ナイジェリア戦は旅行先で見てた記憶。
どーもこんばんは
さてさて、8月10日、今日は何の日。北京五輪サッカー競技の日本vsナイジェリアの試合から15年が経ちました。北京五輪で唯一得点が生まれた試合ですね。
あれから15年。
引退する者も多くなりました。一方で未だにプレーするものもあり、カタールW杯にも出場した者もあり。という訳で今回は数回前のブログの続編という事で、北京五輪15周年という事で、当時のメンバー18人の選手名鑑を作ってみたいと思います。
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《スタッフ》
監督:反町康治
コーチ:江尻篤彦
コーチ:井原正巳
GKコーチ:川俣則幸
フィジカルコーチ:矢部由治
《登録選手》
《バックアップメンバー》
《試合結果》
第2戦 vsナイジェリア●1-2(得点者:豊田)@天津
第3戦 vsオランダ●0-1@瀋陽
DF6 森重真人
(大分トリニータ)
生年月日:1987年5月21日
北京五輪での成績:3試合(先発3)
現在の所属チーム:FC東京(2010〜)
過去の所属チーム:広島皆実高校→大分トリニータ(2006-2009)
日本代表通算成績:41試合2得点(2013-2017)
★2014年ブラジルW杯出場
☆アジアカップ出場(2015)
広島ジュニアユースからユースへの昇格を果たせず、高校卒業時もプロからのオファーが来なかった中、当時スカウトを務めていた片野坂知宏氏の目に留まり大分に入団。当時のシャムスカ監督にボランチからCBでコンバートされると、警告の多さこそ難点だったが恵まれたフィジカルの強さと足元の技術を兼ねたCBとして一気に台頭。予選には参加していないが、予選終了後に招集された際のアピールや所属する大分の躍進にも背中を押されて本大会ではレギュラーCBに。全3試合フル出場となったのは西川、水本、森重の3人だけだった。
惨敗となった日本ではあったが、森重のパフォーマンスは当時のA代表監督の岡田武史監督や前監督のイビチャ・オシム氏にも高く評価され、五輪の1ヶ月後にはA代表にも初招集されている。その後は他の北京五輪世代からはやや遅れる形でブラジルW杯を目指すチームに合流し、一時は代表レギュラーを掴んだ時期も訪れた。2010年に移籍したFC東京では今季で14年目。まだまだ主軸としての役割を担っている。
DF7 内田篤人
(鹿島アントラーズ)
☆北京五輪予選参加メンバー
生年月日:1988年3月27日
北京五輪での成績:2試合(先発2)
過去の所属チーム:清水東高校→鹿島アントラーズ(2006-2010.6)→シャルケ04(10/11-16-17)→ウニオン・ベルリン(2017.8-2018.1)→鹿島アントラーズ(2018-2020.7)
日本代表通算成績:74試合2得点(2008-2015)
★2010年南アフリカW杯,2014年ブラジルW杯出場
☆アジアカップ出場(2011)
高卒ルーキーとなった2006年にいきなり名良橋晃から右SBを奪うと、18〜19歳の時点で鹿島の絶対的存在に台頭。2007年にはJ1制覇も達成し、既にA代表でもレギュラー格としてプレーするようになるなど、この時点でのチーム内で屈指の実績を既に揃えていた。北京五輪でも消化試合となった第3戦を除く2試合にフル出場。コンディションを崩した選手や長友のように過緊張に至った選手が少なくなかった中、内田は右SBとして精力的なプレーを見せ、3連敗を喫した同大会の日本ではベストとも称されていた。
五輪後も鹿島とA代表で着実に存在感を強めた内田は南アフリカW杯後にドイツの名門・シャルケ04に移籍すると日本人として初めてCLベスト4進出を果たす。CLの日本人最高到達点は宇佐美貴史と南野拓実の準優勝になるが、内田の場合はレギュラーとしてそこに辿り着いたところが快挙だった。ザッケローニ体制のA代表でも絶対的な存在であり、今なお日本史上最高の右SBは内田か酒井宏樹と言われるところだが…ブラジルW杯前後からは度重なる怪我に苦しみ、2020年に32歳で引退。現在は端正なビジュアルとキャラクターを活かして多くの番組やCMに出演しながら、アンダー世代の指導者を務めている。
MF8 本田圭佑
(VVVフェンロ)
☆北京五輪予選参加メンバー
生年月日:1986年6月13日
北京五輪での成績:3試合(先発3)
現在の所属チーム:無所属
過去の所属チーム:星稜高校→名古屋グランパスエイト(2005-2007)→VVVフェンロ(2008.1-08/09)→CSKAモスクワ(2009.8-2013.12)→ACミラン(2014.1-16/17)→パチューカ(17/18)→メルボルン・ビクトリー(18/19)→フィテッセ(2019.11-2019.12)→ボタフォゴ(2020)→ネフチ・バクー(2021.3-2021.5)→スードゥヴァ・マリヤンポレ(2021.9-2021.12)
日本代表通算成績:98試合37得点(2008-2018)
