第3回からまあまあ期間が空くという
どーもこんばんは
さてさて、8月23日、今日は何の日。北京五輪サッカー競技決勝、アルゼンチンvsナイジェリアの試合が行われた日でございます。
バルセロナとの交渉の末に出場が決まったメッシ擁するアルゼンチン。その決勝戦はディ・マリアのゴールにてアルゼンチンが五輪サッカーの連覇を果たしました。…まぁ、これまでのブログをお読みの方にはご存知の通り、取り上げるのはアルゼンチンではなく日本代表でございます。
あれから15年。
引退する者も多くなりました。一方で未だにプレーするものもあり、カタールW杯にも出場した者もあり。という訳で今回は数回前のブログの続編という事で、北京五輪15周年という事で、当時のメンバー18人の選手名鑑を作ってみたいと思います。
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《スタッフ》
監督:反町康治
コーチ:江尻篤彦
コーチ:井原正巳
GKコーチ:川俣則幸
フィジカルコーチ:矢部由治
《登録選手》
《バックアップメンバー》
《試合結果》
第2戦 vsナイジェリア●1-2(得点者:豊田)@天津
第3戦 vsオランダ●0-1@瀋陽
MF16 本田拓也
(清水エスパルス)
★北京五輪予選参加メンバー
生年月日:1985年4月17日
北京五輪での成績:2試合(先発2)
過去の所属チーム:法政大学→清水エスパルス(2008-2010)→鹿島アントラーズ(2011-2013.7)→清水エスパルス(2013.7-2016)→モンテディオ山形(2017-2020)→FC岐阜(2021-2022)
日本代表通算成績:2試合0得点(2011)
★アジアカップ出場(2011)
五輪メンバーの18人の中では唯一、五輪イヤーの2008年がルーキーイヤーとなった選手。ただし、法政大学時代からボランチのレギュラーとして五輪代表でプレーしていた事から、予選から五輪までの過程で継続して招集されていた選手の一人でもある。予選を含めてボランチは梶山を筆頭にゲームメーカーか攻撃的なタイプの選手が多かった中、貴重な守備で力を発揮するMFとして北京五輪でもレギュラー扱いとして最初の2試合で先発メンバーとしてプレーしていた。
大学時代から五輪代表に選ばれていた事もあってプロ入り時は注目度は高い中、若手の躍動が目立っていた清水に入団。ザックジャパン初期にはA代表にも招集されていた。なお、A代表で出場した2試合はいずれもアジアカップである。鹿島と山形でのプレーを経て岐阜で2022年に引退すると、そのまま翌シーズンからは岐阜のトップチームコーチに就任した。
ちなみに北京五輪メンバーで大卒選手だったのは本田拓也と長友の2人のみである。
FW17 李忠成
(柏レイソル)
★北京五輪予選参加メンバー
生年月日:1985年12月19日
北京五輪での成績:3試合(先発1)
現在の所属チーム:アルビレックス新潟シンガポール(2022〜)
過去の所属チーム:FC東京U-18→FC東京(2004)→柏レイソル(2005-2009.8)→サンフレッチェ広島(2009.8-2011)→サウサンプトン(2012.1-2013.2)→FC東京(2013.2-2013.6)→サウサンプトン(2013.7-2014.1)→浦和レッズ(2014-2018)→横浜F・マリノス(2019)→京都サンガFC(2020-2021)
日本代表通算成績:11試合2得点(2011-2012)
★アジアカップ出場(2011)
後に伝説になった男。ユース時代を過ごしたFC東京では出番を得られなかったが、出場機会を求めて移籍した柏で台頭。FC東京時代にはU-19韓国代表合宿にも参加したが、反町監督の勧誘や本人の五輪への意欲もあって日本代表に帰化すると即座に招集され、予選から本大会まで常時代表チームに帯同し続けた。しかし、本大会ではレギュラー格として期待されながら負傷の影響もあり、本領を発揮出来ないままチームと共に不完全燃焼で五輪を去った。
五輪後は柏でも出場機会を減らして若干伸び悩んだが、広島に移籍した2010年に再ブレイクを果たすとザッケローニ監督率いる2011年のアジアカップに出場。同大会初戦のヨルダン戦がA代表デビューとなったが、その決勝となるオーストラリア戦で決めた決勝点は伝説のボレーシュートとして今なお強く記憶に刻まれている。2017年以降は出場機会を減らしたが、浦和のACL制覇や横浜FMのリーグ優勝、京都のJ1昇格など、貴重なベテランとして多くの重要な場面に居合わせた。
