昨日書いたのはベストゴール選
どーもこんばんは
さてさて、2024年は京都サンガFCのクラブ創立30周年でございます。
色々あった30年。ホームで行われる第31節G大阪戦と第33節神戸戦では開幕前に発売されたイヤーブックのアンケートにより選出されたベストイレブン選手のパネルが掲示されますが、…まあ、実際ベストイレブンって選ぶ側もそれはそれで難しいじゃないですか。GKはともかく、DF/MF/FWをそれぞれ何人選ぶかも考える必要があるし、そもそも11人じゃ収まらん、ボランチ1〜2人しか入れれねえじゃん!みたいなことも起こる訳ですよ。
という訳で今回は、あくまでわたくしRK-3の独断と偏見ではありますが、サンガのポジション別歴代ベストプレイヤートップ5を選出してみたいと思います!
今回はあくまで活躍と貢献にフォーカスを当てていきます。知名度だけで選ぶベストイレブンは以前に書いたのでぜひそちらで…↓
で、今回はポジション別ということで全8部門を設定してみました。
GKはGKとして、DFをSBとCB、MFをボランチと攻撃的MF(2列目)、FWを日本人アタッカーと外国籍アタッカーに分け、おまけとして最後に監督ベスト5を選出。あくまで独断と偏見、なんなら複数ポジションで活躍した選手なら「そいつそのポジションじゃねえだろ」という部分もあるやもしれませんが、そこはむしろ皆々様で語らう余地として捉えてもらえれば…と。また、筆者は2005年からサッカーを見始めているので、それ以降の選手からの選出が多くなることは予めご了承くださいませ。
④GK/監督編
【京都サンガFC 30周年企画ブログのまとめページはこちら!随時色々と更新しております。】
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【GK部門】
第5位
生年月日:1994年6月27日
国籍:韓国
在籍:2023年7月〜
背番号:94番
【サンガでの成績】
J1リーグ通算成績:40試合
公式戦通算成績:42試合
京都の新たなる守護神。韓国代表経験者であり、2016年リオ五輪では韓国の正GKも務めた。韓国人だが、高校の時にスカウトされてC大阪のアカデミーで育っているなどプロキャリアはほぼ日本で過ごしており、日本語はイントネーションまで含めてネイティブ並の能力を持つ。
札幌では長らく絶対的な存在としてプレーし、兵役期間が終了しても札幌に復帰するほどの相思相愛関係だったが、満を持して復帰した2023年は菅野孝憲にポジションを奪われた(奇しくも菅野も元サンガである)。その為、シーズン途中に若原智哉が負傷離脱となったサンガに期限付き移籍で加入。初年度は太田岳志とポジションを争いながらではあったが存在感のあるセーブを何度も見せると、完全移籍となった2024年は神懸かり的なパフォーマンスを毎試合のように披露。PKに至っては決められた数より止めた数の方が多く、22年ぶりに2万人の観客を集めた第31節G大阪戦では相手エースの宇佐美貴史に「相手のGKがク・ソンユン選手じゃなければインパクト的には3〜4点は決まっていたかなとは思いました」とまで言わせた。彼の存在がなければサンガはJ1残留を果たせてはいないだろう。
第4位
上福元直人
生年月日:1989年11月17日
在籍:2022年
背番号:21番
【サンガでの成績】
J1リーグ通算成績:31試合
公式戦通算成績:34試合
初めてJリーグで10試合以上に出場したのが大分がJ3を戦っていた27歳のシーズンという苦労人GK。しかしその後は大分の片野坂監督、東京Vのロティーナ監督、徳島のリカルド監督とポヤトス監督とGKにも足元の技術を求める監督の下でのプレーが続いた事で正GKのポジションを掴み、徳島のJ2降格とサンガのJ1復帰が重なったタイミングでサンガへの移籍を決断した。
2022年は若原やマイケル・ウッドとの激しいポジション争いが予想されたが早々と守護神の座を掴むと、浦和→C大阪と難敵が続いた開幕2試合で圧倒的なパフォーマンスを披露。東京V時代の昇格プレーオフでラストプレーの決勝点に貢献した攻撃参加から「神福元」という渾名が一部で浸透し始めたがサンガでの最初の2試合で完全に定着。シーズンを通してビッグセーブを連発し、セーブのみならずハイラインのサンガにとっては5人目としてDFラインのカバーをできる点でも重要だった。
