北京なあ…
どーもこんばんは
さてさて、いよいよパリオリンピックに挑むサッカー男子U-24日本代表のメンバー発表の瞬間が迫っています。
フルメンバーを招集し、W杯と並ぶ「世界最高峰の大会」と位置付けている女子サッカーとは異なり、男子サッカーの特徴は言うまでもなく年齢制限がある事、そしてオーバーエイジという制度がある事。サッカーをご覧の皆様なら言わずともお解りでしょうが、オーバーエイジでどれだけ理想的な選手を呼べるのか、呼んだ選手がどれだけ機能するのか…というところは五輪での成績に直結しますし、逆に五輪を世代別大会として割り切って最初から使わないクラブもあるなどチームによって色も分かれます。
かく言う日本も「理想通りのOAが呼べて抜群に機能した大会」「OA招集が望み通りにいかなった大会」「そもそもOAを招集しなかった大会」のそれぞれがありました。今回はオーバーエイジという制度が生まれた1996年以降のオリンピックに於けるの日本代表のオーバーエイジ運用を振り返っていこうと思います。
【パリ五輪直前、日本代表 歴代オーバーエイジ考察】
①1996年アトランタ五輪/2000年シドニー五輪/2004年アテネ五輪
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2008年北京五輪
(北京五輪世代:1985年〜1988年生まれ)
第1戦 vsアメリカ●0-1
第2戦 vsナイジェリア●1-2(得点者:豊田)
第3戦 vsオランダ●0-1
大会成績→グループステージ敗退
【スタッフ】
監督:反町康治
コーチ:江尻篤彦
コーチ:井原正巳
GKコーチ:川俣則幸
フィジカルコーチ:矢野由治
【登録メンバー】
【バックアップメンバー】
【オーバーエイジ選出者】
オーバーエイジ選手は招集せず。
「オーバーエイジの是非」を論じる際に必ずサンプルの一つとして挙げられるのが北京五輪である。
日本がオーバーエイジを使用せず、純粋なU-23代表としてオリンピックに挑んだのは1996年アトランタ五輪とこの北京五輪のみで、即ちW杯に出場するようになってからは北京五輪が唯一という事になる。ただしアトランタ五輪ではオーバーエイジを呼ばない方針で固めていたのに対し、北京五輪は「呼びたかったけど呼べなかった」という方が正しく、実際に反町監督は遠藤保仁と大久保嘉人を招集する意向を持っていた。しかし大久保は所属クラブが招集を拒否し、遠藤は最終候補合宿のメンバーに名を連ねながらウイルス感染症により欠場。人選を練り直すには時間が足りなかった…という側面があった。
この大会では初戦のアメリカ戦を落とした事を皮切りに3戦全敗。同じくグループステージ敗退を喫したアトランタ五輪、アテネ五輪、後のリオデジャネイロ五輪でも1勝は挙げているだけにまさしく屈辱的な結果となった。だが後に北京五輪メンバーの多くが代表入を果たしたどころか、代表中心選手を超えて欧州の第一線で戦える選手を多く輩出した事から「オーバーエイジを呼ばない事による育成効果/育成機会の確保」という側面で語られる機会が多くなった。反町監督はオーバーエイジ招集のオペレーションに関しては、後に技術委員長として携わった東京五輪のメンバー招集に際して「(北京五輪の) 失敗から学んだ大きな前進」と語った一方で、オーバーエイジを入れなかった事で五輪世代の選手が弾き出されずに経験を積めたという側面では「失敗ではなかったかもしれない」と振り返っており、実際に反町監督は「2008年時点の能力では青山直晃の方が上かもしれないが、将来的かつ国際的なポテンシャルを踏まえて吉田麻也を選んだ」とも語っているように、そういう部分も重視した選考を行っていた。
2012年ロンドン五輪
(ロンドン五輪世代:1989年〜1992年生まれ)
第1戦 vsスペイン○1-0(得点者:大津)
第2戦 vsモロッコ○1-0(得点者:永井)
第3戦 vsホンジュラス△0-0
準々決勝 vsエジプト○3-0(得点者:永井,吉田,大津)
準決勝 vsメキシコ●1-3(得点者:大津)
3位決定戦 vs韓国●0-2
大会成績→4位
【スタッフ】
監督:関塚隆
コーチ:小倉勉
コーチ:武藤覚
GKコーチ:藤原寿徳
フィジカルコーチ:里内猛
【登録メンバー】
FW7 大津祐樹(ボルシア・メンヘングラードバッハ)
DF12 酒井高徳(VfBシュツットガルト)
MF17 清武弘嗣(1.FCニュルンベルク)
【バックアップメンバー】
DF20 大岩一貴(ジェフユナイテッド千葉)
【オーバーエイジ選出者】
DF 徳永悠平(1983年生)
DF 吉田麻也(1988年生)
GK 林彰洋(1987年生)※バックアップメンバー
「オーバーエイジ枠の使い方」というところで疑問を与えた部分はありながらも、結果としてはシドニー五輪や東京五輪のような「1チーム2カテゴリー制」で運営した五輪代表を除けばオーバーエイジが最も成功したと言われているのがロンドン五輪。既に清武が代表に定着しており、2人の酒井や宇佐美も招集機会はあったが、当時黄金期を迎えていたフル代表に対して五輪代表への期待値は低かった。しかし初戦で優勝候補大本命のスペインを下すと、メダル獲得こそ逃したが最終的には4位まで進出を果たしている。
前線には原口元気や大迫勇也が選外となるほどのタレントが揃っていた一方、DFラインの層の薄さが明確だった事からオーバーエイジの人選は必然的にDFに絞られており、その中で候補となったのがフル代表のレギュラーとしてプレーしていた吉田麻也と長友佑都だった。ただし長友が所属クラブとの合意が得られず断念となり、ザックジャパンには呼ばれていないが五輪経験があり、守備のポジションを全てこなせる徳永がサプライズ的に招集された。堅守速攻のチームに於いてこの2人はプレー面で圧倒的な貢献を果たすのみならず、徳永はアテネ五輪で「オーバーエイジを迎える側の立場」を経験していた事を既存メンバーと接する際に役立てており、オーバーエイジとは言っても1988年生まれで早生まれの権田らとは同学年になる吉田は、キャプテンとしてリーダーシップを開花させた。リーダーの素質を持ちながら名古屋でも北京五輪でも、そして当時のフル代表でも年少組として引っ張られる側の立場だった吉田にとって、リーダーとしてのロンドン五輪での奮闘はオーバーエイジながらも「DFリーダーとしての育成の仕上げ」という側面もあったように思う。
オーバーエイジ選手の奮闘という意味では歴代でもトップクラスのヒットだった一方、もう一つのオーバーエイジ枠を控えGKで使用した事については議論が巻き起こった。これはこの世代に於いて権田の存在感と実力があまりにも突出しており、それだけに権田の次の目処が立っておらず、権田に万が一の事があった場合にどうするのか…という不安がついて回っていた事が林の選出に繋がったと言える。しかし所属クラブの清水からすれば、U-23の選手であればともかくオーバーエイジながら控えを前提に正GKを抜かれるという要望に首を縦に振るのも難しい話で、最終的にはバックアップメンバーとしての選出に落ち着いたが、結果的にオーバーエイジを1枠潰した格好にもなった事には批判が寄せられていた。
ではでは(´∀`)