日韓W杯から20年経ちましたので、当ブログでは只今……只今というか、6月の月間企画的な感じですね。色々あれこれ2002FIFAワールドカップを振り返っております。
前々回からはその歴史的な20周年を記念致しまして、日韓ワールドカップを戦ったメンバーの紹介というか、日韓W杯を中心としたその選手のキャリア、そして現在何をしてらっしゃるか的な事を名鑑みたいな感じでまとめていきたいな…と思い、当時の23名のメンバーを振り返っております。
全4回更新で今回は第3回。月並みな言葉ですが後半戦です。ちょうど20年前に、トルシェジャパンが解散した頃合いでしょうか。
前回までの記事も下記にリンクを置いておりますので、そちらから是非!
vol.4
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FW13 柳沢敦
生年月日:1977年5月27日
日韓W杯での成績:3試合0得点2アシスト
日韓W杯時の所属チーム:鹿島アントラーズ
過去の所属チーム:富山第一高校→鹿島アントラーズ(1996〜2003.7)→UCサンプドリア(03-04)→ACRメッシーナ(04-05〜2006.2)→鹿島アントラーズ(2006.2〜2007)→京都サンガFC(2008〜2010)→ベガルタ仙台(2011〜2014)
日本代表通算成績:58試合17得点(1997〜2006)
★2006年ドイツW杯出場
☆アジアカップ2000出場
★コンフェデ杯2005出場
良い意味でも悪い意味でも日本人FWの典型例として扱われる事もあるが、天才的なオフ・ザ・ボールの能力を持つことで知られたアタッカー。長年に渡り日本代表で活躍しており、イージーなシュートミスが多かった反面、献身的な守備を含めた動き出しの質と量は多くのパスやクロスの出し手から称賛されている。後のドイツW杯では決定機を逃して戦犯的な扱いを受けたが、日韓W杯ではベルギー戦とロシア戦で稲本のゴールを両方アシストするなどMVP級の活躍を見せ、鹿島でも2トップを組んでいる鈴木隆行とのコンビで病気によりW杯に参加出来なかった高原直泰の穴を埋めた。しかし大会途中で首を痛め、ベスト16のトルコ戦は欠場。トルシエのトルコ戦での采配は未だに議論の対象にされているが、その背景にはトルシエが柳沢の負傷という問題を抱えたという側面もある。
高校卒業後は13チームから話があった中で鹿島に入団し、2000年前後の黄金期を日本人エースとして支えるなど数多くのタイトル獲得に貢献。一般的には鹿島のレジェンドとして認識されているが、その後移籍した京都と仙台でもレジェンド扱いを受けており、特に京都では31歳の2008年に日本人得点王となる14ゴールを挙げ、現時点では京都の選手として唯一のベストイレブンにも選ばれている。
2014年に仙台で現役引退。プロでの初ゴールと最後のゴールは共にG大阪戦だった。現役引退後は鹿島のコーチに就任し、2021年からは鹿島ユースの監督に就任。アカデミーのテクニカルアドバイザーを務める小笠原満男と共に古巣の育成を担っている。
MF14 三都主アレサンドロ
生年月日:1977年7月20日
日韓W杯での成績:2試合0得点
日韓W杯時の所属チーム:清水エスパルス
過去の所属チーム:明徳義塾高校→清水エスパルス(1997〜2003)→浦和レッドダイヤモンズ(2004〜2006)→レッドブル・ザルツブルク(2007.1〜2007.12)→浦和レッドダイヤモンズ(2008〜2009.8)→名古屋グランパス(2009.8〜2012)→栃木SC(2013)→FC岐阜(2014)→マリンガFC(2015.2〜2015.6)→グレミオ・マリンガ(2015.8〜2015.10)→パラナ・サッカー・テクニカル・センター(2016)
日本代表通算成績:82試合7得点(2002〜2006)
★2006年ドイツW杯
☆アジアカップ2004出場
★コンフェデ杯2003、2005出場
2001年11月に帰化が認められると、トルシエは即座に三都主を代表に招集。帰化して最初のAマッチでいきなり代表デビューを果たした。左WBは小野伸二が当確扱いで、事実上残りの一枠を中村俊輔と争う構図になったが、トルシエの方針もあり「より試合の途中から流れを変えられそうな選手」という事で最終メンバーに入った。トルコ戦ではシャドーの一角という今でも議論の的となる選手起用により先発したが、三都主自体のプレーは素晴らしく、前半終了間際に放ったバー直撃FKは度々各メディアで映像が流れている。その後のジーコジャパンではほぼ全試合に絡み、代表としては実質5年間しかプレーしていないにも関わらず、2006年の時点で歴代4位の出場数にまで到達した。
清水では共に日韓W杯メンバーとなった市川大祐との両WBで破壊的な攻撃力を生み出して黄金期の中心選手に。清水がステージ優勝を果たした1999年はMVPにも輝いた。2004年には当時の最高クラスとなる移籍金で浦和に移籍し、ここでもクラブの黄金期を築いて多くのタイトルを獲得している。2007年には宮本と共に海外挑戦も果たした。
