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【ドーハの悲劇から30年】1994年アメリカW杯アジア最終予選 日本代表メンバー選手名鑑 Part4

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その日、日本列島は燃え上がるような歓喜を味わい、期待を胸に抱いて刻まれる時の針を数え、そしてそれが一瞬にして静寂に変わる瞬間を目の当たりにしました。

 

1993年10月28日、カタールのドーハ、アル・アリ競技場。華々しく開幕したJリーグの熱が後押しした激動の半年間はいつしか狂気の渦と化し、この国のサッカー人が誰も経験した事のない時流の中で躍動したオフトジャパンが迎えた最期はあまりにも悲劇的で、そして今振り返れば何よりもドラマティックだったのでしょう。

「あの時W杯出場を逃して良かった」と思う人は一人もいないはず。ですが一方で、あの悲劇がもたらした教訓は後の日本サッカーの成長に大きな意味をもたらし、空前のJリーグバブルという狂気を孕んだ1年を光速で駆け抜ける中で産み落とされた余りにも悲劇的なストーリーはこの国にサッカー日本代表というコンテンツが根付く上で必要なドラマだったのかもしれません。いずれにせよ、あの場所にいた22人の代表戦士達は彼らの掲げた壮大な夢が叶う事はなかったとしても、間違いなくこの国のサッカー史に於ける偉人だったのだと思います。

 

Jリーグ開幕30周年。

Jリーグが幕を開けたあの年に起こったあの出来事から30年。

ジャパンレジェンド選手名鑑シリーズという事で、今回からはドーハの悲劇を目の当たりにした1994年アメリカW杯アジア最終予選日本代表メンバーの選手名鑑を作成していきたいと思います。

 

 

 

Part1 / Part2 / Part3 / Part4

 

 

Jリーグ30周年記念特集こちらから!

 

オリジナルアルバム出してみました!聴いてみてくださいませ。

 

 

 

【1994年アメリカW杯アジア最終予選日本代表】

 

《スタッフ》

監督:ハンス・オフト

コーチ:清雲栄純

GKコーチ:ディド・ハーフナー

 

《登録メンバー》

GK1 松永成立(横浜マリノス)

DF2 大嶽直人(横浜フリューゲルス)

DF3 勝矢寿延(横浜マリノス)

DF4 堀池巧(清水エスパルス)

DF5 柱谷哲二(ヴェルディ川崎)

DF6 都並敏史(ヴェルディ川崎)

DF7 井原正巳(横浜マリノス)

MF8 福田正博(浦和レッズ)

FW9 武田修宏(ヴェルディ川崎)

MF10 ラモス瑠偉(ヴェルディ川崎)

FW11 三浦知良(ヴェルディ川崎)

FW12 長谷川健太(清水エスパルス)

FW13 黒崎比差支(鹿島アントラーズ)

MF14 北澤豪(ヴェルディ川崎)

MF15 吉田光範(ジュビロ磐田)

FW16 中山雅史(ジュビロ磐田)

MF17 森保一(サンフレッチェ広島)

MF18 澤登正朗(清水エスパルス)

GK19 前川和也(サンフレッチェ広島)

FW20 高木琢也(サンフレッチェ広島)

DF21 三浦泰年(清水エスパルス)

DF22 大野俊三(鹿島アントラーズ)

 

 

 

《試合結果》

10月15日 第1節 vsサウジアラビア△0-0

10月18日 第2節 vsイラン●1-2

10月21日 第3節 vs北朝鮮○3-0

10月25日 第4節 vs韓国○1-0

10月28日 第5節 vsイラク△2-2

 

※当時のアジア最終予選は中立地でのセントラル開催となった為、全試合がカタールのドーハを舞台に行われている。

 

 

 

 

GK19 前川和也

(サンフレッチェ広島)

 

生年月日:1968年3月22日

出身地:長崎県平戸市

最終予選での成績:0試合

過去の所属チーム:長崎県立平戸高校→マツダSC/サンフレッチェ広島(1986-1999)→大分トリニータ(2000-2001)

日本代表通算成績:17試合出場(1992-1996)

アジアカップ出場(1992)

 

