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【ヤット大先生引退…】 遠藤保仁 史上最強チーム選手権!日本代表編Part1

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英雄はいつかはピッチを去り、記憶に美しい残像を遺す。そして今度はその矜持を手にフィールドに舞い戻る……。

 

1月9日、YouTubeを見ていたら唐突に流れてきたLINE NEWSの速報。

誰もがその時は決して遠くはない事を自覚しながらも、同時にその前振りや予兆もなければ、事前報道の網をも掻い潜ってアップされた1本のYouTube

その動画を見終わったその時、一つの時代のピリオドが明確に打たれたような気がしました。

 

 

遠藤保仁、現役引退。

正直なところ、やっぱりショックと言えばショックでしたよ。なんというか、1〜2時間ぐらいぽけーっとしましたもんね。無になったというか。ピリオドと言いましたけど、ああ、本当に一つの時代が終わったんだなぁと。

 

 

 

私がサッカーを見始めたのが2005年。あの時のヤットさんと言えばセットプレーのスペシャリストかつ、派手な連中ばっかりいたチームの中の影のキーマン…裏番長じゃないですが、目立つのは大黒やアラウージョで一番知名度があるのはツネ様だけど、このチームは遠藤で全てが成り立っているんだぞ…みたいな立ち位置だったというか。それがいつの間にか名実共に文字通りチームの中心になっていき、いつしかそれが日本サッカーに於ける「チームの中心」という言葉の象徴的な存在にすらなっていった……遠藤保仁がいない時代を知らない立場としてその軌跡を追いながら歳を重ねていたんですね。私としては。

多分、その前に橋本英郎引退試合を観に行っていて、その時に感じた感覚がある種の"最終回感"みたいなものだったので、それがより一層時代の終わり感を強くしたような…。

 

 

ただ、まるでグッズの販促と同じようなノリで引退発表をしてきやがったあの動画でもわかる「あまりにも遠藤保仁すぎる引退発表」と、コーチとしてすぐに「ガンバ大阪遠藤保仁」が戻ってきたという事実が、かつてヤットさんが引退した時に抱くと思っていたショックの量を少し和らげてくれたようにも思います。

はい、という訳で今回のブログは遠藤保仁引退記念企画です。前編ははヤット大先生44歳のお誕生日(1月28日)に更新しましたので、今回は後編になります。

 

 

 

ヤットさんというと、色々なミドルやFKに代名詞のようなPKもありますし、そういうベストゴール大賞的なのも考えたんですけど……結局のところ、ヤット大先生の凄みは「ピッチを全て自分の支配下に置く」「常にそのチームの心臓として君臨する」というところになるんですよね。

という訳で今回は遠藤保仁 最強チーム選手権】という事で、遠藤保仁が君臨した印象的な、かつ好成績を残したチーム/シーズンの中で、結局最強のチームは、ベストチームはいつなのかを振り返ってみよう…と。遠藤保仁が君臨した2種類の青……ガンバ大阪と日本代表からそれぞれ7チームずつノミネートしていこうじゃないかと。そういう趣旨でございます。

「選手権」とは言いますが、あくまでノミネートなので順位は皆さんの思い出と感覚で勝手に付けて貰えると嬉しいです。今回は日本代表編の7チームです。

 

 

 

遠藤保仁 最強チーム選手権】

ガンバ大阪編Part1

ガンバ大阪編Part2

・日本代表編Part1

日本代表編Part2

 

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【日本代表編】

 

#1 U-20日本代表1999

 

 

監督:フィリップ・トルシエ

主な戦績:1999 FIFAワールドユース選手権 準優勝

 

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今なお日本サッカー史に伝説として輝いているチーム。日本がFIFA主催の世界大会で史上初めての決勝進出を果たした記念碑的な大会であり、当時のメンバーのうち、バックアップメンバーの曽ヶ端準を含めた19人中12人が日本代表デビューを果たした。1997年に当時のありとあらゆる「Jリーグ最年少」を塗り替えた稲本潤一、19歳の1998年の時点で黄金期磐田で20試合に出場していた高原直泰などただでさえタレント揃いのチームだったが、その中でも圧倒的な存在だった小野伸二を中心に躍進を遂げたチームは、後に「79年組」「黄金世代」として語り継がれていくことになる。トルシエが来日してから半年後のタイミングでの大会となったが、フル代表・五輪代表・U-20の3世代の監督を兼任したトルシエジャパンにとって最初のビッグイベントでもあった。

ボランチには当時19歳ながら既にガンバの看板選手となっていた稲本が絶対的な存在として君臨していたが大会前に負傷。メンバー入りはどうにかなったがコンディション面の問題が否定できなかった為、ワンボランチのレギュラーには遠藤が収まる形となった。当時の遠藤は司令塔のイメージというよりは技巧派、或いはミドルシューターとしての印象が先行していたが、小野伸二中心に回っていたチームの中で小野や本山といった攻撃のタレントを黒子として補佐するプレーで躍動。ベスト16のポルトガル戦では美しい弾道のミドルも決め、チームの準優勝に大きく貢献した。

