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【北中米W杯 代表サバイバル最終盤】2002年日韓W杯の当落線上で落選してしまったメンバーベストイレブン

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日韓W杯ロマン

 

どーもこんばんは

 

 

さてさて、北中米W杯までいよいよ残り2〜3ヶ月です。

森保一監督率いる日本代表はW杯メンバー発表前最後の親善試合として3月28日にスコットランド代表、そして3月31日にイングランド代表と対戦。グレートブリテンを舞台に欧州の実力国と、そして長い長い歴史の中でも最強世代と称される優勝候補国とのテストマッチに挑みました。この2試合が終われば次の日本代表イベントは最終メンバー発表ですから、それだけに2026年への冒険は最終局面を迎えたと言えるでしょう。

という訳で、今回からはW杯の日本代表にちなんだ連載企画をば。

 

 

「サプライズ選出」───W杯メンバーの発表が近付く度に、様々なメディアで度々耳にするフレーズです。印象的なところで言えば2002年の中山雅史と秋田豊、2006年の巻誠一郎、2010年の川口能活、2014年の大久保嘉人辺りでしょうか。彼らは次の日のスポーツ新聞を賑わせ、次のトピックが来るまでは、選考の話題を独り占めする事になります。

しかしその反面、サプライズと称されるように一人滑り込んだ人間がいるという事は、同時に一人滑り落ちてしまった当落線上の人間がいる…という事になる訳です。しかしながらHOWEVER、W杯メンバーまであと一歩のところまで迫った時点で、その選手は言うまでもなくその時代を代表する名選手であり、日本代表やJリーグにとってのスタープレーヤー。という訳で今回からは、過去の日本代表のW杯メンバーに於いて、当落線上にいながら落選してしまった、或いは出場確実とされながら怪我等で大会参加が叶わなかった選手で11人を組み、各大会の裏ジャパンを作ってみたいと思います。

 

 

 

第2回は日韓W杯編です。

自国開催となるW杯に向け、日本は南アフリカ代表監督としてフランスW杯に参加したトルシェ監督を招聘。そのトルシエ監督に五輪代表やU-20代表のワールドユースの指揮権を託し、前代未聞の総監督のような体制を敷くと、アンダー世代からA代表までの一貫した戦術の中で、タレントの宝庫だったシドニー世代や79年組の選手らが台頭。フランスW杯の時のメンバーから大幅に入れ替えが進み、特にロシア戦のスタメンは11人中9人が25歳以下で、残る2人である楢﨑と鈴木も26歳という非常に若いスカッドが完成しました。

また、最終メンバーを選ぶ際にトルシエ監督が示した「W杯メンバーは『先発で出る選手』『途中出場で流れを変える選手』『最後まで殆ど出場機会を与えられない選手』の3グループに分かれ、その3グループで選考基準は異なる」という考え方、そしてそれに基づく秋田と中山の選出は、W杯に挑む上での方法論として今も成功例として語られています。

 

 

 

1998年フランスW杯編

・2002年日韓W杯編

2006年ドイツW杯編

・2010年南アフリカW杯編(後日!)

・2014年ブラジルW杯編(後日!)

・2018年ロシアW杯編(後日!)

・2022年カタールW杯編(後日!)

 

 

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【2002年日韓W杯日本代表メンバー】

 

監督:フィリップ・トルシエ

コーチ:山本昌邦

コーチ:サミア

GKコーチ:川俣則幸

 

第1戦 vsベルギー△2-2(得点者:鈴木隆行、稲本潤一)

第2戦 vsロシア○1-0(得点者:稲本潤一)

第3戦 vsチュニジア○2-0(得点者:森島寛晃、中田英寿)

ベスト16 vsトルコ●0-1

 

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GK1 川口能活(ポーツマスFC)

DF2 秋田豊(鹿島アントラーズ)

DF3 松田直樹(横浜F・マリノス)

DF4 森岡隆三(清水エスパルス)

MF5 稲本潤一(アーセナル)

DF6 服部年宏(ジュビロ磐田)

MF7 中田英寿(パルマFC)

MF8 森島寛晃(セレッソ大阪)

FW9 西澤明訓(セレッソ大阪)

FW10 中山雅史(ジュビロ磐田)

