その日、日本列島は燃え上がるような歓喜を味わい、期待を胸に抱いて刻まれる時の針を数え、そしてそれが一瞬にして静寂に変わる瞬間を目の当たりにしました。
1993年10月28日、カタールのドーハ、アル・アリ競技場。華々しく開幕したJリーグの熱が後押しした激動の半年間はいつしか狂気の渦と化し、この国のサッカー人が誰も経験した事のない時流の中で躍動したオフトジャパンが迎えた最期はあまりにも悲劇的で、そして今振り返れば何よりもドラマティックだったのでしょう。
「あの時W杯出場を逃して良かった」と思う人は一人もいないはず。ですが一方で、あの悲劇がもたらした教訓は後の日本サッカーの成長に大きな意味をもたらし、空前のJリーグバブルという狂気を孕んだ1年を光速で駆け抜ける中で産み落とされた余りにも悲劇的なストーリーはこの国にサッカー日本代表というコンテンツが根付く上で必要なドラマだったのかもしれません。いずれにせよ、あの場所にいた22人の代表戦士達は彼らの掲げた壮大な夢が叶う事はなかったとしても、間違いなくこの国のサッカー史に於ける偉人だったのだと思います。
Jリーグ開幕30周年。
Jリーグが幕を開けたあの年に起こったあの出来事から30年。
ジャパンレジェンド選手名鑑シリーズという事で、今回からはドーハの悲劇を目の当たりにした1994年アメリカW杯アジア最終予選日本代表メンバーの選手名鑑を作成していきたいと思います。
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《スタッフ》
監督:ハンス・オフト
コーチ:清雲栄純
GKコーチ:ディド・ハーフナー
《登録メンバー》
《試合結果》
10月15日 第1節 vsサウジアラビア△0-0
10月18日 第2節 vsイラン●1-2
10月21日 第3節 vs北朝鮮○3-0
10月25日 第4節 vs韓国○1-0
10月28日 第5節 vsイラク△2-2
※当時のアジア最終予選は中立地でのセントラル開催となった為、全試合がカタールのドーハを舞台に行われている。
FW13 黒崎比差支
(鹿島アントラーズ)
生年月日:1968年5月7日
最終予選での成績:0試合
過去の所属チーム:宇都宮学園高校→本田技研工業(1987-1991)→鹿島アントラーズ(1992-1997)→京都パープルサンガ(1998-1999)→ヴィッセル神戸(2000)→アルビレックス新潟(2001)→大宮アルディージャ(2002-2003)
日本代表通算成績:24試合4得点(1989-1997)
1990年代の鹿島を象徴するストライカー。長谷川祥之とのツインタワー2トップで知られ、各クラブが外国籍枠を強力なFWに当てていた中で鹿島は比較的中盤より後ろに充てていたのはこの2人の存在が大きい。アマチュア時代は本田技研に所属しており、宮本征勝監督を含め、鹿島で同僚となる長谷川や本田泰人、ドーハ組の北澤は本田のチームメイトでもあった。
上位クラブのレギュラーFWともあって日本代表にもコンスタントに選ばれていたが、代表では高木や中山の存在もあって定位置を得るには至らず最終予選でも出場機会はなかった。しかしJリーグでのコンスタントな活躍もあって1997年まで代表招集は受けており、ドーハ組の中でも長く日本代表に携わっていた数少ない選手の一人。
引退後は古巣クラブのコーチ業を中心に指導者として活動しており、2021年には中国の山東泰山にヘッドコーチとして招聘されて優勝に貢献。現在は同じ中国の武漢三鎮でコーチを務めており、23-24シーズンのACLでは浦和と対戦している。監督経験は2010〜2012年途中までの新潟時代のみだが、この時に自身がヘッドコーチとして直々に招聘したのが同じドーハ組かつ、後に日本代表監督となる森保一だった。
MF14 北澤豪
(ヴェルディ川崎)
生年月日:1968年8月10日
出身地:東京都町田市
最終予選での成績:2試合出場(先発1)
過去の所属チーム:修徳高校→本田技研工業(1987-1991)→読売クラブ/ヴェルディ川崎(1991-2002)
日本代表通算成績:58試合3得点(1991-1999)
★アジアカップ出場(1992)
ヴェルディ黄金時代を代表する長髪のダイナモ。サッカー選手として初めてベストジーニスト賞を受賞している。Jリーグ入りを断念した本田の所属選手の多くは前述の黒崎のように元監督の宮本征勝に誘われる形で多くが鹿島に入団したがその中で北澤は読売への移籍を選び、海外移籍の可能性もあったが引退までをヴェルディで過ごした。見た目の印象とは裏腹に労を惜しまない中盤の潤滑油的なプレースタイルでも知られる。
