広報して回るかのようにお天気にグズつきもみられるようになってきました。
さて、本日6月1日、なんの日かわかりますか?
日本で初めてW杯が開催されてからちょうど20年です。
一瞬「ん?」と思ったアナタ。
その感覚は正しい。
日本にとって、そしてアジアにとってはじめてのW杯開催になった2002年日韓W杯、優勝候補本命のフランスをセネガルが下した衝撃の開幕戦は2002年5月31日。「日韓W杯開幕20周年」は昨日の5月31日なんです。
ただ、この日韓W杯はその名の通り、日本と韓国で共同開催されたW杯です。
開幕戦は韓国、決勝戦は日本でやる事になっていたので、前述の5月31日の開幕戦は韓国のソウルで開催されました。なので、日本にW杯がやってきたのは正確には翌日の6月1日。6月1日に新潟で行われたアイルランドvsカメルーンの試合が「日本で行われた初めてのW杯の試合」になるんですね。
そもそも日韓W杯がどのような経緯で決まったかと言えば、1986年にFIFAの会長に就任したジョアン・アベランジェ会長が「アジア・アフリカでのW杯開催」を方針として打ち出した事がそもそもの発端でした。
当時はJリーグ開幕以前。日本サッカーは決して盛り上がっているエンタメでは無かった時代です。FIFAからすればサッカーの史上拡大の為に、GDPが世界1位のアメリカと2位(当時)の日本でサッカーが大して流行っていない状況をなんとかしたい側面もあって、アベランジェ会長がJFAに対して大会開催の打診を行った事が日韓W杯のスタートでした。
Jリーグ開幕に向けた動きが出来始めてきたくらいのタイミングで、JFAもW杯開催地に立候補を表明。1991年にはW杯招致委員会が発足され、1993年1月には国内での開催都市15ヶ所を選定。しかし、日本が単独開催のつもりで準備を進めていたところ、遅れる形で1993年の11月に韓国が立候補を表明する事に。そこから先の事を具体的に話し始めるとちょっと扱い切れないくらいに話が大きくなるので避けますが…FIFA会長選挙の動乱にも巻き込まれる形になった日韓の招致レースは最終的に、1996年5月31日のタイミングで日本と韓国の共同開催…という形に落ち着く事になります。
ただ、共催になるという事は試合数を日韓で折半する訳で、要するに日本開催の試合数が減る事になります。となると、上で書いた15の開催都市でそのまま開催する訳にも行かなくなる…と。そういう難しさも乗り越え、日韓W杯開催の大役を務め上げたのが5月31日のブログで取り上げた10のスタジアムです。
……ん?15都市…?
あとの5都市ってどこだ?
今回はW杯の日本での初戦から20周年を記念して、「もし2002年日韓W杯が日本の単独開催だったらどこが会場になってたの?」をお届けします。
一応注意事項としては、多分日本が単独開催になっていたとしても、立候補した15都市のうち2〜3都市は落選していたかもしれませんが、共催が決まったタイミングで15の立候補都市から10都市に絞り込む作業を行っているので、今回は5会場とも幻の開催候補都市としてお届け致します。
↓
【日韓W杯、日本側の会場に選ばれた10会場】
【日本側会場として立候補したものの、最終的に開催都市には選ばれなかった都市】
建設計画のあったスタジアム
→青森県営サッカースタジアム(41716人)
1992年1月という比較的早い段階で、当時の青森市長が立候補・青森県知事への協力要請・青森県総合運動公園の拡張設備計画について表明。同年の6月22日には青森市、6月29日には青森県として招致決議案が可決されました。
当初、青森県としてはW杯中は球技専用、大会後に複合スタジアムに改修する考えを持っていましたが、球技専用会場としての計画が優れていた事、当初の整備計画通りに進める事で日本招致にも青森招致にも優位にレースを運びたい事、W杯後のJリーグ公式戦の誘致や市民団体が行った署名活動の結果等も踏まえ、専用スタジアムに建設をシフト。当時発掘調査中だった三内丸山遺跡のところに建設が予定されていた青森県営野球場の近くで、W杯開催決定を以って着工する予定でした。
