お題「#応援しているチーム」
阪神マジで日程大丈夫…?
どーもこんばんは
さてさて、新型コロナウィルスによる中断期間を乗り越えて7月4日に再開された明治安田生命J1リーグ。その再開初戦でガンバ大阪はセレッソ大阪との大阪ダービーで1-2で敗れてしまいました。
しかしその試合では一つ、Jリーグの歴史に残る偉大な記録が生まれました。ガンバ大阪MF遠藤保仁選手がJ1通算632試合出場を達成し、横浜フリューゲルスと名古屋グランパスで活躍したGK楢崎正剛氏を抜きJリーグ新記録を更新したのです。
Jリーグデビューは1998年の開幕戦、横浜フリューゲルスの選手として飾りました。1999年からは京都パープルサンガ(現・京都サンガFC)、そして2001年からはガンバ大阪でプレーした遠藤のプロキャリアは今年でなんと23シーズン目。現在のガンバで最年長なのは自然としても、今季のガンバの主力であれば福田湧矢なんかは遠藤がプロデビューしたより後に生まれた選手な訳です。
昨年8月2日ヴィッセル神戸戦では【公式戦通算1000試合出場】という偉業も成し遂げている我らがヤット大先生。1000試合出場にしても日本代表最多出場にしてもそうですが、この記録を達成するにあたっては圧倒的な実力だったり、ブログでは挙げ切れない程に大記録を達成した要因はあるのですが、このような出場記録を重ねる為には絶対に不可欠な要素が2つあります。
一つは大きな怪我をしないという事。大きな怪我を負うという事は当然ながら治療期間は試合出場は出来ませんし、そして場合によっては怪我によって復帰後のパフォーマンスに影響が出る事もサッカー界のみならずスポーツ界では珍しい話ではありません。その点、ヤット大先生は、コンディションなどの不調や2006年と2008年にウイルス性の病気により数試合欠場した事はありましたが、プロデビューを果たした1998年から今日に至るまで大怪我と呼ばれる類の離脱はしていません。これは記録達成には欠かさない事項の一つで、40歳になった今も高いパフォーマンスを維持出来ている理由の一つとも言えます。
そしてもう一つ、絶対に欠かせないのは「全ての監督に信頼される」という事です。
どれだけ上手くてもどれだけコンディションが良くても、自分が試合に出られるかどうかを決めるのは監督です。23シーズンもプロ生活をすれば当然多くの監督と仕事をする訳で、監督も人間ですから、自分の中での戦術的嗜好など好き嫌いは当然あります。しかし遠藤は全ての監督からの信頼を受け、誰もがレギュラーとして起用してきた…これが今回の記録や1000試合を越える出場数を築く最大の要因でした。
7月8日の名古屋グランパス戦でも71分から出場し、出場試合数を633に伸ばしました。これからは出る度にそれが新記録となっていきます。
そこで今回からは「遠藤保仁×歴代監督」という部分を軸として、新記録を達成した偉大なる背番号7のキャリアを振り返っていこうと思います。
カルロス・レシャック
国籍:スペイン
遠藤を指導した期間:1998(横浜フリューゲルス)
スペイン、FCバルセロナで選手・指導者として長く活躍してきた人物。バルセロナの下部組織に練習参加した当時13歳だったリオネル・メッシのプレーを見て「彼は天才だ。紙ナプキンでも、なんでもいいからサインさせろ」と語った逸話は有名。
そんなレシャックがバルサ以外で唯一指導を行ったのが1998年の横浜フリューゲルスだったが、この年高卒ルーキーとして入団した遠藤を開幕戦でいきなり先発に抜擢した事は大きなサプライズで、ルーキーイヤーながらレシャックの下では主力としてプレーした。また、遠藤自身もレシャックの指導・サッカー観が後のプレースタイルに影響を与えた事を各媒体のインタビューで語っている。
国籍:フランス
遠藤を指導した期間:1999(U-20日本代表)、1999〜2000(シドニー五輪日本代表)
元々シドニー五輪に挑むU-23日本代表監督も兼ねていたトルシエ監督だったが、急遽U-20日本代表のワールドユースも指導する事に。同大会では最初はレギュラーという立ち位置では無かったが、稲本潤一の負傷もあって全試合にボランチとしてスタメン出場を果たした。大会はイングランド、ポルトガルなどを下して準優勝。遠藤や稲本の他にも小野伸二、高原直泰、中田浩二、小笠原満男、7年後にガンバでチームメイトとなる播戸竜二、加地亮らを擁したチームは後に「79年組」「黄金世代」と呼ばれる事になる。
シドニー五輪予選も序盤は出場機会も多かったが、稲本と明神智和がレギュラーに定着した事もあり五輪本戦での遠藤は予備登録メンバーに留まった。尚、トルシエの下でA代表デビューは果たしていないものの、候補合宿には何度か招集されている。
国籍:日本
遠藤を指導した期間:京都パープルサンガ(1999〜2000)
横浜フリューゲルス消滅に伴い複数選手と共に京都パープルサンガに移籍したが、清水秀彦監督、加茂周監督の下でプレーした1999年が初めて1年を通じてレギュラーとしてプレーした年になった。2000年はリーグ戦全30試合全てで先発出場を果たし、1999年もワールドユースにより4月の試合を欠場した以外は全ての試合に出場している。