アジアカップ1992ではレギュラーだったが、最終予選では怪我の影響もあってスタメンを森保と吉田に譲る形になった。それでもオフトからの評価が落ちた訳ではなく韓国戦で先発するなどしていたが、続くイラク戦では出場機会がなかった。ラモスや柱谷は疲労が蓄積した終盤に「中盤を活性化してほしい」という事でベンチに北澤投入を要求していた事を後に語っている。その後は代表から遠ざかった時期もあったが、岡田監督が就任した1997年には敗退危機に瀕していたフランスW杯予選に緊急招集。本大会初出場に貢献したが、本戦出場はまたしても直前で夢に終わった。
引退後は日本テレビ系列を中心に解説者として活動。ウイニングイレブンシリーズの解説も長年務めているので、そこまでサッカーをガッツリ観ていない層からの知名度も高い。日本障がい者サッカー連盟の会長であり、国際協力機構やFリーグの役職も持つなどサッカーの普及や社会貢献でも多岐に渡る活動を行っている。
MF15 吉田光範
(ジュビロ磐田)
生年月日:1962年3月8日
出身地:愛知県刈谷市
最終予選での成績:5試合出場(先発5)
過去の所属チーム:刈谷工業高校→ヤマハ発動機/ジュビロ磐田(1980-1995)
日本代表通算成績:35試合2得点(1988-1993)
★アジアカップ出場(1992)
中盤のバランサーとして活躍した職人肌のベテランMF。JSLのヤマハ時代から磐田一筋でプレーしており、元々はヤマハのコーチとして来日したオフトとはその頃から仕事を共にしている他、磐田は1993年のJリーグ入りを逃していた為、JFL組として最終予選に帯同していたのは吉田とチームメイトの中山の2人だった。
イタリアW杯予選まではFWとしてプレーしていたが、オフトジャパンではボランチが定位置となり森保とWボランチを組んでプレー。全試合に先発し、イラン戦以外は全試合フル出場を果たしている。一番となった韓国戦ではカズのゴールをアシストした。ドーハの悲劇については明らかに異様なプレッシャーの中で自分を含めた誰もが「コントロール出来なかった」「1歩、2歩遅れた」と語っており、あれが「本当のプレッシャー」だったと述懐している。
1995年に磐田一筋でキャリアを終えると、その後は磐田ユースや静岡産業大学など育成年代の指導に従事。近年はFC刈谷のテクニカルディレクターやヨシダサッカースクルールを運営など地元の刈谷市で活動しており、2023年に森保監督が刈谷市で講演を行なった際は吉田も登壇した。ちなみに森保は「ぽいち」という渾名が定着しているが、初招集時は全く無名だった「森保一」の読み方がわからず、柱谷と吉田でポイチと呼び始めるようになったとの事。
FW16 中山雅史
(ジュビロ磐田)
生年月日:1967年9月23日
最終予選での成績:4試合3得点(先発3)
過去の所属チーム:筑波大学→ヤマハ発動機/ジュビロ磐田(1990-2009)→コンサドーレ札幌(2010-2012)→アスルクラロ沼津(2015.9-2020)
日本代表通算成績:53試合21得点(1990-2003)
★FIFAワールドカップ出場(1998,2002)
☆アジアカップ出場(1992)
★JリーグMVP(1998)
☆Jリーグ得点王(1998,2000)
★Jリーグベストイレブン(1997,1998,2000,2002)
「ゴン中山」の通称でお馴染み、日本サッカー史の様々な歴史の場面に立ち続けてきた炎のストライカー。どんなに泥臭い形でもとにかくゴールにこだわる姿は岡崎慎司など後の代表選手にも多大な影響を与えている。2003年まで代表に入っていた為、ドーハ組で最後に日本代表戦に出場した選手でもある。
最終予選では当初は控えだったが第3戦からレギュラーに昇格。1分1敗スタートで危機的状況に陥ったチームの起爆剤となった。イラク戦でも1-1で迎えた69分にラモスのスルーパスに予選3点目となるゴールを決め、このまま終われば中山がW杯決定弾を決めたヒーローとなるはずだったが…。武田との交代でベンチで"その瞬間"を迎えた中山が崩れ落ちる姿は、ドーハの悲劇を象徴するワンシーンとして最終予選の度にその映像が用いられている。なおW杯出場を逃したの悲劇性ゆえにあまり語られる事はないが、試合自体は引き分けでだった事からイラク戦のマンオブザマッチには中山が選出されている。
その後は代表を離れる時期が続いたが、岡田監督が就任したフランスW杯予選では敗退危機に陥ったチームで救世主的な活躍を見せてW杯初出場に貢献。フランスW杯では日本のW杯初得点を叩き出した。2002年日韓W杯にも出場した事から、アジアカップ1992優勝・ドーハの悲劇・ジョホールバルの歓喜・初出場のフランスW杯・初勝利及び初のベスト16進出となった日韓W杯の5つ全てに立ち会った選手は中山が唯一であり、日本サッカーの歴史が動く場面にはいつも中山の姿があった。
