ワイ、当時1歳。
どーもこんばんは
さてさて、6月10日、この日何の日。
1998 FIFAワールドカップフランス大会の開幕から25年です。
言うまでもなく、1998年フランスW杯といえば日本代表が初めて出場したW杯でした。
今では出場が当然、むしろ本戦でどこまで行けるかが問われ、なんなら決勝トーナメントも全体にベスト8に行けるかどうかが目標になっています。それは25年前と比較すると隔世の感みたいなもので、当時はその舞台に辿り着いたこと自体が快挙であり偉業。もちろんW杯への道を切り拓いたジョホールバルがあってこそですが、この時にフランスの舞台に立った22名はまさしく歴史の舞台の上に立っていた事になる訳です。
という訳で今回は全4回に分けて「1998 FIFAワールドカップフランス大会 日本代表選手名鑑」を作っていきたいと思います。
フランスW杯にあと一歩で選ばれなかった選手ベストイレブンはこちら
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GK1 小島伸幸
(ベルマーレ平塚)
生年月日:1966年1月17日
フランスW杯での成績:0試合
過去の所属チーム:同志社大学→ベルマーレ平塚(1988※-1998)→アビスパ福岡(1999-2001)→ザスパ草津(2002-2005)
日本代表通算成績:4試合(1995-1998)
※平塚前身のフジタ工業クラブサッカー部時代を含む
★アジアカップ1996出場
☆コンフェデ杯1995出場
口髭をトレードマークとした平塚時代のベルマーレに於ける中心的選手。「湘南の暴れん坊」とま称されたJリーグ初期を席巻した平塚を最後尾から支え、1994年にはJ昇格1年目にして達成した天皇杯制覇の立役者にもなった。平塚退団後は福岡を経て、当時群馬県社会人リーグに所属していた現在のザスパクサツ群馬に加入。文字通り、ほぼゼロに近いところからクラブがJリーグ入りを果たすまでの軌跡に大きく携わり、Jリーグでの1年目を終えた2005年を最後に現役を引退した。
出場試合数こそ多くないが1995年以降は日本代表にもコンスタントに招集され、特に代表デビュー戦となった1995年アンブロカップのブラジル戦では3失点で敗れこそしたが、好セーブを連発した小島の奮闘は語り草になっている。1997年以降はいわゆる川口・楢﨑時代が始まった事もあって出場機会は無かったが、最年長としてW杯メンバー入りを果たし、チームを盛り上げる役割を担った。
引退後は群馬や大学のコーチを務めた他、主にNHK系列の解説者として活躍。GK出身の解説者自体が希少である事から、他の解説者とは異なるキャラクター性を確立して好評を得ている。また、キリンチャレンジカップの際には場外イベントのPK対決に本並健治氏、岡中勇人氏らと共によくゲスト参加している。ちなみにエムボマ伝説のボレーを筆頭に現在でも度々映像が使われるスーパーゴールに決められたGKとして映っている事が妙に多く、本人もメディア等で持ちネタにしがち。
DF2 名良橋晃
(鹿島アントラーズ)
生年月日:1971年11月26日
出身地:千葉県千葉市
フランスW杯での成績:3試合(先発3)
過去の所属チーム:千葉英和高校→ベルマーレ平塚(1990※-1996)→鹿島アントラーズ(1997-2006)→湘南ベルマーレ(2017)
日本代表通算成績:38試合0得点(1994-2003)
※平塚前身のフジタ工業クラブサッカー部時代を含む
★コンフェデ杯2003出場
元々はFWだったがフジタ入団後に選ばれた世代別日本代表でSBにコンバート。当時コーチを務めていたデットマール・クラマーにSBのイロハを叩き込まれ、そこから攻撃的SBとして名を上げた。1993年のJFLではSBにも関わらずアシスト王に輝くと、1997年に移籍した鹿島はブラジル的なスタイルを持つだけにSBとしての攻撃力が更に活かされ、退団する2006年まで様々なタイトル獲得に貢献。ジョルジーニョから受け継いだ背番号2はポジションと共に内田篤人が受け継ぎ、現在は安西幸輝が背負うなど、彼が鹿島で背負った背番号2はクラブにとって伝統の背番号となっている。
鹿島への移籍の決め手が「代表復帰を目指す」というところにあったように加茂周監督体制では一時期代表から遠ざかったが、鹿島に移籍した1997年に目標通り代表復帰を果たすと、そこからは4バックなら右SB、3バックなら右WBとしてレギュラーに定着。欠かせない選手として活躍した。本人が「フランスの時より自信はあった」と語るトルシエジャパンでは一度も代表に呼ばれなかったが、監督がジーコに代わった2002年はジーコジャパン初期の常連として、2003年まで代表でプレーしている。
現役引退後は解説業の他、地上波バラエティ番組にも精力的に出演。2014年ブラジルW杯の際、NHKの現地中継で奇妙な帽子を被って登場した際には多くの視聴者に夜中の小笑いを与えた。サッカーダイジェストやサッカーキングのYouTubeチャンネルへの出演頻度も多い。
DF3 相馬直樹
(鹿島アントラーズ)
生年月日:1971年7月19日
フランスW杯での成績:3試合(先発3)