しかしその後、野球場建設に向けた事前調査の過程で三内丸山遺跡が従来の縄文時代の定説を大きく覆すような大発見である事がわかり、野球場もサッカースタジアムも建設予定地をそのまま保存する方針にシフトされた事で野球場は建設計画は中止せざるを得ない状況になり、サッカースタジアムも建設地を再考する必要に迫られました。その後は青森県総合運動公園を移転もしくは拡張する考えも検討されましたが、同じ東北の宮城県に敗れる形で落選しました。
当初の計画では青森が積雪地帯である事も踏まえて、スタンドの下に多目的体育館を併設し、屋内で出来るスポーツ施設もいくつか設置する予定だったとの事。その後は2003年のアジア冬季競技大会開催の為に新青森県総合運動公園を建設。2019年には新たな陸上競技場である「カクヒログループ アスレチックスタジアム」が完成し、JFLのラインメール青森が本拠地として使用しています。
・千葉県市原市
建設計画のあったスタジアム
→千葉県立スタジアム(48500人)
当初はJR八幡宿駅の近くに千葉県が土地を購入し、その他に48500人収容のスタジアムを建設する計画が進められていました。市原市に本拠地を置くジェフユナイテッド市原(千葉)は、当時の本拠地である市原臨海競技場に少なくない問題を抱えていた事もあって、スタジアム完成後はジェフが移転することを前提に計画を推進。しかしこの計画は全て市原市へのW杯招致を前提に進められていたので、韓国との共催と千葉県の落選が決まった時点で計画は凍結されました。
ただ土地は既に確保してしまっていたので、凍結から暫くは「運動広場」と称して原っぱ状態のスペースを開放されていましたが、空き地に近い状態が続いていた事からジェフのスタジアム建設も含めた何らかの形で有効活用していくべきとの風潮が強まり、ジェスのスタジアム計画こそ市原市の財政難を理由に実現しなかったものの、2005年には3面の天然芝グランドと1面の人工芝グランドにクラブハウスを設置した「市原スポレクパーク」が完成。2019年にはスーパーラグビーのサンウルブズの国内練習拠点にもなりました。なお、ジェフのスタジアム計画は本計画とは別軸のところで進められ、2005年には千葉市に千葉市蘇我球技場(電子アリーナ)がオープンしています。
・愛知県豊田市
建設計画のあったスタジアム
→豊田スタジアム(62300人)
開催候補都市を15→10に絞る過程は、メインスタジアムになり得る条件を揃えた横浜と埼玉の2会場がまず決定。次いで計画の具体化+地域バランスの観点から札幌・静岡・大阪・大分が決定し、残り4会場をどうするか…という形になっていました。その中で宮城・茨城・神戸の当然と青森・千葉・京都の落選は当初の予想通りになったものの、唯一の波乱と言われたのが新潟が選ばれて愛知が落ちた事でした。
これは新潟が不利というより、新潟と比較した時に愛知に落選する理由が少ないと思われていた事で、愛知は豊田スタジアムという大型の専用スタジアムの建設計画も進んでおり、世界のサッカーで重要なポジションをキープしていた「トヨタカップ」の冠スポンサーであるトヨタ自動車のお膝元、更に既に名古屋グランパスエイトが活動している立場だったのですが、新潟県がプレゼンテーションで高い評価を得た事もあって愛知が落選する形に。当初は埼玉スタジアム2002と同規模の建設計画でしたが、招致失敗の影響もあって4万人規模に下方修正。2019年ラグビーW杯や、日本代表戦は専用スタジアムでの開催をメインにするJFAの方針もあって、近年はJリーグファンの中でも高い評価を獲得する日本有数のスタジアムという認識を受けるようになりましたが、落選当時は名古屋オリンピック招致に続いての失敗ともあって建設の是非が問われる事もあったとか。
ちなみに、愛知県での立候補都市は元々豊田市と刈谷市で熾烈な争いを行なっており、豊田市が更に勝利した事で正式に立候補する形となりました。また、日本サッカー協会にも有数の大都市である名古屋開催の意向はあったらしく、瑞穂陸上競技場の改修やナゴヤドーム(当時の時点では開場前)に天然芝を敷き詰めるなどの案もあったが、最終的には名古屋市が撤退して豊田市と刈谷市に絞られています。
建設計画のあったスタジアム
→京都スタジアム(42100人)