★2010年南アフリカW杯出場,2014年ブラジルW杯出場,2018年ロシアW杯出場
☆アジアカップ出場(2011,2015)
言わずと知れた日本代表のカリスマ。今となると黒髪の本田に違和感しかない。
ガンバ大阪ユースに昇格できなかった挫折が多く語られるのでなんとなく遅咲き的なニュアンスで書かれる事も多いが、北京五輪を目指す代表チームには高校3年の時点では既に定着しており、予選後にメンバーが大きく入れ替わった同チームでは決して多くない大熊清監督体制から継続招集されていた一人だった。1年目から名古屋で大活躍し、3シーズン戦った後にオランダ移籍を果たす。当時はアンダー世代の選手の海外移籍は珍しく、五輪メンバー18人の中でも本田と森本の2人のみで、A代表デビューも果たしていた事から攻撃の中心人物としての期待が集まるのは自然だった。なお、五輪メンバーのうち安田はガンバジュニア時代の1学年後輩で、豊田は星稜高校時代の1学年先輩である。
本戦では攻撃陣では唯一の全試合先発となり、随所に存在感のあるプレーは見せたが、本田自身も不完全燃焼に終わったと共にオランダ戦後には取材への回答が独り歩きして批判に曝されもするなど、ガンバユース昇格見送りが一度目の挫折なら二度目の挫折のような形にもなった。失意の大会後は所属クラブがオランダ2部に降格していた事もあって浦和への移籍が選択肢として浮上したが、最終的に残留するとオランダ2部で伝説的な活躍を見せて欧州のマーケットでも台頭。それ以降は今更語るまでもない、新時代のカリスマとしてのキャリアが花開いていく事となる。
FW9 豊田陽平
(モンテディオ山形)
生年月日:1985年4月11日
出身地:石川県小松市
北京五輪での成績:3試合(先発1)
現在の所属チーム:ツエーゲン金沢(2022〜)
過去の所属チーム:星稜高校→名古屋グランパスエイト(2004-2006)→モンテディオ山形(2007-2008)→京都サンガFC(2009)→サガン鳥栖(2010-2017)→蔚山現代(2018.1-2018.6)→サガン鳥栖(2018.7-2021.7)→栃木SC(2021.7-2021.12)
日本代表通算成績:8試合1得点(2013-2015)
★アジアカップ出場(2015)
星稜高校時代は同校の英雄である松井秀喜が持つスポーツ測定記録をことごとく塗り替え、稀代のフィジカルの持ち主として有望株と目された。大隈監督体制時はコンスタントに招集されていたが、予選には平山相太やカレン・ロバート、李忠成らが先んじてブレイクしていた事もあって殆ど参加出来ず。しかし予選終了後から再び声がかかるようになると、4月の影響こそ心配されたが、じわじわと序列を上げた末に見事逆転でのメンバー入りを果たしている。
レギュラーではなかったがジョーカーの役割を与えられて全3試合に出場すると、ナイジェリア戦では2点を追う78分に谷口のパスを受けて倒れ込みながらも得点を挙げ、これが惨敗で幕を閉じた北京五輪での日本代表唯一のゴールとなった。大会後は山形のJ1昇格に貢献した後に京都に移籍。京都では出場機会に恵まれなかったが、2010年から加入した鳥栖ではまさに鳥栖の軌跡を描く上での最重要人物となり大ブレイク。他の五輪メンバーとは少し遅れる形となったが、自身もブラジルW杯メンバーを狙えるところまで辿り着いた。
MF10 梶山陽平
(FC東京)
☆北京五輪予選参加メンバー
生年月日:1985年9月24日
出身地:東京都江東区
北京五輪での成績:3試合(先発2)
過去の所属チーム:FC東京U-18→FC東京(2004-2012)→パナイシコスFC(2013.1-2013.6)→大分トリニータ(2013.8-2013.12)→FC東京(2014-2018.7)→アルビレックス新潟(2018.7-2018.12)
2005年のワールドユースを始めとしたあらゆる活動に参加し、北京五輪世代の日本代表に於ける心臓的存在。当時のチームの司令塔は本田でも香川でもなく明確にトップ下やボランチを務める梶山であり、そのキープ力とパスセンスから、文字通り攻撃の全権を託された存在と言えた。第2戦のナイジェリア戦こそ途中出場となったが、北京五輪に至る過程の殆どを絶対的なレギュラーとして過ごしており、背番号10も実にしっくりくるだけの存在感を誇っていた。
当時のチームメイトや「この世代でナンバーワン」と語った反町監督は勿論、後にFC東京を指揮するポポヴィッチやフィッカデンティといった(ちょっと気難しい)外国人監督からも全幅の信頼を集めるなど疑いようのない可能性とクオリティを有していたが、北京五輪後は慢性的な痛みや繰り返す負傷離脱に悩まされるようになり、結果的に18人の中で唯一A代表に選ばれずに終わってしまった事は本人にも関係者にもファンにも不本意だったはず。新潟でプレーした2018年を最後に現役を退き、現在はFC東京のアカデミーで指導者として活動している。
ではでは(´∀`)