今でこそ高身長の選手も増えたが、180cmを超える選手すら珍しかった中で188cmの長身を誇った名GK。怪我が多い事は難点ではあったが、体格を活かしたセービングには定評があり、当時の広島のバクスター監督はそのプレーぶりを「生きている壁」と称した。同郷で同学年の高木とは高校サッカーの長崎予選決勝で対戦しており、高木擁する国見高校の32本のシュートを無失点に抑え、対する平戸はシュート1本を決め切って勝利している。

当時は松永成立という絶対的な存在があった事もあり、代表でのハイライトは1992年アジアカップとなる。松永の退場で緊急出場となった準決勝こそ凡ミスから失点を喫したが、決勝では好パフォーマンスを見せて優勝に貢献した。最終予選でも松永の牙城こそ崩せなかったが、それでもインパクトのある名GKとして当時のファンの記憶に強く刻まれている。

大分で引退した後は大分のスタッフや広島のスクールコーチを歴任。現在は広島のFCバイエルン・ツネイシで育成年代の指導にあたっている。息子はヴィッセル神戸で奇しくもGKとして活躍する前川黛也で、2021年3月に黛也が日本代表に選ばれた事で史上初の親子二代による代表招集となった(試合出場は2022年7月の水沼親子が初)。ちなみに黛也を代表に呼んだ森保監督は広島のチームメイトで、共に長崎の出身でもある。

 

 

 

FW20 高木琢也

(サンフレッチェ広島)

 

生年月日:1967年11月12日

出身地:長崎県南島原市

最終予選での成績:2試合出場(先発2)

過去の所属チーム:大阪商業大学藤和不動産(1990-1991)→マツダSC/サンフレッチェ広島(1991-1997)→ヴェルディ川崎(1998-1999)→コンサドーレ札幌(2000)

日本代表通算成績:44試合27得点(1992-1997)

アジアカップ出場(1992,1996)

Jリーグベストイレブン受賞者(1994)

 

アジアの大砲」と称された1990年代の日本を代表するストライカー。カズ武田中山のように、当時の日本のFWにはテクニックやスピード、機動力に長けた選手が多かった中で、184cmの長身を活かした稀有なフィジカルタイプのFWとして強い存在感を示した。多くの名FWを輩出した国見高校の中でも最高傑作に近い選手であり、広島の歴史の中で大きなページを刻んだレジェンドである。

オフトジャパンで代表に初招集されるとダイナスティカップアジアカップでゴールを量産。特にアジアカップ決勝では1-0で勝利する優勝決定ゴールを叩き込み、ホームタウン広島で日本サッカーの歴史を大きく変える一発を決め切った。しかし最終予選ではレギュラーFWとして期待されながら不振に陥り、途中から中山にスタメンの座を奪われ、その瞬間はベンチから見届けている。しかしフランスW杯予選では最終盤で中山と共に復帰し、ジョホールバルの歓喜の際もベンチ外ではあったが招集メンバーとして現地で歓喜の輪に加わった。ドーハの悲劇ジョホールバルの歓喜の両方を現地で体感したのは井原,カズ,北澤,中山,そして高木の5人である。

引退後はJ2クラブを中心に監督を歴任。ソリッドなサッカーを志向し、特に横浜FCと長崎というJ1未経験クラブを初の昇格に導いた手腕は高く評価されており、地元の長崎では長期政権を築いていた。息子の高木利弥もプロサッカー選手で、山形や柏で活躍してした。ドーハのチームメイトである前川と森保は同郷かつ同僚の間柄でもある。

 

 

 

DF21 三浦泰年

(清水エスパルス)

 

生年月日:1965年7月15日

出身地:静岡県静岡市

最終予選での成績:2試合出場(先発2)

過去の所属チーム:静岡学園高校→サントスFC(1984-1985)→読売クラブ(1986-1992)→清水エスパルス(1992-1995)→ヴェルディ川崎(1996-1998)→アビスパ福岡(1999-2001)→ヴィッセル神戸(2002-2003)

日本代表通算成績:3試合0得点(1993)

 

キングカズの実兄としてのイメージが先行するが、兄も十分に豊富な実績を残した名手として知られている。ブラジル留学から帰国後は弟のカズよりも先に読売に入団したが、前身チームを持たない清水が発足に合わせて静岡出身選手を大量獲得した際にこれに応えた。余談だが同じ読売からは堀池も清水移籍を選択した一方、カズはオファーはあったが読売に残留している。