「KYOTO」という名前に世界的なブランドを持つ事もあり、1992年の時点でW杯招致と新スタジアムの建設の方向性を京都府として表明。正式に立候補した1995年には城陽市に43000人規模のサッカースタジアムを含めた「京都府立木津川右岸運動公園」を建設する計画でまとまり、1996年3月に事業認可されました。しかし同年に韓国との共催が決まった影響もあって京都が落選した事で計画は頓挫。その後、大阪市が招致を目指した2008年大阪オリンピックのサッカー競技の会場になる事を前提に、規模を3万人規模に縮小して計画が再開されましたが、大阪五輪招致の失敗を受けて城陽での建設計画は2003年7月に消滅しました。
しかしその後も、京都パープルサンガ(京都サンガFC)の母体である京セラ及び京セラ名誉会長の稲森和夫氏の下でサッカースタジアム建設計画自体は生き残っており、京都市横大路運動公園での建設計画を経て、2012年に亀岡市にサッカースタジアムを建設する計画が決定。それが現在の京都スタジアム(サンガスタジアム by Kyocera)である。現在のスタジアムの建設計画自体は2010年から始まったものだが、前述の経緯の延長戦でもあるので、28年の歳月をかけたと表現される事も多い。
サンガスタジアムの建設経緯については下記のブログにも色々書いたので是非↓
開催計画のあったスタジアム
→広島広域公園陸上競技場(50000人)
1993年1月に開催候補都市となる15都市15会場が発表された時点で、そのうちの13会場は新しく建設しなければならないスタジアムでしたが、残りの2つのうちの1つである長居陸上競技場も改修は必須だった為、既にアジアカップ1992と1994年アジア競技大会のメインスタジアムとして建設されていた広島ビッグアーチは、15会場の中で唯一完成されていたスタジアムであり、当時では日本で5万人規模のサッカースタジアムは国立競技場とビッグアーチのみでした。
そして何より、広島という都市の持つネームバリューはJFAのみならず、FIFAからも直々に広島開催を希望されるほどではあったのですが、後にW杯開催規格を満たす為には屋根の架設と座席改修工事が必須となり、そして日韓共催が決まった事で割り当てられる試合数が削減された事から改修を実施しない旨が表明され、この時点で広島は開催招致レースから撤退するような形での落選となりました。
その後、2020年の夏季オリンピックを広島に招致する計画も持ち上がりましたが、こちらは立候補を前に断念。また、日本が招致を目指していた2022年FIFAワールドカップ招致が実現していた場合も、広島は前述の広島五輪招致計画に集中する為に開催都市の立候補をしていませんでした。
【その他】
1985年に開場した、当時の日本では稀有な大型スタジアムの一つで、当初から神戸市にはユニバーの改修案というプランもありました。最終的に神戸中央球技場を改築する案に落ち着いたものの、1995年に発生した阪神淡路大震災に伴う予算的な問題が発生した時には、建設計画の中心とユニバーの改修案が再び持ち上がった事も。
最終的には当初の計画通りに中央球技場の場所に御崎公園球技場(ノエビアスタジアム神戸)が建てられましたが、日本が2022年のワールドカップ招致を目指していた際、神戸市は開催都市に立候補していたものの、御崎公園球技場がW杯後の改修で収容人数を縮小していた事からユニバーを改修した上での開催を目指していました。
1964年東京オリンピックのメインスタジアムであり、そしてトヨタカップの開催会場でもあった事からサッカーファンにとっては世界的にも有名だった国立。何より、世界有数の大都市である東京での開催は当然期待されてくる訳ですが、観客席への屋根の設置条件を満たせず、当時の東京は2013年開催予定の多摩国体のメインスタジアム(後の東京スタジアム/味の素スタジアム)の建設計画もまとまっていなかった事から立候補を断念。W杯本大会では共催相手の感覚がソウルで開催しましたが、もし日本の単独開催となっていた場合、首都での開催のないW杯は1974年西ドイツW杯以来でした。
色々と日韓W杯を振り返る系のブログを更新しておりますので、是非色々ご覧くださいませ
↓
時の流れや。
ではでは(´∀`)