2008年以降は怪我にも苦しめられたが、2015年からブラジルの故郷のクラブに移籍すると、最後はマラカナンでジーコ直々に招待されたジーコ主催のチャリティーマッチを区切りとして現役生活を終えた。引退後にブラジルで運営しているサッカークラブはアカデミーにも力を入れており、日本人留学生も複数受け入れている。
MF15 福西崇史
生年月日:1976年9月1日
日韓W杯での成績:1試合0得点
日韓W杯時の所属チーム:ジュビロ磐田
過去の所属チーム:新居浜工業高校→ジュビロ磐田(1995〜2006)→FC東京(2007)→東京ヴェルディ(2008)→南葛SC(2018.8〜2018.12)
日本代表通算成績:64試合7得点(1999〜2006)
★2006年ドイツW杯出場
☆アジアカップ2004出場
★コンフェデ杯2003、2005出場
☆コパ・アメリカ1999出場
長年続けていた器械体操で培った身体能力を活かし、ドゥンガの薫陶を受けて覚醒した異色のボランチ。トルシエ体制でのアジアカップやコンフェデ杯はおろか、過去に世代別代表の招集も全く受けていなかったので、特別招待のコパアメリカを除けばW杯が国際大会デビューとなった。トルシエジャパンでは呼ばれたり落ちたりを繰り返していたが2002年に入ると安定して招集され、当時の代表に不足していた空中戦に強い選手としてメンバー入り。ロシア戦では終盤に途中出場し、日本のW杯初勝利をピッチの上で経験した。ジーコジャパンではボランチのレギュラーを務めるなど、三都主や宮本恒靖と共にフル稼働で代表を支えている。
磐田にはFWとして入団したが、監督のハンス・オフトによりボランチにコンバートされてドゥンガとコンビを組む事になった。その後は磐田黄金期の中心選手として中盤を支え、俗に言う「N-BOX」の一角も担う。爽やかなルックスを持ちつつ、プロの所業とも言うべきマリーシアの数々から「さわやか893」とのネットスラングも有名で、その伝説は多岐に渡る。2018年に南葛SCで半年だけ現役に復帰している。
現在はNHKのメイン解説者として活動しており、W杯でも日本戦など重要試合の解説を任される事が多く、2019年には南葛の監督も務めた。近年はDAZNやWOWOWにも出演し、YouTubeチャンネルの開設や川口能活らと共に早稲田大学大学院に通うなど様々な活動を行なっている。
DF16 中田浩二
生年月日:1979年7月9日
日韓W杯での成績:4試合0得点
日韓W杯時の所属チーム:鹿島アントラーズ
過去の所属チーム:帝京高校→鹿島アントラーズ(1998〜2004)→オリンピック・マルセイユ(2005.1〜2006.1)→FCバーゼル(2006.1〜07-08)→鹿島アントラーズ(2008.7〜2014)
日本代表通算成績:57試合2得点(2000〜2007)
★2006年ドイツW杯出場
☆アジアカップ2004出場
★コンフェデ杯2001、2003、2005出場
「世界の中田じゃない方の中田です」の自虐を持ちネタにしながらも、代表でトルシエからの信頼が特に厚かった選手の一人。いわゆる黄金世代のワールドユースからフラットスリーの左CBを務め、A代表デビューを果たしてから常時レギュラーを張り続けていた。ベスト16のトルコ戦での失点に繋がる致命的なパスミスは本人も度々言及しているが、ロシア戦で稲本のゴールに繋がるクロスを送ったのも中田であり、ベスト16の功労者の一人。ジーコジャパンでは出場機会こそ減らしたが国際大会には常に招集され、代表で挙げた2得点はアジアカップ2004の準決勝と決勝で決めた得点である。
代表では左CBや左SB起用が多かったが、鹿島では主にボランチとして活躍。日韓W杯に6選手を送り込んだ鹿島の一員として数多くのタイトルに貢献した。2005年にはトルシエが監督を務めていたフランスのマルセイユに移籍し、マルセイユではトルシエの退任もあって出番に恵まれなかったがスイスのバーゼルではリーグ制覇などに貢献。2008年に夏に鹿島に復帰し、2014年まで鹿島でプレーを続けて引退した。
現在はテレビ朝日などで解説を行い、DAZNのやべっちスタジアムでもレギュラー解説者を務める。また、引退後は現場ではなく鹿島のフロントに入ってクラブ運営や経営面でのサポートを行う他、将来のJリーグチェアマン就任を目標に筑波大学の大学院にも進学するなど、指導者とは違う角度からの活動をしている。
DF17 宮本恒靖
生年月日:1977年2月7日
日韓W杯での成績:4試合0得点
日韓W杯時の所属チーム:ガンバ大阪
過去の所属チーム:ガンバ大阪ユース→ガンバ大阪(1995〜2006)→レッドブル・ザルツブルク(2007.1〜2009.1)→ヴィッセル神戸(2009〜2011)
日本代表通算成績:71試合3得点(2000〜2006)
★2006年ドイツW杯出場
☆アジアカップ2004出場
★コンフェデ杯2003、2005出場
☆2000年シドニー五輪出場
