RK-3はきだめスタジオブログ

気ままに白熱、気ままな憂鬱。執筆等のご依頼はTwitter(@blueblack_gblue)のDM、もしくは[gamba_kyoto@yahoo.co.jp]のメールアドレスまでご連絡お願いします。

【北中米W杯 代表サバイバル最終盤】2006年ドイツW杯の当落線上で落選してしまったメンバーベストイレブン

f:id:gsfootball3tbase3gbmusic:20260402071657j:image

 

巻の前が大黒なら大黒マキって読み上げてた

 

どーもこんばんは

 

さてさて、北中米W杯までいよいよ残り2〜3ヶ月です。

森保一監督率いる日本代表はW杯メンバー発表前最後の親善試合として3月28日にスコットランド代表、そして3月31日にイングランド代表と対戦。グレートブリテンを舞台に欧州の実力国と、そして長い長い歴史の中でも最強世代と称される優勝候補国とのテストマッチに挑みました。この2試合が終われば次の日本代表イベントは最終メンバー発表ですから、それだけに2026年への冒険は最終局面を迎えたと言えるでしょう。

という訳で、今回からはW杯の日本代表にちなんだ連載企画をば。

 

 

「サプライズ選出」───W杯メンバーの発表が近付く度に、様々なメディアで度々耳にするフレーズです。印象的なところで言えば2002年の中山雅史と秋田豊、2006年の巻誠一郎、2010年の川口能活、2014年の大久保嘉人辺りでしょうか。彼らは次の日のスポーツ新聞を賑わせ、次のトピックが来るまでは、選考の話題を独り占めする事になります。

しかしその反面、サプライズと称されるように一人滑り込んだ人間がいるという事は、同時に一人滑り落ちてしまった当落線上の人間がいる…という事になる訳です。しかしながらHOWEVER、W杯メンバーまであと一歩のところまで迫った時点で、その選手は言うまでもなくその時代を代表する名選手であり、日本代表やJリーグにとってのスタープレーヤー。という訳で今回からは、過去の日本代表のW杯メンバーに於いて、当落線上にいながら落選してしまった、或いは出場確実とされながら怪我等で大会参加が叶わなかった選手で11人を組み、各大会の裏ジャパンを作ってみたいと思います。

 

 

 

第3回はドイツW杯編です。

規律性を徹底したトルシエ体制から自主性を重んじるジーコ体制へと変わり、それに伴う様々なロマンや夢も昂ぶれば、一方で溝や軋轢も生み出してしまった、終わってみれば未完の夢のようになってしまった4年間でした。このジーコ体制の頃から「国内組」「海外組」という言葉が盛んに使われるようになり、選手もサポーターも、ある種のジレンマなるものに苛まれ始めていた、日本が新た悩みに直面したフェーズとも言えるでしょう。

それでも「日本代表史上最強」とも謳われた豪華なメンツが揃ったドイツW杯メンバー発表ですが、比較的順当に読み上げられていくメンバーリストの中、サプライズが待ち構えていたのは一番最後でした。当時私小3。「タカハーラ…」の段階から学校では流行語大賞でしたね。

 

 

 

1998年フランスW杯編

2002年日韓W杯編

・2006年ドイツW杯編

・2010年南アフリカW杯編(後日!)

・2014年ブラジルW杯編(後日!)

・2018年ロシアW杯編(後日!)

・2022年カタールW杯編(後日!)

 

 

Jリーグをもっと楽しめる(かもしれない)、2026百年構想リーグ開幕ガイド作りました!是非お使いくださいませ!

 

オリジナルアルバム出してみました!聴いてみてくださいませ!