FW11 鈴木隆行(鹿島アントラーズ)

GK12 楢崎正剛(名古屋グランパスエイト)

FW13 柳沢敦(鹿島アントラーズ)

MF14 三都主アレサンドロ(清水エスパルス)

MF15 福西崇史(ジュビロ磐田)

DF16 中田浩二(鹿島アントラーズ)

DF17 宮本恒靖(ガンバ大阪)

MF18 小野伸二(フェイエノールト)

MF19 小笠原満男(鹿島アントラーズ)

MF20 明神智和(柏レイソル)

MF21 戸田和幸(清水エスパルス)

MF22 市川大祐(清水エスパルス)

GK23 曽ヶ端準(鹿島アントラーズ)

 

 

 

【日韓W杯の当落線上で落選してしまったメンバーベストイレブン】

 

※システムやフォーメーションは当時の代表と異なる場合があります。

※所属チームは当時のものです。

※ここでの「最終候補メンバー」は2002年5月の欧州遠征参加メンバー26名としています(なお、最終メンバーに選ばれた秋田、森岡、中山の3名はこの26名には入っていない)

 

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GK 都築龍太

(ガンバ大阪)

生年月日:1978年4月18日

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:なし

日本代表通算成績:6試合0得点(2001〜2009)

2000年シドニー五輪出場

2001年コンフェデ杯出場

 

1997年から2010年まで代表の正GKは常に川口と楢﨑の争いだったが、その第3枠の争いは勢力が頻繁に移り変わっていた。その中でシドニー五輪は予選は南雄太や曽ヶ端準の出番が多かったが、本戦ではOAとして楢﨑を招集した事から実質的唯一となるシドニー世代のGK枠として選出されたのが都築だった。

2001年は出場機会も得たコンフェデ杯を始めとしたほぼ全ての代表活動に帯同しており、コンフェデ杯は楢﨑が参加していなかった事から第2GKとして1試合に出場している。しかし2002年に入ると曽ヶ端が第3GKの枠に定着するようになり、GK3枠がほぼ固まった状態になった事で代表から遠ざかった。

 

 

 

DF 田中誠

(ジュビロ磐田)

生年月日:1975年8月8日

当時の所属チーム:ジュビロ磐田

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:なし(2006年ドイツW杯は怪我のため自体)

日本代表通算成績:32試合0得点(2002〜2006)

 

クラブでの活躍の割に代表とは縁遠い時期が続き、実際に代表初キャップはジーコジャパンまで待つ事になった。コンスタントに招集されていたという意味では磐田で3バックを組んでいた鈴木秀人や大岩剛の方が当落線上にいた選手と言えるが、W杯1ヶ月前の段階で負傷中だった森岡が間に合わなかった場合に3バックの真ん中をできる選手が宮本しかいなくなるという事で、緊急ながら具体的なプランとして田中に白羽の矢が立った。

しかし怪我をした森岡の代表候補として招集されながら、その代表活動で自らも負傷してしまう不運に見舞われる(最終的に森岡は本大会に間に合った)。後のドイツW杯では23名のメンバーに入ったが、こちらも負傷で逃す形になってしまった。

 

 

 

DF 波戸康広

(横浜F・マリノス)

生年月日:1976年5月4日

当時の所属チーム:横浜F・マリノス

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:なし

日本代表通算成績:15試合0得点(2001〜2002)

2001年コンフェデ杯出場

☆最終候補メンバー選出

 

WBには中盤の選手を使う事が多かったトルシエジャパンで数少ないサイドのスペシャリスト。2001年にデビューすると同年は右WBのレギュラーとしてプレーし、コンフェデ杯準優勝に貢献するなどメンバー入りは当確かと思われた。

しかし2002年に入るとそれまで代表を離れていた市川が代表に復帰。守備的なボランチとして戸田が台頭した事から明神が正式に右WBに固定されるようになっていた背景もあり、スーパーサブとしても計算が立つより攻撃的なタイプの市川が優先されあと一歩のところでW杯出場を逃してしまった。

 

 

DF 中澤佑二

(横浜F・マリノス)

生年月日:1978年2月25日

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:2006年ドイツW杯、2010年南アフリカW杯

日本代表通算成績:110試合17得点(1999〜2010)