都並の負傷による左SB不在という問題を抱えた代表では、本職こそMFながら読売時代に左SBをこなしていた三浦に白羽の矢が立つ形となった。実質的な事前合宿とも言われていた9月のスペイン遠征を含めてこれまで選ばれていなかった為、本人はいちファンの一人として応援しようとしていたところの突然の招集だったという。ただ攻撃こそラモスとの好連携もあってスムーズに進んだがイラン戦では守備の難点を露呈する形になり、北朝鮮戦からはスタメンを外れた。実質的に日本は都並の負傷に対し、本職ではない2人から攻の三浦か守の勝矢の二者択一を迫られていた事になる。本人にとってドーハの記憶は長らく大きなトラウマだったそう。

引退後は監督として活動。古巣のヴェルディを指揮した際は散々な結果に終わった一方、北九州や鹿児島の監督を務めた際には好成績を残し、特に鹿児島でJ2昇格に迫った時にはドーハの教訓も活きたという。現在は鈴鹿ポイントゲッターズの監督を務め、2022年にはカズと監督と選手として仕事をした。

 

 

 

DF22 大野俊三

(鹿島アントラーズ)

 

生年月日:1965年3月29日

出身地:千葉県船橋市

最終予選での成績:0試合

過去の所属チーム:習志野高校→住友金属工業/鹿島アントラーズ(1983-1995)→京都パープルサンガ(1996)

日本代表通算成績:0試合(1993)

 

JSLの中でも秀でた実績を残したわけではない住友金属時代から長きに渡って鹿島でプレーし、1993年に鹿島アントラーズとして迎えたJリーグ開幕で躍進するチームで守備の要として活躍。一躍リーグ屈指の日本人DFとして台頭し、最終予選にも控えCBとして招集された。対人や空中戦の強さに定評があり、鹿島の草創期を代表するCBとして知られている。

日本代表歴はそれまで無かったが、1stステージで優勝した鹿島でのプレーぶりを高く評価されて代表入りを果たした。特に最終予選では元々控えCBだった勝矢を左SBとして起用しなければならなくなった為、大嶽と共に控えDFとしての存在は大きかったと言える。最後の失点の瞬間は茫然自失として何が起きたかわからなかったそうで、ドーハ以来はサッカーのみならず、携わる運営のイベントでも「最後の詰め」を強く意識するようになったと語っている。

1996年に1年だけ京都でプレーした後に引退。引退後は鹿島の育成スタッフ、解説やイベント参加を行いながら、現在は運動宿泊施設の鹿島ハイツの支配人として辣腕を奮っている。

 

 

 

監督 ハンス・オフト

 

生年月日:1947年6月27日

出身地:オランダ,ロッテルダム

 

日本代表史上初の外国人監督。現役選手としては名門・フェイエノールトでプレーしたが28歳の若さで引退し、他より先にコーチング業を始めた。その後は世代別オランダ代表コーチなどを務め、1982年に杉山隆一の誘いに応じてヤマハのコーチに就任。当時解説者だった川淵三郎ヤマハのサッカーが急激に良くなったことに衝撃を受け、その要因を調べていくとオフトの存在に辿り着き、後に自分の手で代表監督に迎え入れる事となる。1984年からはマツダのコーチ/監督を歴任しチームを躍進させた。ドーハ組では吉田ヤマハ時代の、森保と前川がマツダ時代の教え子にあたる。

日本代表監督に就任したのは1992年。オフトの就任と同時に日本代表の強化方針もJリーグ開幕に合わせて抜本的に改革され、オフトジャパン初陣となるアルゼンチン戦はまさしく今に通ずる日本代表の始まりと言える一戦だった。当時全く無名ながらデビューさせた森保の活躍をきっかけに「ボランチ」という概念が日本に定着した事をはじめ、戦術の概念が希薄だった当時の日本に「トライアングル」「アイコンタクト」「タスク」「コンパクト」「ディシプリン」といった用語を浸透させ、主将を務めた柱谷はオフトの言葉により「それまではっきりしなかった事が明確に見えるようになった」と語っている。それまでの代表からの急激な変化やサッカー観の違いからラモスは反発したりもしたが最終的にはオフトを恩人と語るまでの関係になっており、戦術面が未開だった日本に戦術的な考え方を授けた面がフォーカスされたが、ダイナスティカップ決勝で長年の韓国コンプレックスを抱く選手に対して韓国のスタメン表を床に叩きつけるパフォーマンスを見せるなどモチベーターの素養もあった。