在籍は1年だがそのインパクトは強く、冒頭で書いたアンケートで実施されたベストイレブン投票では上福元が選ばれている。また、サンガでプレーした時点で33歳のシーズンだったにも関わらず退団時には移籍金をクラブに残した。
第3位
生年月日:1962年8月12日
在籍:1997年8月〜2000年
背番号:34番(1997)→1番(1998〜2000)
【サンガでの成績】
J1リーグ通算成績:85試合
公式戦通算成績:96試合1得点
サンガの歴代GKの中で最も一般的な知名度の高い大物GK。Jリーグ開幕前後の日本No.1GKであり、1992年のアジアカップ優勝(厳密には決勝は出場停止)や国立競技場で行われた1993年の開幕戦、そしてその後に訪れるドーハの悲劇など、日本サッカーの歴史にとって大きな転換点の生き証人である。
日産自動車時代から名門・マリノスの絶対的な存在だったが、川口能活の台頭で出場機会が激減し、Jリーグ加盟前の鳥栖と仙台を経てサンガに新天地を求めた。翌1998年にはハンス・オフトがサンガの監督に就くなど多くのドーハ組1〜2シーズンほどサンガに在籍にした時期だったが、松永は3シーズン半に渡ってプレー。当時のサンガはピークを過ぎたスターの寄せ集め集団感が否めず、言ってしまえば加入時は松永もそのうちの一人ではあったのだが、絶対的な安定感で揺れるチームの守備を支え続けた。
現在は2007年から現在まで務める「マリノスでずっとGKコーチやってる人」というイメージがあるが、指導者デビューは2000年に引退した流れでサンガで果たしており、2006年までGKを務めるなど現役時代を含めれば10年近くサンガで仕事をしていた。ちなみに1999年のナビスコ杯では松永の蹴ったクリアボールがそのままゴールに入る珍事が起きており、GKとして点を決めた史上2人目のJリーガーかつJリーグでPK以外で点を決めた史上初のGKとなっている。
第2位
生年月日:1980年5月26日
在籍:2008年〜2012年
背番号:21番(2008〜2010)→1番(2011〜2012)
【サンガでの成績】
J1リーグ通算成績:77試合
J2リーグ通算成績:80試合
公式戦通算成績:181試合
サンガがJ1に復帰した2008年、柳沢敦や佐藤勇人にシジクレイなどの大型補強を敢行したうちの一人として加入。貴重な控えGKだった西村弘司が退団し、正GKの平井が元々怪我の多い選手でもあった事から正GK級の人材を2人確保しておきたい目的で獲得した。3年前のJ2では1位のサンガを追う2位福岡の守護神だった事もあり、どことなく不思議な感覚を覚えたファンは少なからずいたはず。
開幕当初は平井が正GKとしてスタートしたが、4失点を喫した第8節浦和戦に続く第9節よりスタメンに起用されると、そこから加藤久監督体制では不動の正GKとしてプレー。2000年途中から平井が君臨し続けていた正GKの座を打ち破った選手となった。2009年にはサンガのGKとして1999年の松永以来10年ぶりとなる全試合出場を果たすなどクラブが初めて2年連続残留を果たす上で堅実ながら大きな貢献を果たし、監督交代が行われた2010年こそ一時ポジションを守田達弥に譲ったが、大木武監督が就任した2011年には守田からポジションを奪い返して守護神に返り咲き、同年の天皇杯準優勝も達成。特にJ2対決準々決勝湘南戦ではMVP級の活躍で躍進に大きく貢献した。
第1位
生年月日:1978年7月16日
在籍:1997年〜2010年
背番号:28番(1997〜1999)→21番(2000)→1番(2001〜2010)
【サンガでの成績】
J1リーグ通算成績:100試合
J2リーグ通算成績:113試合
公式戦通算成績:254試合
京都市に生まれ、サンガのユースで育ち、そしてサンガの守護神としてキャリアを全うした根っからのワンクラブマン。「ひらーいイェイ!」という独特のノリの軽さを持つ応援歌も印象的だった事から、もはや「平井イェイ」として記憶している人も稀に存在する。ちなみにサンガユースからトップチームに昇格した史上初の選手でもある。
