カモンベイビーアメリカ!
どーもこんばんは
さてさて、3月20日……日本代表、無事に北中米W杯出場を決めました!!
とはいえ、来年のW杯開幕まで期間はなんと1年3ヶ月!15ヶ月もあれば事情もコンディションもいくらでも変わりますし、6月の最終予選はこれで消化試合でE-1選手権だってある訳です。チームとしてW杯出場権を掴む予選を突破した先に待っているのは、誰がW杯メンバーに入れるか…という、いわば個人としてのW杯予選が幕を開ける。サバイバルの先には新たなサバイバルが待つ……プロサッカー選手の人生を強く表すような季節がここから始まります。
というわけで今回は、歴代のW杯出場を決めた試合のメンバーが、W杯本大会に至るまでにどれだけ残ったのか、どれだけ外れたのか、或いはどれだけ新しい選手が入ってきたのか…を振り返っていきます。
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【2026FIFAワールドカップ北中米大会アジア最終予選・バーレーン戦&サウジアラビア戦招集メンバー】
【GK】
大迫敬介(サンフレッチェ広島)
谷晃生(FC町田ゼルビア)
【DF】
板倉滉(ボルシア・メンヒェングラードバッハ)
中山雄太(FC町田ゼルビア)
伊藤洋輝(バイエルン・ミュンヘン)
瀬古歩夢(グラスホッパー)
菅原由勢(サウサンプトンFC)
関根大輝(スタッド・ランス)
高井幸大(川崎フロンターレ)
【MF/FW】
伊東純也(スタッド・ランス)
古橋亨梧(スタッド・レンヌ)
守田英正(スポルティングCP)
鎌田大地(クリスタル・パレス)
三笘薫(ブライトン&ホーヴ・アルビオンFC)
前田大然(セルティックFC)
旗手怜央(セルティックFC)
堂安律(SCフライブルク)
上田綺世(フェイエノールト)
田中碧(リーズ・ユナイテッド)
中村敬斗(スタッド・ランス)
藤田譲瑠チマ(シントトロイデンVV)
【1998年フランスW杯の場合】
W杯出場決定試合
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1997年11月16日・日本3-2イラン
監督:岡田武史
【イラン戦メンバー】
FW14 岡野雅行(浦和レッドダイヤモンズ)
MF22 平野孝(名古屋グランパスエイト)
DF28 中西永輔(ジェフユナイテッド市原)
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MF11 小野伸二(浦和レッドダイヤモンズ)
FW14 岡野雅行(浦和レッドダイヤモンズ)
DF19 中西永輔(ジェフユナイテッド市原)
MF22 平野孝(名古屋グランパスエイト)
イラン戦から継続して選ばれた選手(20人)→小島、名良橋、相馬、井原、小村、山口、伊東、中田、中山、名波、呂比須、岡野、森島、斉藤、秋田、城、中西、川口、楢崎、平野
イラン戦では招集されながらもW杯メンバーからは落選した選手(5人)→本田、高木、三浦、北澤、中村
イラン戦には未招集ながら、W杯メンバーには選ばれた選手(2人)→小野、服部
「カズ、三浦カズ」で有名なメンバー会見に繋がるフランスW杯メンバー選考ですが、岡田体制になってから出場機会を減らした本田や中村、あくまで最終予選終盤のスポット的な招集に留まっていた高木はともかく、イラン戦までの状況を踏まえると北澤の落選もそれなりのサプライズ。最後は25人での最終合宿でしたが、1997年までは代表に確実に呼ばれていた本田は最終候補からも落選する結果に。カズの落選は現在でも議論の対象となっていますが、1997〜1998年の期間で中山・城・呂比須と比較すると成績と状態を落としていたのは事実で、城と中山を先発で考える以上、サブには呂比須の高さや岡野のスピードのような「特徴」を求めたのは自然であった一方、精神的支柱の有無みたいなところは当時は後のメンバー選考にも大きな影響を与える形になりました。
22人に絞る作業の中で逆転で滑り込んだのは元々代表常連ではあった服部と、W杯予選を終えた1998年がルーキーイヤーで台頭した小野。日本では歴史上唯一ルーキーイヤーでW杯メンバーに滑り込んだ小野は「将来の為に経験を積ませたいのでは?」との考察もありましたが、岡田監督いわくその選考理由は「中田が怪我でもしたら他にチャンスメイクを出来る選手が小野しかいないから入れた」との事。