最終予選では都並の負傷という問題は最後まで解決出来なかったが、第3戦以降のメンバー変更で盛り返すなど集大成まであと一歩に迫っていた。しかしイラク戦で北澤ではなく武田を投入した判断が後に議論の対象となる事もあり、後に監督に就任した磐田や浦和でもオフトの後任がタイトル獲得に漕ぎつけたように勝負師ではないとする意見もある。だが当時の日本代表にせよ磐田や浦和にせよ、その土台を築いたのは間違いなくオフトであり、そして何よりアジアカップ優勝や日韓戦の勝利、そしてW杯出場を夢ではなく目標として掲げる事を許されるチームを作り上げてみせた功績はこの国にサッカーという概念がある限り消えることはない。その功績を讃え、ドーハの悲劇から20年を経た2013年には日本サッカー殿堂入りを果たしている。

日本代表監督退任後は最終予選でも戦ったサウジアラビア代表からのオファーもあったというが、1994年から古巣でもある磐田の監督に就任。Jリーグでは京都と浦和、そして2008年には再び磐田で監督を務めた。現在はサッカーの表舞台での活動からは退いているが、2023年3月に来日した際には清雲コーチ主催で食事会が開かれ、ドーハ組のうち勝矢,堀池,柱谷,井原,福田,ラモス,長谷川,吉田,三浦泰年が出席してプチ同窓会ともなり、特にラモスがInstagramに投稿したツーショットはちょっとした話題になった。

 

 

 

私が生まれたのは1997年。初めて見た日本代表戦はドイツW杯のアジア最終予選でしたが、あの時はサッカーをサッカーとしてあまり見れていなかったので、サッカーとして認識して試合を見る…という意味では予選をすっ飛ばしてドイツW杯を見ていました。今の時代の感覚で言えば、ドーハの悲劇の時のような時代感覚はどうしても持てない部分があったと思います。

個人的な考えではありますが、オフトが後に選手達に「1993年の君たちは疲れすぎていた」と語っていたように、1993年はそれまでの日本サッカーの全時間を上回るほどの濃い出来事を僅か半年ほどの短い期間で駆け抜けていました。それは世間のサッカーに対する熱を含めて。もちろん、このメンバーがアメリカW杯に出ていたらどうなっていたのかを見たかった気持ちはある一方で、あまりにも出来過ぎなストーリーの中に突如影を落としたあまりにも出来すぎた悲劇の物語は、結果としては今日の繁栄に重要なプロローグだったのではないか、もしあそこでW杯まで行ってしまえば日本は1993年のうちに行けるところまで行ってしまった事になり、そうなっていたらもしかしたら日本サッカーは一過性のものになっていたんじゃないか…そんな気もします。あの一瞬がもたらした教訓と物語…その全てが記憶の片隅と青いユニフォームの血肉となって溶けていったのでしょう。

2022年、それはオフトジャパンの発足と共に日本サッカーが国際舞台を目指すチームとして産声を上げた日から30年後の出来事。あの日ピッチで崩れ落ちた青年は、あの日の事を知らない選手達を率いてこの地の記憶を歓喜に塗り替えました。過去は常に偉大なる先人達の屍の上に積み上がって行くものです。ドーハで散った夢の屍はジョホールバルに繋がり、フランスの地で現実を突きつけられた屍を超えた先には日韓W杯があった。それを繰り返して今日の日本サッカーがあり、今後はまたしてもベスト8に手をかけられなかった屍を超える為の戦いが始まります。歴史という文脈はこの国のサッカーの血脈として受け継がれていく…それは全てのサッカー強国がそうであって、それを繰り返した者達だけがサラブレッドとして選ばれたピッチの上を走る事が出来るのでしょう。歴史とはただ愚直に、偉大なる屍を超えて行く事で積まれるものなど思っています。

 

 

ドーハ組大集結したオフトサンガとかいうチーム

ではでは(´∀`)