2000年シドニー五輪出場

☆アジアカップ2000出場

★最終候補メンバー選出

 

1999年に練習生からヴェルディ川崎に入団し、同年からいきなり新人王とベストイレブンに輝くブレイクを果たすと、雑草キャリアから一気に日本代表まで上り詰めた。シドニー五輪アジアカップではレギュラー格としてプレーしており、この時は単なる登録メンバーではなく3バックの両脇のレギュラーを松田、中田浩二らと争う立場にいた。

しかし2001年の終盤から少しずつ精彩を欠き始めると、東京Vから横浜FMに移籍して迎えたW杯イヤーの2002年もなかなか調子が上がり切らず、最終候補となる欧州遠征にも帯同したが、この遠征でのチームの不振を踏まえてトルシエ監督は代表から離れていた中山と秋田の2人の招集を決断。この2人の選出は大きなサプライズとして報じられたが、最後の最後で秋田に弾き出される立場となってしまったのが中澤だった。

 

 

MF 名波浩

(ジュビロ磐田)

生年月日:1972年11月28日

それ以前のW杯出場:1998年フランスW杯

その後のW杯出場:なし

日本代表通算成績:67試合9得点(1995〜2001)

アジアカップ2000出場

 

伝説の"N-BOX"は名波のNから取られた事実が物語るように、黄金期磐田の最重要人物にして当時のJリーグに於けるキング的な存在。トルシエ監督とは1999年のコパ・アメリカでの舌禍事件をきっかけに確執関係に陥っていたが、翌年に代表に復帰して以降はトルシエ監督も全幅の信頼を名波に寄せるなどパートナーシップを復活させ、名波を中心に据えた戦い方で挑んだアジアカップ2000では圧倒的な活躍でチームを優勝に導くと共にMVPを獲得。中田英寿が代表活動にフルで参加できない状態が続いていた事から名波中心のプランもトルシエ監督の頭にはあったとされ、実力のみならずそのカリスマ性から若手選手からの信頼も厚く、数少なくなった前回大会の経験者ともありW杯での活躍が期待されていた選手の一人だった。

しかし磐田が名波システムとも表現出来るN-BOXが席巻していたまさにその時、右膝半月板損傷により長期離脱を余儀なくされる。アジアカップ以降は名波に絶大な信頼を置くようになったトルシエ監督も最後の最後までどうにか名波を招集出来る可能性を模索していたが、代表復帰となった2001年10月の遠征でも怪我の再発で出場不可になるなど復帰と離脱を繰り返す格好となり、トルシエを含めた多くの人が望んだW杯出場には至らなかった。

 

 

MF 三浦淳宏

(東京ヴェルディ1969)

生年月日:1974年7月24日

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:なし

日本代表通算成績:25試合1得点(1999〜2005)

2000年シドニー五輪出場

2001年コンフェデ杯出場

 

日本人ブレ球フリーキッカーの先駆者。トルシエジャパン常連メンバーかつ同じトルシエ監督が率いたシドニー五輪にも楢﨑、森岡と共にオーバーエイジとして選出されており、名波や中村欠場による繰り上げとはいえコンフェデ杯では背番号10を背負うなど、先発機会こそ少なかったが当落線上の中でも上の方の立場で長く代表活動に参加していた。

トルシエジャパンでは左WBでのプレーを主戦場として中村俊輔とポジションを争っていたが、大会が近づくと、コンフェデ杯以降は小野伸二までもが同ポジションの争いに参入した事で一気に激戦区へ。その中で三浦も可能性があるゾーンにこそいたが、2002年に入ると自身の負傷離脱の影響に加えて更に三都主までもが日本国籍を取得して左WB争いに参戦し、メンバー入りを逃す結果となった。

 

 

 

MF 伊東輝悦

(清水エスパルス)

生年月日:1974年8月31日

当時の所属チーム:清水エスパルス

それ以前のW杯出場:1998年フランスW杯

その後のW杯出場:なし

日本代表通算成績:27試合0得点(1997〜2002)

2001年コンフェデ杯出場

 

