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日韓W杯から20年─リアルタイムで見れなかったその未練と、ワールドカップという狂気

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2002年6月30日、横浜国際総合競技場にて日韓W杯の決勝戦が行われました。

あれから20年───あの年に産まれた子供は今や成人。元号も変わり、時代は大きく変わり、あの頃描いた未来とやらが今のご時世にはある訳で。

 

 

当ブログでは日韓W杯20周年を記念し、この1ヶ月間…日韓W杯の回顧企画なるものを色々更新してきました。今日はラストとして、あの熱狂をリアルタイムで体感できなかった者にとっての日韓W杯…みたいなテーマでちょっと書いていきます。

 

 

 

当時の私は5歳でした。

サッカーになんてまるで興味を持っておらず、興味を持っていたものといえば機関車トーマスドラえもんクレヨンしんちゃん……仮面ライダーやら戦隊シリーズにすら興味を示さず、幼稚園で繰り広げられた◯◯ごっことやらにもあまりに乗り切れていない、よく食べてよく戻す、歌詞の意味わかってないくせにGLAYを嗜む、そんな5歳児でした。今思えばちょっとやだもん。5歳になる自分の息子が嫉妬の歌詞バッチリ熱唱しだしたら。

そんな私がサッカーに興味を持ったのは2005年。小2。その経緯は過去のNoteにも書いたのでここでは割愛しますが……ワールドカップという大会の重みを知った頃の日本はドイツW杯を目指す立場で、そして前回大会が日本開催だった事……それを聞いた時、幼心ながらどこか乗り遅れたような気持ちを抱いたのはうっすら覚えています。

普及し始めたYouTubeだのインターネットで日韓W杯のあれこれを見て、色々調べて、東京に旅行した際には日本サッカーミュージアムにも立ち寄って……最終的に残ったのは、自国開催のW杯をリアルタイムで体感できなかったという未練でした。

 

 

 

月日は流れて2018年。

友人からの突然の誘いは、ロシアW杯観戦の話でした。

 

 

選手としてW杯に出る、その夢がまあ叶わないであろう事を小3で察してから、W杯を現地で見る事は人生の目標であり、今まで抱き続けたその未練を少しでも和らげる唯一の手段だと思っていました。まさかロシアW杯に行けるなど夢にも思っていなかった手前、あの誘いを受けた時にはそりゃ多少は動揺しましたよ。ただ、行きますと返答するのにそこまでの時間もかからなかった。ここに「人生初海外がロシア」という今や友人知人に武勇伝扱いされ始めた狂ったのプロフィールが完成するのです。

 

 

 

あの頃からは余りにも状況が変わりすぎて、今となってはロシアでの良い思い出を語る事は今となってはちょっと憚られますが、あの2週間は人生の中でも特別な2週間でした。

元々友人は彼が土地勘を持っているサンクトペテルブルクを拠点に試合観戦をしようと考えていて、それゆえに日本戦は行かずに終わったんですが、彼はロシアvsエジプトのチケットを有していました。サッカーを知らなかった2002年から16年が経ち、国は違えど…開催国の試合という空間に飛び込む事になろうとは。試合前後、ずっと色褪せる事なかった異様な緊張感と高揚感はやっぱり印象として強烈で。

そもそもロシアに向かう飛行機がモスクワに着いたのがちょうど開幕戦が終わった直後くらいだったんですよ。空港からの列車で都市部に向かった僕らはその足で赤の広場に向かったんですが、モスクワでの開幕戦直後の赤の広場というのがもう…すごい空気だったんですよね。

 

 

W杯の試合そのものは、なんだかんだで始まってしまえば後はスポーツとして時間は流れます。ただ、垢の広場をギッシリと埋め尽くす群衆の歓声を目の当たりにした時、16年間未知で在り続けた自国開催の意味に触れた気がしました。

そもそも夜だし、人はすし詰めで前にもまともに進めない、クレムリンも何も見れたもんじゃない。あの日の赤の広場は観光としては最悪でした。ただ、あの空気に触れられる瞬間は、自分が仮にロシア人だったとしてもあの日しか無かったし、あの瞬間しかなかった。W杯とは狂気であり、誰もがその刹那に狂う……あの赤の広場を見た時、和らぐと思っていた未練は、その意味に少し触れたせいでかえって増したようにも感じました。それが今月、ニュースサイトでもないくせにシリーズ化して日韓W杯を振り返った事にも繋がってしまったんだと思います。最悪日本戦じゃなくてもいい、何が何でも東京五輪は観に行く…そう誓ったのもあの瞬間でした。

 

 

 

ご存知の通り、東京五輪は何があっても観に行くという誓いには手を掛けたものの、最終的に叶う事はありませんでした。

 

 

「4年に一度じゃない。一生に一度だ。」

2019年のラグビーW杯開催時に掲げられたキャッチコピーは言い立て妙というか、自分でこんな事を言うのもなんですけど…日韓W杯に未練を抱き、ロシアW杯でその空気に触れた事で、このフレーズは自分の中で凄く重く響いていて、その後の東京五輪の顛末を見るとますますこの言葉の重みを実感する事になりまして。

あの日韓W杯はやっぱり一生に一度なんですよ。単独開催じゃなかったけれど、例えもし今後日本開催のW杯があったとしても、発展途上の日本サッカーに訪れたビッグイベントは唯一無二で、この日韓W杯と1964年の東京五輪は日本史に置いてずっとそういうポジションで生き続けるはずです。

 

 

 

ただ、そういう体感できなかった日韓W杯にミランを抱いたサッカーファンとして救いだったのは、今もこうしてJリーグが元気に発展・稼働しているという得難い日常です。

日韓W杯でのサッカーバブルも、ラグビー女子サッカーのように一時の熱狂として消化していく可能性もあった。でも日本サッカーにはこれらの熱狂とは異なり、Jリーグという確かな基盤が、高まりに高まった熱狂の受け皿が用意されていた……この事って、この国のサッカー界を成長させる過程において凄く重要だったと思うんですよ。Jリーグがしっかりと機能していた事で熱狂は日常に消化する事が出来て、熱狂を込めた日常がその先の道筋を繋いだ事で、僕らのようなあの熱狂を知らない者達もサッカーに追いつく事が出来た……単独開催だったら良かったのにとか、そういうタラレバは挙げたらキリはないですけど、日本はあのW杯を輝かしい歴史よりも一つのステップにする事が出来たんじゃないかなと思います。

 

 

 

20年前の熱狂には戻れないし、自分は結果、その未練を満たす事は永遠にない。

それでもきっと、そこから繋がる脈の上に立って日常に溶けた2002を見ているんでしょうし、別にサッカーに限らず、そういう日常の趣を感じながら生きていけたら…なんて思っています。