 

2026年W杯の当サイト的テーマソングを勝手に作りました。

 

 

 

【2006年ドイツW杯日本代表メンバー】

監督:ジーコ

テクニカルアドバイザー:エドゥー

GKコーチ:カンタレリ

フィジカルコーチ:里内猛

 

 

第1戦 vsオーストラリア●1-3(得点者:中村俊輔)

第2戦 vsクロアチア△0-0

第3戦 vsブラジル●1-4(得点者:玉田圭司)

 

f:id:gsfootball3tbase3gbmusic:20260330224929j:image

 

GK1 楢﨑正剛(名古屋グランパスエイト)

DF2 茂庭照幸(FC東京)

DF3 駒野友一(サンフレッチェ広島)

MF4 遠藤保仁(ガンバ大阪)

DF5 宮本恒靖(ガンバ大阪)

MF6 中田浩二(FCバーゼル)

MF7 中田英寿(ボルトン・ワンダラーズ)

MF8 小笠原満男(鹿島アントラーズ)

FW9 高原直泰(ハンブルガーSV)

MF10 中村俊輔(セルティックFC)

FW11 巻誠一郎(ジェフユナイテッド千葉)

GK12 土肥洋一(FC東京)

FW13 柳沢敦(鹿島アントラーズ)

DF14 三都主アレサンドロ(浦和レッドダイヤモンズ)

MF15 福西崇史(ジュビロ磐田)

FW16 大黒将志(グルノーブル・フット38)

MF17 稲本潤一(ウェスト・ブロムウィッチ)

MF18 小野伸二(浦和レッドダイヤモンズ)

DF19 坪井慶介(浦和レッドダイヤモンズ)

FW20 玉田圭司(名古屋グランパスエイト)

DF21 加地亮(ガンバ大阪)

DF22 中澤佑二(横浜F・マリノス)

GK23 川口能活(ジュビロ磐田)

 

 

 

【ドイツW杯の当落線上で落選してしまったメンバーベストイレブン】

 

※システムやフォーメーションは当時の代表と異なる場合があります。

※最終候補メンバーは、W杯メンバー発表1週間前に行われたキリンカップサッカー2006のメンバー23名としています(ただし、この23名に海外組は含まれていません)

 

f:id:gsfootball3tbase3gbmusic:20260330224921j:image

 

 

GK 都築龍太

(浦和レッドダイヤモンズ)

生年月日:1978年4月11日

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:なし

日本代表通算成績:6試合0得点(2001〜2009)

 

トルシエ体制でも第3GKの座を争う立場だったが、正GKの川口・楢﨑2頭体制は変わらなかったのでジーコ体制でも土肥や曽ヶ端準、下田崇と共に楢﨑・川口を追う立場としてコンスタントに招集されていた。

しかし俗にいう「キャバクラ事件」の影響もあってか2004年以降は代表から遠ざかり、その間に第3GKには土肥も定着し、2004年からはGK3枠はほぼ固定状態に。2006年の米国遠征は楢﨑と土肥が揃って負傷した事で下田と共に代表に復帰したが、楢﨑と土肥の離脱も長期化しなかった事で自然と候補から外れる形になった。

 

 

DF 三浦淳宏

(ヴィッセル神戸)

生年月日:1974年7月24日

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:なし

日本代表通算成績:25試合1得点(1999〜2005)

アジアカップ2004出場

☆2005年コンフェデ杯出場

★アジア最終予選参加

 

明神智和や戸田和幸などトルシエジャパンの主力でジーコジャパンで構想外になっていった選手が少なくない中、2002年に苦しめられた負傷から復帰の目処が立った2003年以降は常連組として継続的に招集され、アジアカップやコンフェデ杯にも参加していた。

日本代表活動の中で"選手ミーティング"と呼ばれるものが形として最初に定着したのはドイツW杯予選での"アブダビの夜"とも言われているが、ジーコジャパンを語る時に欠かせないとされるエピソードの主役的存在であり、海外組と国内組の溝や自由主義の弊害で拠り所を定められなかった代表チームの精神的支柱として、或いは一主将としての重責以上のものを背負う格好になった宮本が後輩として相談できる貴重な存在として予選突破の影の立役者とも称されていたが、所属する神戸のJ2降格や駒野・村井が急激に台頭した影響もあり、2006年には招集機会も無く終わった。

ただ肝心のW杯では最終的にチームが瓦解して終わってしまい、2002年W杯での中山雅史と秋田豊の事例やアジアカップ2004に於ける三浦や藤田俊哉、松田直樹のように「サブでもチームを盛り立てられるベテランを招集しておくべきだったのでは」という声も上がった。現在でも「ベテラン枠は必要かどうか」という議論で三浦淳宏の落選が引き合いに出される事もある。