俗に言う"マイアミの奇跡"で決勝点を挙げた男として知られるMFにして清水黄金期の中心人物。出場機会こそ無かったがフランスW杯メンバーにも入っており、フランスW杯からは大きくメンバーが入れ替わったトルシエ体制でもコンスタントに招集され続けた一人。

前年のコンフェデ杯ではレギュラーとして出場しており、右WBにボランチの選手を起用するトルシエジャパンで明神と同様にボランチor右WBという役割が与えられていた。無口キャラをイジって合宿の締めの挨拶を任されるなどトルシエ監督にも何かと気に入られていたが、2002年は開幕早々に負傷離脱を余儀なくされ、離脱中に奇しくも同僚にしてトルシエジャパンでの役割が明神と似ていた伊東とは別タイプの市川が代表復帰を果たす中、なんとか復帰を果たしたのがメンバー発表の数日前。本人も「アピールして入れなかったのならともかく、その機会をケガで逃してしまった事が悔しかった」と述懐している。

 

 

MF 奥大介

(横浜F・マリノス)

生年月日:1976年2月7日

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:なし

日本代表通算成績:26試合2得点(1998〜2004)

アジアカップ2000出場

☆最終候補メンバー選出

 

黄金期磐田を代表するプレーメイカー。1997年にブレイクを果たすと当時の磐田の攻撃を司り、中山の異次元のゴール量産を大きく助けるなど大活躍。代表デビューはトルシエジャパンの初陣となるエジプト戦だったが、フランスW杯のメンバー中心のこの試合で2人しかいない非フランスW杯メンバーの一人として先発を飾った(もう一人は望月重良)。

先発機会こそ少なかったが中田や名波の不在時にゲームを作れる貴重な選手として常に代表に名を連ね続けており、2002年に入ってからも事実上の最終候補となる欧州遠征のメンバーにも名を連ねた。しかしバックアッパーの域を脱却できず、最終的には2002年にデビューを果たした小笠原が一気に捲る形となり、メンバーからは漏れた。

 

 

 

MF 中村俊輔

(横浜F・マリノス)

生年月日:1978年6月24日

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:2006年ドイツW杯、2010年南アフリカW杯

日本代表通算成績:98試合24得点(2000〜2010)

2000年シドニー五輪出場

アジアカップ2000出場

★最終候補メンバー選出

 

日韓W杯に於ける中山と秋田、或いはドイツW杯の巻誠一郎、ドイツW杯の川口能活、ブラジルW杯の大久保嘉人がサプライズ選出の象徴とすれば、"サプライズ落選"の象徴として今なおメンバー発表時に語られるのが日韓W杯に於ける中村俊輔だった。メンバーから落ちた事の是非としてはフランスW杯の三浦知良に次ぐ論争を巻き起こしたと言える。当時は10番を背負ってアディダスの日本代表ユニフォームのメインキャラクターも務めており、レアル・マドリードへの移籍話も水面下で浮上するなど日本サッカーの中でも既に稀有な存在感を放っていただけに、その落選のインパクトは非常に大きなものとなった。

しかしその注目度の一方でトルシエジャパンで必ずしも定位置を確保していた訳ではなく、トルシエと中村は確執も度々報じられていたことを抜きにしても中村のポジションだった左WBは前述のように壮絶な激戦区と化していた。トルシエ監督はW杯メンバーを「①先発で出る選手」「②途中出場で流れを変える選手」「③最後までほぼ出場機会を与えられない選手」の3グループで考え、それぞれは異なる選手基準になると考えでメンバーを選んでおり、その考え方を基にすると、中村は①に該当する選手としては問題がないが、②の途中出場の選手として考えると、よりジョーカー的な使い方が出来る三都主や守備固めの際に守備で強さを出せる服部が優先され、そして当時の中村は中山や秋田のように③で後方支援が出来るタイプでは無かった以上、中村がW杯に出る為には①で小野との争いに勝つしかなく、トルシエが小野を選んだ時点でこうなるしかなかったのだろうとは思う(トルシエがこの時に提示した考え方自体は後の日本代表にも受け継がれている)。