2000年の2ndステージから22歳で名手松永からポジションを奪うと、そこから2008年の序盤戦までサンガの守護神という場所は常に平井直人の定位置だった。2001年には背番号1も継承し(ちなみに同じタイミングで手島が5番、パクチソンが7番、黒部が9番、松井が10番に格上げされている)、そこからの天皇杯優勝や3度のJ1昇格とJ2降格といった軌跡を辿り、天皇杯決勝はJ1・J2入れ替え戦といった歴史的な舞台にも立ち続けてきた。至近距離のシュート反応にめっぽうの強さを持ち、むしろ猛攻を喰らっているような試合展開でこそ強さを発揮するスタイルは、戦力差的に押し込まれる展開の多かった当時のサンガに於いて絶対的支柱のような存在感すら見せていた。
2010年にJ1通算出場をちょうど100試合として現役引退。サンガでは2011年と2012年にアカデミー、2015年と2016年にトップチームのGKを務め、それ以外の期間は他クラブのGKコーチを務めている。特に2017年に山口のGKを務めた際にはGKに怪我人が複数発生した事による緊急措置として選手登録されたが、奇遇にもこの試合の対戦相手が西京極でのサンガ戦だった事から注目と歓迎の声を集めた。現在はレイラック滋賀で角田誠監督の下でGKコーチを担っている。
【監督部門】
第5位
生年月日:1973年4月19日
任期:2019年
在任はわずか1年のみとなったが強烈なインパクトを残した監督。
2018年にJ3降格寸前まで陥ったサンガが2019年の新監督として迎えた中田監督は自身が代表を務める社会人リーグの監督経験のみで、2017〜2018年に失敗した布部体制に続いてのギャンブル人事とも言える抜擢と、チーム始動前からのアグレッシブ過ぎるSNS運用に多くのサポーターが不安を抱いていた。しかしいざ開幕戦を迎えると、前年までのサッカーとは見違えるようなポゼッションサッカーを展開。後半戦こそ最終的に13-1に至る失速でプレーオフさえも失ったが、夏場には首位にまで上り詰めるなど前年は降格危機にまで陥ったチームを生まれ変わらせた。サンガの元監督であるエンゲルスを筆頭に「日本一豪華なコーチ陣」とも呼ばれたコーチングスタッフに権限を与えた分業制を採用し、自分は方針決定と最終決定者となるマネジメントも特徴的だった。
フロントとの確執を匂わせていた事もあり1シーズンのみで契約満了となったが、2019年に成した仕事は見事であり、強烈なインパクトがあった。果たして一三サンガに2年目があったとして、2年目はより飛躍を遂げたのか1年目の夏をピークとしたのか……今となってはそれはわからない。
第4位
生年月日:1961年3月1日
在籍:2004年6月〜2006年9月
OBではないが京都出身で、高校時代までを京都で過ごしている。サンガとしては初めての地元出身監督の就任となった。
2003年に山形の監督を退任してフリーになっていたところ、2004年途中に西村昭宏監督を解任したサンガからのオファーを受諾。就任時点で12チーム中8位だったチームを同年は5位まで持ち直すのみに留まったが、GM兼任監督として全権監督に近い役割を与えられた事で翌年は抜本的な改革を断行。柱谷監督時代の山形で活躍した選手や他のJ2クラブの主力を根こそぎ引き抜く辣腕をふるい、2005年は第2節以降2位にすら落ちないという首位独走でJ2優勝を果たした。
2006年はJ1仕様のチームを作れず最下位で降格し、柱谷監督も9月に解任の憂き目を見た。しかし同年には2005年から計画を進めていた「スカラーアスリートプロジェクト」が始動。この育成システムは元々GMを兼ねていた柱谷監督が立案・提唱し、そのプレゼンに共鳴した稲盛和夫会長が形にしたものである。このシステムが後に駒井善成や久保裕也、現所属の麻田将吾や川﨑颯太らを輩出した事実を踏まえると、監督としての額面的な成績以上に柱谷監督がクラブに遺した功績は大きかった。
第3位
生年月日:1961年7月16日
在籍:2011年〜2013年
サンガが最も面白いサッカーをしていたのはいつ?と聞けば、大木監督が率いた3年間を挙げる人は多いはず。それだけ大木サンガと歩んだ3シーズンは特別なもので、なによりスペシャルサッカーをしていたと迷いなく言える時代だった。
J2降格が決まった2010年、続く2011年の監督に当初は南アフリカW杯が終わったばかりの岡田武史監督にオファーしていたが同氏は固辞。するとその南アフリカW杯でコーチを務め、かつてセンセーショナルなスタイルで甲府を昇格、そして残留させた実績を持つ大木監督を招聘。前年までの堅守速攻、相手によって戦い方を都度変えるスタイルからパスサッカーへの転換には時間がかかり2011年は殆ど昇格争いに絡めなかったが、シーズン終盤にサッカーが浸透するとラスト10試合を8勝2敗でフィニッシュ。続く天皇杯ではJ1で6位の鹿島と5位の横浜FMを撃破して準優勝の結果を残すなど、間違いなく秋の主役となっていた。