【2002年日韓W杯の場合】
※日韓W杯は自国開催だった事から予選を免除されていた為、大会1年前の2001年に6月に開催されたコンフェデ杯のメンバーを参考とする。
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2001年5月31日〜2001年6月10日
監督:フィリップ・トルシエ
FW9 西澤明訓(RCDエスパニョール)
MF10 三浦淳宏(東京ヴェルディ1969)
GK12 楢崎正剛(名古屋グランパスエイト)
MF21 小野伸二(浦和レッドダイヤモンズ)
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【日韓W杯メンバー】
GK12 楢崎正剛(名古屋グランパスエイト)
MF18 小野伸二(浦和レッドダイヤモンズ)
コンフェデ杯から継続して選ばれた選手(16人)→川口、松田、森岡、稲本、服部、中田英、森島、西澤、中山、鈴木、楢崎、柳沢(※)、中田浩、小野、明神、戸田
コンフェデ杯では招集されながらもW杯メンバーからは落選した選手(11人)→上村、三浦、山下、伊東、藤田、久保、波戸、都築、奥(※)、高原(※)、中澤(※)
コンフェデ杯には未招集ながら、W杯メンバーには選ばれた選手(7人)→秋田、三都主、福西、宮本、小笠原、市川、曽ヶ端
※当初のコンフェデ杯登録メンバーには柳沢敦(鹿島アントラーズ)、奥大介(ジュビロ磐田)、高原直泰(ジュビロ磐田)、中澤佑二(ヴェルディ川崎)が選ばれていたが、メンバー発表後の負傷により山下・藤田・久保・鈴木と入れ替えになった為、今回は前述の4人もコンフェデ杯のメンバーとして扱っている。
トルシエジャパンではシドニー五輪までは五輪世代がそちらに注力する形を採っていたので、2000年まではA代表とU-23は後者を優先させる形にしていました。それが2000年のアジアカップからシドニー五輪世代との融合が加速した為、2000年〜2001年の間にメンバーはなかなか激しく入れ替わっており、例えば日韓W杯で活躍する鈴木と戸田はこのコンフェデから代表に定着。当時はまだ常連にはなりきれていなかった福西・宮本・曽ヶ端といった選手もコンフェデ以降に代表に定着したので、やはりこの辺りがメンバー選考に於ける転換期でもありました。「中山と秋田がサプライズ」とはよく言いますが、秋田はともかく中山に関しては2001年の時点ではほぼ全ての代表戦に呼ばれていたので、この2人のサプライズ度合いには多少の差はありますね。
コンフェデ杯から日韓W杯までで勢力図に大きな変化があったのはサイドの人選。2001年は主に波戸と小野の組み合わせが多かった中、体調不良もあって長らく代表から外れていた市川と帰化した三都主という清水の両翼を担う2人が2002年のタイミングで台頭。それまで常連だった三浦とレギュラー候補でもあった伊東は怪我の影響でレースから外れ、波戸と中村俊輔は直前の欧州遠征のメンバーには入りましたが、最終的には落選という結果になりました。
なにかの動画か番組かでトルシエが言っていたんですが(何かは忘れた)、やっぱり怪我と病気さえなければ名波と高原はメンバーに入れたかったみたいで。
【2006年ドイツW杯の場合】
W杯出場決定試合
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2005年6月8日・北朝鮮0-2日本
監督:ジーコ
【北朝鮮戦メンバー】
GK1 楢崎正剛(名古屋グランパスエイト)
MF6 中田浩二(オリンピック・マルセイユ)
DF14 三都主アレサンドロ(浦和レッドダイヤモンズ)
DF26 坪井慶介(浦和レッドダイヤモンズ)
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【ドイツW杯メンバー】
GK1 楢崎正剛(名古屋グランパスエイト)
MF7 中田英寿(ボルトン・ワンダラーズ)
FW11 巻誠一郎(ジェフユナイテッド千葉)
DF14 三都主アレサンドロ(浦和レッドダイヤモンズ)
MF17 稲本潤一(ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン)
MF18 小野伸二(浦和レッドダイヤモンズ)