 

 

DF 田中誠

(ジュビロ磐田)

生年月日:1975年8月8日

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:なし

日本代表通算成績:32試合0得点(2002〜2006)

アジアカップ2004出場

☆2005年コンフェデ杯出場

★アジア最終予選参加

☆最終候補メンバー選出

 

トルシエジャパンでも代表候補には挙がっていたが、代表初出場はジーコ体制での2004年。4-4-2と3-5-2を併用していたジーコジャパンで、アジアカップやW杯予選など3バック採用時には中澤-宮本-田中がレギュラーとして固定されるようになり、特に最終予選は出場停止以外は全試合で先発した。ジーコ監督は最終的W杯も田中を先発組に入れていた事から最後の23人に名前を告げられる事は当然であり、そういう意味では今回の企画で田中の名前を挙げるのは適切ではない。

だが親善試合のドイツ戦を直前に控えた練習で負傷。既にドイツ合宿に入っていた事、肉離れの程度が大会中に復帰できる可能性も無い訳では無いものだった事もあってかジーコ監督から「残るか、帰るか」の選択を求められたが、間に合う可能性があるだけで確証はなく、もし残って間に合わなかった場合の影響を踏まえて帰国を決意し、権利を手にしていたW杯への挑戦が絶たれる形になってしまった。キャラクターとしての周囲からの評価も高く、後に主将の宮本は人間性の面でも田中の離脱が痛かったと語っており、田中が帰国の決断を宮本に伝えた際には強く慰留していたとの事

選手変更は可能なタイミングだった為、初戦の10日前に代役としてハワイ旅行中だった茂庭が緊急招集。カタールW杯前に中山雄太が離脱するまで、最終リストに入りながら途中離脱となったのは田中のみだった。

 

 

 

DF 村井慎二

(ジュビロ磐田)

生年月日:1979年12月1日

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:なし

日本代表通算成績:5試合0得点(2005〜2006)

☆2005年コンフェデ杯出場

★アジア最終予選参加

☆最終候補メンバー選出

 

ジーコ監督がW杯予選とコンフェデ杯を終えた事を機に、新戦力を多く招集した東アジア選手権でデビューした選手の一人。ユース時代から過ごした市原ではイビチャ・オシムの指導を受けており、茶野隆行同様にオシムチルドレンでありながらジーコ時代に呼ばれてオシム時代には呼ばれなかった稀有な選手。

前述の東アジア選手権以降、左SB/左WBとして計算されていた三浦や中田浩二よりもサイドアタッカー的な性質を持つ事から、三都主のバックアップとしてはより適任として継続的に招集されるようになった。しかし当落線上の位置まで駆け上がった上で迎えたメンバー発表1週間前のキリンカップのブルガリア戦で先発のチャンスを得るも前半に負傷退場し、左ひざ前十字靭帯段列と診断。それまでキレのある動きを見せており、W杯メンバー入りも現実的な目標となっていただけに悔やまれる結果となってしまった。

 

 

 

MF 本山雅志

(鹿島アントラーズ)

生年月日:1979年6月20日

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:なし

日本代表通算成績:28試合0得点(2000〜2006)

アジアカップ2004出場

☆2005年コンフェデ杯出場

★アジア最終予選参加

☆最終候補メンバー選出

 

黄金世代を代表するドリブラー。同じ鹿島で同期だった小笠原や中田浩二と共に1999年ワールドユースやシドニー五輪などの世代別代表を含めたトルシエ時代からコンスタントに招集されていた。

ジーコ監督からすれば鹿島時代からよく知る上に自身の10番を受け継いだ選手とあって代表チームには継続招集されており、特に2004年はアジアカップなど多くの試合で出場機会を得ていた。しかしスーパーサブ的な役割が期待されながら中々結果を残せず、ジーコジャパンのサイドMFはトップ下タイプが起用されていただけにポジションはFWのドリブラー枠しかなかったが、その枠で玉田が急激に結果とインパクトを残した事で序列が低下。2005年以降はFWの代表候補が一気に増えた事で代表から遠ざかっている。

 

 

 

MF 松井大輔

(ル・マンFC)