現在は沼津で初の監督業に挑戦しており、今季はJ3で監督解任ラッシュが続く中でもアグレッシブなスタイルを貫きながら指揮を執り続けている。
MF17 森保一
生年月日:1968年8月23日
最終予選での成績:4試合出場(先発4)
過去の所属チーム:長崎日本大学高校→マツダSC/サンフレッチェ広島(1987-1997)→京都パープルサンガ(1998)→サンフレッチェ広島(1999-2001)→ベガルタ仙台(2002-2003)
日本代表通算成績:35試合1得点(1992-1996)
★アジアカップ出場(1992)
高木や風間八宏らと共にJリーグ初期に躍進した広島の中心的人物の一人。当時の森保は代表初招集時には全くの無名選手で、同郷出身選手以外は名前の呼びが誰もわからない有り様だったが、マツダ時代に森保を指導したオフトによって代表でポジションを与えられると無名選手ながらデビュー戦で対戦したアルゼンチンのバシーレ監督やカニーヒアから称賛された。「ボランチ」という言葉が日本に定着したのは森保の登場によるものだと言われている。
堅実なプレーぶりはオフトは勿論、チームメイトにも厚い信頼を得ておりアジアカップ1992や最終予選でもレギュラーとして活躍。最終予選では韓国戦を除く4試合に先発した。最後の失点の場面では最初にプレスにいったカズのフォローに入る形でプレスに行ったがクロスに間に合わず、サイドからその瞬間を見届ける事に。本人はドーハの悲劇を「悔しいというより悲しい」と振り返ると同時に「サッカーをしている限りこれ以上悲しいことはないと思えるようになった」との理由から「自分を強くしてくれた経験が出来た場所」とも語っている。余談だがドーハでは韓国代表と同じホテルに泊まっており、当時は先にプロ化して食を含めたサポート体制がより整っていた韓国代表の盧廷潤からキムチなどを差し入れてもらったというエピソードがよく語られるが、この時交渉役を務めたのが盧廷潤と広島で同僚だった森保である。
引退後は古巣・広島でリーグ優勝3回の結果を出し、2018年より日本代表監督に就任。迎えたW杯の舞台は因縁の地のカタールであり、そしてドーハだった。「ドーハの悲劇を歓喜に変えたい」と語った森保監督は初戦のドイツ戦で神がかり的な采配を見せて逆転勝利を収めると、続くスペイン戦でも逆転勝利。奇しくもこの2試合の会場はいずれもドーハであり、日本サッカーにとって暗い記憶が残る場所で、あの時は冗談でも勝てるなんて思わなかった相手を前に歓喜を掴んだ。2-1でリードして迎えたスペイン戦の終盤は逃げ切ればベスト16、追い付かれれば敗退…そんな29年前の悪夢を想起させるような展開となったが、試合後の会見で記者に「(追いつかれれば敗退という終盤の状況に)ドーハの悲劇はよぎりましたか?」と問われた時にはこう答えている。
最後の1分くらいの時に、私のドーハの記憶は出てきました。でもちょうどその時に選手が前向きにボールを奪いに行ってたところで、「あ、時代は変わったんだな」と「選手たちがもう新しい時代のプレーをしてくれてる」なということは、試合中にあと1分30秒くらいの時に思いました。
MF18 澤登正朗
(清水エスパルス)
生年月日:1970年1月12日
最終予選での成績:0試合
過去の所属チーム:東海大学→清水エスパルス(1992-2005)
日本代表通算成績:16試合3得点(1993-2000)
清水エスパルスの伝説的な選手。最終予選には最年少選手として参加しており、大学卒業後にJリーグ開幕に合わせて発足した清水に入団した事からドーハ組の中では唯一JSL出場経験を持たない若手選手の立場だった。当時は直近のバルセロナ五輪世代に該当する選手で、1993年の初代Jリーグ新人王も澤登が受賞している。
ラモスの存在ゆえに出場機会は少なかったが、同時にラモスに代わるチャンスメーカーとして1993年はコンスタントに招集されていた。最終予選では出番なく帰国の途についたが、ラモスは後にイラク戦の終盤は運動量のある北澤かボールキープを出来る澤登の投入を望んでいたと語っている。ちなみに最年少かつJSLでプレーしていないというとこほで当時のメンバーとの立場は大きく異なっていたが、ドーハ組は静岡出身者が大多数だった事もあって比較的すんなりと馴染めたとの事。
ドーハ後はファルカン時代にはラモスに代わる新司令塔として期待されて10番も託されたが、ファルカン解任以降は招集機会は激減した。一方、クラブではまさしく清水の王とでも言うべきプレーぶりを見せており、1999年の大活躍も後押ししてトルシエジャパンで代表に復帰している。引退後は静岡を中心に解説者として活動する一方で取材以外では清水との接点はないセカンドキャリアを送っていたが、2022年よりユース監督として清水に復帰している。
秋の日の1993
ではでは(´∀`)