そういう意味で言えば、後の南アフリカW杯で③の選手として見せた献身が持つ切なさが一層迫るのがファン心情だが、実際に本人も南アフリカW杯での振る舞いには日韓W杯落選の経験も影響していたと述懐していた。一方で直前の欧州遠征の試合にコンディション不良で出場できなかったなど状態への不安もあり、後にトルシエ監督は「中村の状態が100%であれば三都主か小笠原を外して中村を入れていただろう」とも語っている。なお本大会では「日本代表戦は観れない」としつつも、いちサッカーファンとしての探究心から「フランス代表を観に韓国に行った」との事。

余談だが、トルシエが「W杯メンバーは99%このメンバーから選ぶ」とまで語ったW杯直前の欧州遠征のメンバー26名の中にはマリノス所属選手が5名選ばれており、これは鹿島と並んで最も多い数字だったが、最終的にメンバーに入ったのは松田直樹のみだった。

 

 

FW 久保竜彦

(サンフレッチェ広島)

生年月日:1976年6月18日

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:なし

日本代表通算成績:32試合11得点(1998〜2006)

アジアカップ2000出場

2001年コンフェデ杯出場

★最終候補メンバー選出

 

その潜在能力の高さと並外れた身体能力は日本サッカー史上屈指とも評され、当時の日本サッカーに於けるあらゆる名手の中でも最も「ロマン」という言葉が似合うかもしれない名手。実際にトルシエも、そしてW杯後にに代表監督の座に就くジーコもそのロマンに魅入られた一人と言える。後にマリノスで盟友となる奥と共にトルシエジャパン初陣のエジプト戦で代表デビューするなど最初期からトルシエジャパンの活動に参加していた。

ただトルシエ監督の期待とは裏腹に性格的なウマが合ったとは言えず(久保はそれをハッキリ公言している)、久保もトルシエ体制では1得点も挙げられていなかった。それでも高原と西澤がメンバー発表直前で離脱した影響もあって最終候補となる欧州遠征でトルシエは再び久保の潜在能力に賭けたがその欧州遠征でアピールし切れず、盲腸で離脱していた西澤が間に合った事と、FW最後の一枠には中山が充てられた事が重なり、23人には届かなかった。

 

 

 

FW 高原直泰

(ジュビロ磐田)

生年月日:1979年6月4日

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:2006年ドイツW杯

日本代表通算成績:57試合23得点(2000〜2008)

2000年シドニー五輪出場

アジアカップ2000出場

 

同い年の79年組の面々が口を揃えて小野伸二の衝撃を語るように、79年組やシドニー世代の選手が「今までプレーしてきた中で最高のFW」との問いに口を揃えてその名を挙げるFW。シュート精度とバリエーションの豊富さなど、FWとして欠点のないタイプのストライカーとして大いに期待されていた。

高原は正確には「当落線上」で落ちた訳じゃない事は、リアルタイム世代や日本代表史を履修済みの者なら誰もが知るところだろう。立場は当落線どころかむしろエースFWであり、柳沢や鈴木、西澤が争っていたのは"高原と組むもう一枚のFW"だった事からも、いわゆる当確枠の選手の一人だった。しかし日本にとって初めて敵地で欧州国に勝利した試合となったポーランド戦で高原もゴールを決めてその勝利に貢献していたが、その帰国の途に於いて静脈血栓塞栓症…いわゆるエコノミークラス症候群を発症してしまう。高原もトルシエも、そしてファンもどうにか出場を願ったが、最終的にはこれがコンディションに目を瞑れば出場はなんとかなるような単なる怪我や病気ではなく「下手すれば命に関わる問題」という事でドクターストップがかかり、トルシエも高原招集を諦めざるを得なくなった。本来ならその場に立っているはずだった初戦のベルギー戦、他でもないその日は高原の誕生日でもあった───。

エコノミークラス症候群という通称でこの病気の存在が日本で広く知られるようになったきっかけはこの時の高原の一件だったとされており、今でもこの病気の説明時には高原の件が具体例として挙げられる事が多い。高原はオーバーエイジでの招集が内定していた2年後のアテネ五輪も同症状の再発で断念しており、それもあって2006年ドイツW杯の際には症状の再発を懸念したJFAの配慮により、基本的にビジネスクラスでの移動となる代表チームの中で高原のみ座席にゆとりのあるファーストクラスが充てがわれる対策が講じられた。

次回、ドイツW杯編に続く

前回から読む

 

 

ではでは(´∀`)