2012年と2013年も3位という結果を残し、大木サンガは内容の娯楽性も含めて注目度の高いチームとなっていたが、2012年から上位3チームに与えられていた昇格枠が上位2チーム+プレーオフになった間の悪さと、2013年はガンバ大阪とヴィッセル神戸という開幕前から自動昇格がほぼ決まっていたような2チームの存在もあって自動昇格は叶わず、プレーオフでは大木サンガにおける致命的な欠点となった勝負所での脆さがモロに出る結果となった。あのチームでJ1に行ったらどうなっていたのか。躍進したのか、蹴散らされたのか…その答えさえわからないことは、今も一つの未練になっている。
第2位
曺貴裁
生年月日:1969年1月16日
在籍:2021年〜
サンガスタジアム2年目となる2021年より監督就任。同年のJ2はコロナ禍により降格クラブが無く、例年と比べて昇格争いのライバルになり得るクラブが少なかった。そういう背景も踏まえて「なんとしても今年昇格しなければならない」という意向の下、湘南時代に確かな実績と明確な汚点の両方を持つ曺監督だったが「J1に上げれる監督」として招聘している。
「秩序あるカオス」を戦い方のコンセプトに据え、ハイプレスとハイインテンシティーを押し出したプレッシングスタイルを早々と確立し、2021年は序盤戦から自動昇格争いをリード。J2優勝こそ終盤に差をつけられた磐田に譲ったが、10年もJ2から逃れられなかったクラブは曺監督の下でとうとうその呪縛から解き放たれた。常にチームの核を引き抜かれ続けた湘南時代とは異なり、基本的に前年の戦力を引き継ぎながら戦えているサンガでは戦い方のワンパターンぶりを露呈することはあれど、川﨑や麻田など若手の台頭も促しながらJ1に残留し続けている。
湘南時代の事を抜きにしても毀誉褒貶の激しいスタイルの監督でこそあるが、J2に閉じ込められたサンガをJ1に引き上げ、J2誕生以降4年連続J1にいた事がなかったサンガに「4年目のJ1」を与えるなど、これまでクラブが辿り着けなかった場所に曺監督が引っ張ってくれた事は間違いない。2025年も続投が決定しており、一桁順位を狙えるチームに鍛えてほしいところ。
第1位
生年月日:1957年4月26日
在籍:2000年9月〜2003年
サンガにとって、疑いよう無くナンバーワンにしてオンリーワンのシーズンを作り上げた名将。フリューゲルス消滅後に臨んだ市原での監督業こそ上手くいかなかったが、2000年よりヘッドコーチとしてサンガに加入。サンガにはフリューゲルスのフロントにいた木村文治が遠藤保仁や手島和希など複数の若手を連れてきていた為、期せずしてかつての同僚と再会する事になった。
加茂周監督の解任に伴い監督に昇格した2000年は前半戦の取りこぼしが響いて降格を避けられなかったが2ndステージでは巻き返しを見せる。圧巻だったのは2001年と2002年でクラブとして抜本的な世代交代を図る中、前年までは控えFWに過ぎなかった黒部をエースとして擁立し、松井、パクチソン、手島、平井といった前年から出場機会を与えていた選手をレギュラーに据え、世代交代とJ2優勝を同時に果たしてみせた。そのメンバーを中心とした2002年は天皇杯優勝とJ1で5位というクラブ史上最高のシーズンを演出。黒部・松井・パクチソンのトリデンテ形成は元々ボランチだったパクチソンをFWで起用した韓国代表のヒディング監督のアイデアを流用したものだが、前年までほぼ出場機会のなかった斉藤大介にボランチのポジションを与える事でサンガにも適用させた柔軟性もあった。2003年は降格危機に陥った事で解任の憂き目を見たが、黒部、松井、手島とサンガで育った選手が代表選出を果たしている点も見逃せない。
2018年にはフリューゲルスで共に天皇杯を制した吉田孝行監督や三浦淳寛SDのいた神戸でヘッドコーチを担い、2019年にヘッドコーチとして16年ぶりにサンガに復帰した際も中田監督とフリューゲルスと市原で共に仕事をしていたなど教え子に請われる機会が多い。2025年には自分が無名のFWから日本代表選手にまで育てた黒部光昭が強化部長を務める徳島のヘッドコーチに就任する。
④GK/監督編
ではでは(´∀`)