生年月日:1981年5月11日

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:2010年南アフリカW杯

日本代表通算成績:31試合1得点(2003〜2012)

2004年アテネ五輪出場

 

アテネ五輪世代としては大久保嘉人に次ぐ早さで代表デビューを飾り、大久保と共に2003年のコンフェデ杯にも参加。その後は一時期代表から遠ざかっていたがアテネ五輪で10番を背負い、現地で「ルマンの太陽」とも称されるほどのフランスでの活躍を経て2005年に代表復帰を果たすと、同年の最終戦となったアンゴラ戦で自身唯一の代表戦でのゴールとなる得点を奪うなど、最後の1年で一気に有力候補にまで駆け上がっていった。

2006年に入っても有力候補の位置に付けており、大会直前は出場機会に苦しむ選手やコンディション問題を抱える選手が多かった中で好調をキープしていた松井の待望論も挙がっていた。実際に2006年のW杯メンバー発表前に唯一海外組を招集できたボスニア・ヘルツェゴビナ戦にも招集されたが最終的に本戦メンバーには惜しくも選ばれず。ボスニア戦に招集されたフィールドプレーヤーで最終メンバーに入れなかったのは、追加招集の茂庭をメンバーに含めると松井と久保の2人のみだった。おそらくジーコ監督は3-5-2ベースで選考を行なっており、それゆえにサイドよりもセンターの選手が多くなった事が要因と考えられる。

 

 

MF 阿部勇樹

(ジェフユナイテッド市原・千葉)

生年月日:1981年9月6日

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:2010年南アフリカW杯

日本代表通算成績:53試合3得点(2005〜2011)

2004年アテネ五輪出場

★アジア最終予選参加

☆最終候補メンバー選出

 

ジェフ市原ユースの最高傑作であり、当時のJリーグを席巻したオシムチルドレンとして最も代表的な選手。アテネ五輪世代の選手の多くは2005年の東アジア選手権でデビューとなったが、阿部は大久保、松井に次ぐ形で2003年からメンバー入りを果たしており、トルシエ時代にも代表戦には招集されていないが合宿参加はしていた(当時は代表戦はないけど合宿だけやる事がちょいちょいあった)。

2005年の東アジア選手権以前からもちょいちょい呼ばれており、W杯まで残り1年を切った辺りからは継続的に招集を受けていた。今勢いに乗っている五輪組として松井らと共に期待され、そのポリバレント性からメンバー入りを予想する識者もいたが、最終的には23人のメンバーから漏れる事となった。

 

 

 

MF 長谷部誠

(浦和レッドダイヤモンズ)

生年月日:1984年1月18日

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:2010年南アフリカW杯、2014年ブラジルW杯、2018年ロシアW杯

日本代表通算成績:114試合2得点(2006〜2018)

★最終候補メンバー選出

 

所属していた浦和が充実期に突入し、その軌跡にぴったりと沿うように個人としても大躍進。アテネ五輪にも出ていないなどアテネ世代からは少し遅れる形にこそなったが、2006年に入ってから初招集されるとデビュー戦となるアメリカ戦で存在感を残し、続くインド戦では先発にも抜擢された。

2月の代表戦での活躍とリーグ戦での好調もあり、当時のチームには若手枠となるような候補選手も特にいなかった事もあって招集を期待する声も少なくなかったが、元々ボランチのポジションには中田英寿、福西、稲本、小野、遠藤がいた影響もあって、当時はもうボランチの枠が残っておらず(同様のことは阿部や今野泰幸にも言える)、どうしても国内組限定の活動時の起用に限ららてしまった。長谷部が代表で絶対的な存在になっていくのは2008年の岡田武史監督体制以降となる。

 

https://www.rrr3k.com/entry/2024/08/10/100000:embe

 

FW 鈴木隆行

(レッドスター・ベオグラード)

生年月日:1976年6月5日

それ以前のW杯出場:2002年日韓W杯

その後のW杯出場:なし

日本代表通算成績:55試合11得点(2001〜2005)

アジアカップ2004出場

☆2005年コンフェデ杯出場

★アジア最終予選参加

 