ワールドユース後、遠藤はトルシエジャパンでは候補合宿にしか呼ばれなかったのに対し、小野や稲本、高原に中田浩二が日韓W杯までの間に立場を固めていた事から遠藤には遅咲きのイメージが持たれるようになったが、遠藤は19歳の時点でJ1で代表活動期間以外の試合にほぼ先発しているので十分早くから咲いていた選手ではある。ただし、黄金世代での代表デビューは比較的遅かった遠藤が最も長く、そして最も多く代表での軌跡を刻む事になった。2023年シーズンをもって高原、小野、遠藤とこの世代の中でも中心的な選手が揃って引退。黄金世代と呼ばれたワールドユースメンバーで、現役選手は稲本のみとなった。

 

 

 

#2 U-22日本代表1999

 

 

監督:フィリップ・トルシエ(五輪一次予選は山本昌邦監督代行)

主な戦績:シドニー五輪アジア予選全勝

 

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一次予選はコパ・アメリカ1999と日程が被っていたが、そもそもトルシエ自身が1999年まではフル代表と五輪代表と五輪予選を別個に活動させて2000年以降に合流させる構想だった事から、基本的にシドニー五輪予選は一次予選から五輪代表優先のメンバーが編成されていた。その結果、

メンバーはまさに波に乗っていたワールドユース組と中村俊輔柳沢敦宮本恒靖といった77〜78年組のシドニー世代が融合する形になり、2000年アジアカップから2002年日韓W杯までのメンバーはこのシドニー五輪予選のメンバーがベースになるほどの完成度と力強さを誇っていた。一次予選と最終予選の12試合を全勝かつ66得点というとんでもない勝ち上がり方を見せた。一次予選では中村と小野のWトップ下が輝きを見せ、最終予選では中田英寿も合流し、盤石かつ圧倒的な強さを見せた事はアジアの戦いに苦しんだ時代の終焉を印象付けるものだった。なお、度々語られる「小野の運命を変えた負傷」はこの一次予選の時のもの。

遠藤は香港で開催された一次予選の前半は参加していなかったが、舞台を日本に移した後半から招集されており、一次予選ではワールドユースと同様に3-1-4-2のワンボランチ、最終予選では稲本と組む形で3-4-1-2のダブルボランチを担っており、招集後は1試合を除いて全試合に出場している。ただし予選通過にもしっかりと貢献した遠藤だったが、五輪本戦では両サイドでプレーできる三浦淳宏オーバーエイジ招集に伴い右サイドの明神智和ボランチにスライドした事で遠藤はあぶれる形になり、バックアップメンバーに留まる結果となった。なお、ワールドユースシドニー五輪京都パープルサンガ(現:京都サンガFC)の所属選手として出場している。

 

 

 

#3 日本代表2007

 

 

監督:イビチャ・オシム

主な戦績:アジアカップ2007 ベスト4

 

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ドイツW杯での惨敗を受け、当時のJリーグで待望論も強かったイビチャ・オシムを代表監督に据えた。シドニー五輪世代を中心としたドイツW杯のメンバーの多くが2006年のうちに代表チームを去っており、代わりにアテネ五輪世代の面々が多く名を連ねるようになった。オシムジャパンにとって初のトーナメントとなったアジアカップでは初戦のカタール戦こそまさかのドローに終わったが、続く2試合では内容面も含めて快勝。しかし東南アジア特有の気候も相まって徐々に疲労を隠せなくなり、最終的には準決勝サウジアラビア戦を2-3、3位決定戦では韓国にPK戦で敗れて4位。3連覇はならなかった。

ジーコジャパンでは常連メンバーの座を掴み取り、2003年の一時期や国内組のみの試合ではボランチのレギュラーになる機会もあった遠藤だったが、オシムジャパンではメンバーの入れ替えに伴い従来のメンバーが多く去る中で、むしろ代表の中心選手として格上げされる形になった。特にアジアカップの頃には遠藤をボランチではなく2列目に起きつつ、遠藤に加えて中村俊輔中村憲剛の3人を揃って中盤に起用していた。岡田ジャパンでの遠藤はボランチで固定されたので、盟友かつ名コンビとして知られる2人が2列目に並んだのはこの時期くらい。後に中村俊輔は「おれとヤットと憲剛を同時に使ったの、オシムさんしかいないんだよ。あんなにムーブムーブとか言っていた人が、(パサータイプの)3人を同時に使うってなんなんだろうなと。ヤットにはよく、走れ走れとか言っていたけど。やっぱり違いを見せたり、技術だったり、走れないけど走るタイミングとかの判断を持っているから、3人同時に使ってもらえたのかなと」と述懐している。

 

 

 

Part2つづく

 

 

ではでは(´∀`)