日韓W杯日本代表に於ける主役の一人と言っても差し支えない選手。初戦を5日後に控えた練習試合で鼻骨を骨折し大会出場も危ぶまれたが、その日のうちに特注のフェイスガードが作られ、なんとか大会に間に合わせた。結果的にこの鼻骨骨折とフェイスガードが宮本を「バットマン」として大会のメインキャストへと押し上げる事になる。当初は主将の森岡隆三の控えとして招集されたがその森岡がベルギー戦で負傷退場すると、ベルギー戦こそスクランブル出場の弊害もあって失点の遠因にもなってしまったが、続くロシア戦では本人が「ゾーンに入っていた」と語るほど圧倒的なパフォーマンスを見せて勝利の立役者となる。黒のフェイスガードにキャプテンマークを巻く姿は元々ルックスと合わさって実に絵になっていた。今思えば、そもそもフラットスリーの真ん中は特殊な能力が求められるポジションで、そのタスクをこなせるのは森岡と宮本しかいなかったんだとも思う。ちなみに、アジアカップ2004の準決勝バーレーン戦でビハインドの状況下で中澤佑二のパワープレーを指示したのは、トルコ戦で松田直樹に上がる指示を出せなかった宮本自身の後悔も少なからずあったと言う。
クラブではガンバのユース一期生として1995年にデビュー。初年度から一定の出場機会を得て、稲本潤一と共にガンバの育成に対する評価を高めるなど、まさしくチームの顔として長年貢献した。2005年にガンバがJリーグ初優勝を達成した試合では得点も挙げており、試合後に号泣する姿はことある度に映像で流れている。ザルツブルクへの移籍を経て、2011年に神戸で引退した。
引退後は元プロ選手としては史上2人目となるFIFAマスターを修了し、2015年にユースコーチとしてガンバに復帰。U-23チームの監督を1年半務めてからトップチームの監督に昇格すると、2018年の劇的残留と2020年の2位躍進に貢献し、2020年には優秀監督賞も受賞した。現在はJFAの会長補佐兼国際委員長を務めており、カタールW杯抽選会にも出席した他、日韓W杯開催20周年を記念したレセプションでは代表挨拶も務めている。なお、例のフェイスガードは元々ベージュだったものを黒く塗り潰して着用しており、日韓W杯のドキュメンタリーではベージュ版のフェイスガード姿も見られるシーンがある。
MF18 小野伸二
生年月日:1979年9月27日
日韓W杯での成績:4試合0得点1アシスト(先発4)
日韓W杯時の所属チーム:フェイエノールト
現在の所属チーム:北海道コンサドーレ札幌(2021〜)
過去の所属チーム:清水商業高校→浦和レッズ(1998〜2001.7)→フェイエノールト(01-02〜2006.1)→浦和レッズ(2006〜2007)→VfLボーフム(2008.1〜2010.1)→清水エスパルス(2010〜2012.9)→ウェスタン・シドニー・ワンダラーズ(12-13〜13-14)→北海道コンサドーレ札幌(2014.6〜2019.8)→FC琉球(2019.8〜2020)
日本代表通算成績:56試合6得点(1998〜2008)
★1998年フランスW杯、2006年ドイツW杯出場
☆アジアカップ2000出場
日本サッカー史上最高の才能を持つと称される天才MF。ルーキーイヤーからフランスW杯メンバーに抜擢された天才は俗に言う黄金世代の中でも目に見えて才能がずば抜けており、多彩なタレントが揃うチームの中でも旗頭的な存在だった。「エンジェルパス」「ベルベットパス」とも称されるパスセンスや卓越したボールコントロールはもはや芸術の域。主にボランチやトップ下を主戦場とするが、左右非対称な戦術を採るトルシエジャパンでは左WBで起用されており、三都主や中村俊輔、三浦淳宏らもいた中で小野のレギュラーは当確扱いだった。W杯直前に虫垂炎を発症するトラブルもあったが何とか間に合わせて、ベルギー戦で鈴木隆行のゴールに繋がるロングパスを出してアシストも記録。ドキュメンタリーの「六月の勝利の歌を忘れない」でも、その存在感とキャラクターはカリスマ性を漂わせている。
高校卒業の際には13クラブからオファーを受けて浦和に入団し、ルーキーイヤーからベストイレブンに選ばれた。オランダ3強の一角であるフェイエノールトではUEFAカップ(現在のヨーロッパリーグ)制覇の立役者となり、オーストラリアでも創設一年目のクラブを優勝に導く。日本代表のチームメイトやOBのみならず、スナイデルやファン・ペルシー、ディルク・カイトといったオランダのレジェンドからもその才能と実力には惜しみない賞賛を受けている。
現在も2014年夏に加入した札幌で現役を続けており、ウォーミングアップで見せるボールコントロールには対戦相手のサポーターから歓声が起こる事もしばしば。札幌は小野の経験値や人間性、影響力を多角的に評価しており、2022年には引退後もフロントや指導者として札幌に残る生涯契約を結んだ。
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20年前のワイと今のワイ、共通点はお酒が飲めない。
ではでは(´∀`)