京都退団後はシンガポールに移籍し、現在も現役続行。最近は更新が途絶えているが、YouTubeチャンネルでは多岐に渡る面子との対談企画をアップしている。
GK18 山本海人
(清水エスパルス)
☆北京五輪予選参加メンバー
生年月日:1985年7月10日
北京五輪での成績:0試合
現在の所属チーム:福島ユナイテッドFC(2021〜)
過去の所属チーム:清水エスパルスユース→清水エスパルス(2004-2012)→ヴィッセル神戸(2013-2016)→ジェフユナイテッド千葉(2017)→横浜FC(2018)→ロアッソ熊本(2019-2020)
日本代表通算成績:0試合0得点(2009-2011)
清水に生まれ、清水FC→清水ユース→エスパルスという文字通りの清水育ち。当時の清水は正GK候補が複数所属していた事もあってリーグ戦での出番はほとんど無かったが、北京五輪世代の活動には常に帯同しており、予選では先発出場する事もあるなど西川に次ぐ立ち位置を本大会までキープしていた。なお、清水はアテネ五輪の黒河貴矢に続き、2大会連続で第2GKを五輪に送り出している。
北京五輪ではGKというポジションもあって唯一出場機会を得られなかったが、五輪直前に出場したリーグ戦でのパフォーマンスが評価される形で帰国後は清水の正GKに定着。その後も西部洋平とポジション争いを繰り広げながら当時の清水の上位進出や優勝争いに貢献し、出場機会はなかったがA代表にも数回招集されている。今季も現役で、J3の福島で正GKとして活躍中。
監督 反町康治
生年月日:1964年3月8日
現職:日本サッカー協会技術委員長(2020.3〜)
過去の指導チーム:アルビレックス新潟(2001-2005),湘南ベルマーレ(2009-2011),松本山雅FC(2012-2019)
現役時代は全日空/横浜フリューゲルスやベルマーレ平塚でプレーし、引退後は解説業やFCバルセロナでのコーチング留学を経て2001年に当時J2の新潟の監督に就任。クラブを史上初のJ1昇格に導くと共に、驚異的な動員数で大いなるムーブメントを生み出したアルビの中心となった。その実績を評価され、ドイツW杯後にA代表コーチと兼任する形で北京五輪を目指す代表チームの監督に就任。ジーコを除けば、プロ選手が出場する各世代の日本代表監督で初めての選手としてJリーグでのプレー経験がある監督となった。なお、A代表コーチとの兼任は2007年の時点で解除されている。
北京五輪では新たに台頭した選手が出てきても予選は従来のメンバーを優先し、逆に予選が終わってからは一度メンバーをリセットして新たに作り直す方式を選択。その結果、予選ではレギュラー格だった選手も少なくない数が落選し、逆に本大会メンバーのうち森重や吉田、香川のように予選には一切帯同していない選手も多かった。しかひ本大会では当初、オーバーエイジとして遠藤保仁(ガンバ大阪)と大久保嘉人(ヴィッセル神戸)を招集するつもりだったが、大久保が所属クラブが拒否、遠藤は直前合宿のメンバーにも選ばれながらウィルス性感染症を患い急遽OA無しで戦わなければならなくなるなど不運も起こり、内容も必ずしもネガティヴなものばかりでは無かったが…突きつけられた結果は三戦全敗。男子サッカー日本代表のオリンピック史上、最悪の成績だった。
五輪のショックは大きく大会後はサッカーへのモチベーションが著しく低下したそうだが、再び熱意を取り戻すと2009年に湘南の監督に就任してJ1昇格に成功。2012年にはJFLから昇格したばかりの松本の監督に就任すると、8シーズンに及ぶ長期政権を築き上げ、その間にも2度のJ1昇格を達成した。また、時を経て北京五輪メンバーが多数ブレイクを果たした事で、吉田の招集に代表されるように五輪当時の実力より国際大会におけるポテンシャルも踏まえた選考は五輪代表のやり方の一つとして改めて評価される事となった。松本の監督を退任した後はJFAの技術委員長の座に就き、松本の監督を務めていた2016年時点でのインタビューでは「あの時の18人とはその後一度も仕事をしていない」とも語っていたが、技術委員長として参加した2022年カタールW杯では14年の時を経て吉田、長友と共に大舞台に挑んでいる。
現在もJFAで引き続き技術委員長を務めるが、カタールW杯後はA代表は再びナショナルダイレクター職を設けたので(山本昌邦氏が着任)、反町氏はこれまでのようにA代表に帯同するというよりは、育成年代も含めた全体的なオーガナイズを執るポジションへとマイナーチェンジを行った。
完。
当時小5。
ではでは(´∀`)