日韓W杯の英雄はある意味、シンデレラボーイ的に成り上がった前回大会とは真逆の軌跡を辿る形となってしまったのかもしれない。世代別代表を含めて全く代表に縁のなかったところからW杯前年の追加招集からレギュラーFWと日本サッカー史に残るゴールを決めるに至った前回大会とは異なり、ジーコジャパンでは初陣から継続的に招集され、高原や柳沢、久保といったタレントがいる中でも先発候補の一人であり、実際にアジアカップでは玉田との2トップで優勝に貢献している。

しかし2005年に入ると前回大会で鈴木が辿ったようなシンデレラストーリーを大黒が辿る形となり、逆に鈴木が不振に陥り始めた頃に巻、田中達也、佐藤寿人が台頭。特に長身枠・フィジカル枠として巻が出てきた影響は大きかった。2006年から海外移籍に踏み切るが結果的に国内組のみの代表活動でのアピールチャンスを逃す格好になり、同年には久保も代表に復帰していた事でW杯イヤーには招集機会が無かった。

 

 

FW 佐藤寿人

(サンフレッチェ広島)

生年月日:1982年3月12日

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:なし

日本代表通算成績:31試合4得点(2006〜2012)

★最終候補メンバー選出

 

アテネ五輪への出場こそ逃したが、2003年の仙台への移籍をターニングポイントにストライカーとしての得点能力が開花。2004年にはJ2で20得点、広島に移籍した2005年には18得点を挙げて日本人得点王となり、W杯イヤーとなる2006年最初の試合のアメリカ戦で初招集及び代表デビューを果たした。

リーグでの好調そのままにキレのある動きを見せると、インド戦とエクアドル戦では2試合連続ゴールを記録してストライカーとして存在感を発揮。柳沢がW杯に間に合うか微妙、久保のコンディションが不透明、玉田も所属クラブで不調という状況ゆえに佐藤の滑り込みでのメンバー入りを期待する意見もあったが、最終的には柳沢が間に合い、玉田も招集されている。

 

 

 

FW 久保竜彦

(横浜F・マリノス)

生年月日:1976年6月18日

それ以前のW杯出場:なし

その後のW杯出場:なし

日本代表通算成績:32試合11得点(1998〜2006)

★最終候補メンバー選出

 

神様ジーコが日本で最も愛したストライカー。潜在能力は前監督のトルシエ監督にも認めてられながら前体制では不完全燃焼に終わったが、ジーコ監督とは性格的なウマも合い、ジーコジャパンの4年間では得点王となる11得点を記録。ジーコジャパンでは18試合の出場である事を思えば驚異的な得点率で、一次予選初戦のオマーン戦での劇的決勝ゴールや東欧遠征で当時躍進中のチェコから決めたゴールは今なお伝説として語り継がれている。

久保の才能に心底惚れ込んでいたジーコ監督は高原や柳沢がいる中でも早い段階から久保をFWの軸として考えていた。しかし久保は2004年頃から慢性的な腰痛に悩まされ、2005年はリハビリが中心となり代表未招集に。2006年に代表に復帰すると一定の結果を残したが徐々に腰痛問題が再燃し直前のキリンカップでも思うようにプレー出来ず、それでもジーコ監督は久保を呼ぶか、久保を諦めて巻を呼ぶかの判断をメンバー発表前日まで悩んだが、最終的には久保自身の選手生命に関わる影響をメディカルスタッフに指摘されて断念。2006年の代表戦で結果を出していた巻が滑り込みで代表に入る事になった。全国を飛び回ってまで治癒の可能性を探っていた久保が一方を聞いたのは治療の為に出向いた山形から帰る電車の中だった

日本代表史上最大のロマンはW杯という舞台には縁が無く、ジーコ監督も「あれだけの逸材を、世界に披露できなくなる。そんな結論を、自分で下さなければならなかった」と小さくない未練を残している。久保は当時マリノスの監督を務めていた岡田武史監督の配慮で特別に休みを貰ってしこたま飲んだと振り返っており、一方の巻は期せずして「久保の代わり」という重責がのしかかり、それが相当なプレッシャーになったとも語っている

【次回、南アフリカW杯編に続く】

前回から読む

 

 

ではでは(´∀`)