DF19 坪井慶介(浦和レッドダイヤモンズ)
FW20 玉田圭司(名古屋グランパスエイト)
北朝鮮戦から継続して選ばれた選手(21人)→楢崎、田中(※1)、遠藤、宮本、中田浩、中田英、小笠原、高原(※2)、中村、土肥、柳沢、三都主、福西、稲本、小野(※2)、大黒、坪井、玉田、加地、中澤、川口
北朝鮮戦では招集されながらもW杯メンバーからは落選した選手(4人)→鈴木、三浦、本山、茶野
北朝鮮戦には未招集ながら、W杯メンバーには選ばれた選手(3人)→茂庭(※1)、駒野、巻
※1 当初のドイツW杯登録メンバーには田中誠(ジュビロ磐田)が選ばれていたが、メンバー発表後の負傷により茂庭と入れ替えになった為、今回は田中と茂庭を2人ともドイツW杯メンバーとして扱っている。
※2 当初の北朝鮮戦メンバーには小野伸二(フェイエノールト)、高原直泰(ハンブルガーSV)が選ばれていたが、メンバー発表後の負傷により離脱となった為、今回は小野と高原を2人とも北朝鮮戦のメンバーとして扱っている。
元々ジーコジャパンはメンバーが固まっていたチームだったので北朝鮮戦の時点で20名ほどは当確が出ていたと言えましたし、後は文字通りプレーオフのような感覚メンバー入りサバイバルが始まった形になっていました。大枠のメンバーは決まっていたので、後はジョーカー枠やバックアップが可能な選手の人選…みたいなところですね。
そんな中で、北朝鮮戦後にコンフェデ杯を経て東アジア選手権(現:E-1選手権)があったんですけど、ここで結構代表初招集や久しく遠ざかっていたアテネ世代の選手を多く呼んだんですね。そこから候補に食い込み始めたのが駒野友一、茂庭照幸、巻誠一郎、村井慎二、田中達也、今野泰幸、阿部勇樹といった選手で、駒野と巻、そして追加招集で茂庭がメンバー入り。今野と駒野はアテネ五輪メンバーでしたが、巻は世代別代表を含めても東アジア選手権が初招集だった事を思うとなかなかの逆転劇ですね。逆に、三浦・茶野・本山・鈴木といった選手は東アジア選手権を機にアテネ世代の台頭し、彼らと入れ替わる形でメンバー選考のレースからフェードアウトしていく事になってしまいました。
【2010年南アフリカW杯の場合】
W杯出場決定試合
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2009年6月6日・ウズベキスタン0-1日本
監督:岡田武史
【ウズベキスタン戦メンバー】
FW16 大久保嘉人(VfLヴォルフスブルク)
MF17 長谷部誠(VfLヴォルフスブルク)
MF 松井大輔(ASサンテティエンヌ)
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【南アフリカW杯メンバー】
MF17 長谷部誠(VfLヴォルフスブルク)
FW19 森本貴幸(カルチョ・カターニャ)
ウズベキスタン戦から継続して選ばれた選手(19人)→楢崎、阿部、駒野、闘莉王、長友、内田、遠藤、松井、岡崎、中村俊、玉田、矢野、中村憲、今野、大久保、長谷部、本田、川島、中澤
ウズベキスタン戦では招集されながらもW杯メンバーからは落選した選手(6人)→橋本、都築、山口、槙野、香川、興梠
ウズベキスタン戦には未招集ながら、W杯メンバーには選ばれた選手(4人)→岩政、森本、稲本、川口
南アフリカW杯は本大会に向けて岡田監督が大幅な方向転換を行ったので、予選と大きくメンバー入れ替えた代表チームとして挙げられる事が多いですが、あの変更はあくまで23人のメンバーを発表して直前で大幅変更に踏み切った形なので、23人のメンバーに関してはウズベキスタン戦の時と大枠での変化はありません。矢野はメンバー発表時にサプライズ称する声はありましたがウズベキスタン戦には呼ばれていましたし、ウズベキスタン未招集の稲本は元々常連メンバー。川口に関しては意味合いもやや変わってくるでしょうし。
そんな中で、いわゆる「逆転」のような形でメンバー入りを果たしたのは岩政と森本。2人ともウズベキスタン戦の時点では代表デビューをしておらず、森本に関しては初招集もW杯出場決定後のテストマッチでした。逆に常連組の中で言うと、あと一歩のところで流したというべきなのは香川を筆頭に橋本と槙野、ウズベキスタン戦には呼ばれていませんが、第3GKとしてコンスタントに招集されていた西川周作辺りでしょうか。
ではでは(´∀`)