国籍:ドイツ
遠藤を指導した期間:1998(横浜フリューゲルス)、2000(京都パープルサンガ)
横浜フリューゲルス時代にもエンゲルスの指導を受けているが、当時はエンゲルスの下では公式戦の出場機会を与えられる事のないままチームの消滅を迎えた。が、既に優秀な若手の一人にまで成長した2000年は加茂周監督退任後もエンゲルスの下でリーグ戦全試合に出場。三浦知良、松井大輔、朴智星らと共にプレーし、チームはJ2に降格したが翌年J1への個人昇格を果たす。
国籍:日本
遠藤を指導した期間:2001(ガンバ大阪)
ガンバ大阪ユースが台頭してきた事もあって、宮本恒靖や稲本潤一、吉原宏太や都築龍太などシドニー五輪世代が躍動して2000年2ndステージの優勝争いに絡んだチームに山口智と共に加入。早野は成績不振により10月に辞任したが、遠藤はこの時点で確固たる地位を築き始め、同年9月には日本代表の候補合宿にも参加した。
国籍:日本
遠藤を指導した期間:2002〜2011(ガンバ大阪)
言うまでもなく、西野朗監督の下で過ごした10シーズンは遠藤保仁、西野朗、そしてガンバ大阪にとって「最良の10年」と呼ぶに相応しいものだった。西野監督体制1年目となる2002年から遠藤にとっても初めてとなるJ1での優勝争いを経験し、代表にも定着すると共にガンバの心臓、ガンバの核として揺るぎない地位を手にするようになる。チームがJ1優勝を果たした2005年はアラウージョ、フェルナンジーニョ、大黒将志のトリオに注目が集まったが、彼らを操っていたのは間違いなく遠藤だった。
2007年辺りからは明神智和、橋本英郎、二川孝弘の4人で構成された中盤が「黄金の中盤」と称されてガンバの主役という位置に来るようになり、ガンバと西野監督が織りなす攻撃的なパスサッカーを体現した。最近、ガンバはスローガンで「GAMBAISM」を掲げるようになったが、この言葉が求めているであろうイズムは西野監督と遠藤が築いたものと表現しても決して大袈裟ではない。この10年間の間にガンバはタイトルを5つ、遠藤個人では2009年にAFC年間最優秀選手賞を受賞。最大のハイライトは2008年にACLを制した事で参加権を得たクラブワールドカップのマンチェスター・ユナイテッド戦で、サッカー史に残る強さを誇ったマンUと3-5の打ち合いを演じた一戦で、エドウィン・ファン・デル・サールとの攻防を覚えている人も多いはず。
西野監督は2018年には日本代表をロシアW杯でベスト16に導き、1998年から2001年まで指揮した柏レイソルでも優秀な成績を残すなど豊富なキャリアを持つ指揮官である事は言うまでもない。そひて、その監督キャリアに於ける最重要人物こそ遠藤保仁だったと言える。
国籍:ブラジル
遠藤を指導した期間:2002〜2006(日本代表)
「海外組に依存していた」という批判が多いジーコ監督だが(実際にそれ自体は間違いじゃないが)、遠藤を最初に代表で重宝した監督もまたジーコであるという事は意外と忘れられている。小野伸二が負傷したという理由はあるにせよ、2003年コンフェデ杯ではボランチのレギュラーとして3試合に出場し、当時は定期的にあった国内組のみで代表が編成される際は2006年に小野が浦和レッズに復帰するまで福西崇史とボランチのレギュラーを張っていた。2006年ドイツW杯本戦のメンバーにも選ばれ、フィールドプレイヤーで唯一出場機会が無かった事がクローズアップされたが、本人曰くシドニー五輪の予備登録メンバー等と比べるとそこまでショックではなかった事が本人の口からも語られており、たまに見かける「ジーコには冷遇されていた」という言説は正解とは言えない(国内組全体…という形なら話は別)。
余談だが遠藤の代表デビュー戦となった2002年のアルゼンチン戦はジーコジャパン期間ではあるものの、その試合でジーコ監督は家族の事情でブラジルに一時帰国していた。その為、最初に遠藤をAマッチで起用したのは代行監督を務めた当時の山本昌邦コーチとなる。
国籍:ボスニア・ヘルツェゴビナ
遠藤を指導した期間:2006〜2007(日本代表)
今尚遠藤が「影響を受けた監督は?」的な質問で名を挙げる事が多い監督であり、またオシム監督自身も「彼がいれば監督は必要ない」と言うほど遠藤に全福の信頼を置いていた。ジーコジャパン時代は代表の常連…というポジションだった遠藤が代表でも欠かせない存在になったのはオシムジャパンからである。3連覇を目指した2007年のアジアカップでは準決勝敗退という結果に終わったが、中盤に遠藤保仁、中村俊輔、中村憲剛を3人同時に起用したのはかなり魅力的であった。
実際、この時点で既に遠藤はガンバの心臓と呼べる選手ではあったが、27歳を過ぎたこの辺りからプレーに「凄味」が増した感は確かにある。
後編に続く!
黄金の中盤懐かしい…。
ではでは(´∀`)