過去の所属チーム:早稲田大学→鹿島アントラーズ(1994-2001)→東京ヴェルディ1969(2002)→鹿島アントラーズ(2003)→川崎フロンターレ(2004-2005)
日本代表通算成績:58試合4得点(1995-1999)
★アジアカップ1996出場
☆コンフェデ杯1995出場
右利きながらルーキーイヤーから不動の左SBとして鹿島の数多くのタイトル獲得の中心人物として活躍。相馬個人としても4度のベストイレブンを受賞するなどまさしく1990年代のJリーグに於いて最高のSBの一人で、特に不動の右SBとなった名良橋との両翼は鹿島のサイド攻撃を牽引する生命線にもなっており、SBながら攻撃のキーマン的存在でもあった。ちなみにジーコの現役ラストゴールをアシストしたのは相馬である。
代表でも1995年の初招集から間も無く左SBのレギュラーを確保。代表でも不動の存在に至るまでに時間は要さず、フランスW杯予選が行われた1997年のAマッチ出場数は実に21試合にも上り、1998年のフランスW杯も3試合全てに先発。崖っぷちに追い込まれて挑んだ予選の韓国戦の名波のゴールと日本のW杯初ゴールとなった中山のゴールをアシストしたのはいずれも呂比須だったが、その呂比須にクロスを入れたのはどちらも相馬である。トルシエジャパン発足後も、1999年まではレギュラーとしてプレーしていた。
2005年に川崎で引退した後はフランスW杯メンバーの中では最も早く監督業を始めており、2010年に当時JFLの町田の監督に就任すると、そこから川崎、町田(第2次)、鹿島、大宮の監督を歴任。川崎と大宮では上手く行かずに途中解任の憂き目を見たが、町田では低予算のクラブをJ2優勝争いに加わらせるなど大きく貢献し、鹿島では1年未満の在任にはなったが月間最優秀監督賞を2度受賞している。
DF4 井原正巳 ★キャプテン
(横浜マリノス)
生年月日:1967年9月18日
フランスW杯での成績:3試合(先発3)
過去の所属チーム:筑波大学→横浜F・マリノス(1990※-1999)→ジュビロ磐田(2000)→浦和レッズ(2001-2002)
日本代表通算成績:122試合5得点(1988-1999)
※横浜FM前身の日産自動車サッカー部時代を含む
★アジアカップ1992,1996出場
☆コンフェデ杯1995出場
言わずと知れた「アジアの壁」。井原を「1990年代日本最高のDF」と称しても異を唱える人は少ないだろう。基本的にスーパースターといえば前線の選手に集中する中で、間違いなく井原はJリーグ初期を支えた守備のスーパースターであったと言える。Jリーグ30周年を記念したバストイレブン投票では2000年代後半に活躍した選手が中心に選ばれたが、その中でも三浦知良と共に名を連ねた。なお、Jリーグの第1号オウンゴールの記録を持っている。
ドーハの悲劇をピッチで体験した一人であり、ドーハ組の多くが代表を去っていく中で井原は1995年の時点で柱谷哲二から主将の座を引き継ぎ3バックの一角として予選から本戦までを戦い抜いた。本大会ではカズ落選という衝撃が走り、自身も膝に負傷を抱えていた中で3バックの中央でDFラインを統率。3戦全敗に終わった日本だが、強力な攻撃陣を有するアルゼンチンとクロアチア相手に破綻せずに最小失点で抑えた守備は一定の評価を得た。トルシエ体制発足後も、背番号・主将・ポジションをそのまま引き継ぐ事となった森岡隆三の台頭まではレギュラーを勤めている。
浦和に所属していた2002年に古巣のマリノス戦を最後に現役引退。2009年に柏レイソルのコーチに就任してからは現在まで指導者として現場で活動している。柏ではネルシーニョ監督の下で長らくヘッドコーチを務め、2015〜2018年はアビスパ福岡の監督に就任。2015年のJ1昇格を筆頭に好成績を残した他、福岡ユースから昇格してきた冨安健洋の育成に尽力した。2019年からはネルシーニョ監督が再任した柏に復帰し、ネルシーニョ監督が解任となった2023年5月からは柏の監督に就任している。チームで2人となったドーハ組のもう一人である中山雅史とは大学の同期で当時から仲が良く、アルバイトも寮の近くのコンビニで一緒にやっていた。
DF5 小村徳男
(横浜マリノス)
生年月日:1969年9月6日
フランスW杯での成績:1試合(先発1)
過去の所属チーム:順天堂大学→横浜F・マリノス(1992-2001)→ベガルタ仙台(2002-2003)→サンフレッチェ広島(2004-2006.8)→横浜FC(2006.8→2007)→ガイナーレ鳥取(2008)
日本代表通算成績:30試合4得点(1995-2002)
★アジアカップ1996出場
Jリーグ開幕の前哨戦として行われたナビスコ杯が開催される1992年にプロ入りするにあたって、大学時代の活躍からオリジナル10の半分に当たる5チームからオファーを受けた末に井原を追う形でマリノス入団を選択。1年目から出場機会を得ると、前述の井原や若手の松田直樹らと共にマリノスのCBが伝統のポジションと呼ばれる礎を築いた。CBながら得点力も高く、自身のオウンゴールで先制を許してからDFとして初のハットトリックを決めて3-1の逆転勝利を収めた1996年の広島戦は語り草となっている。後に移籍する仙台でも得点力は健在でハンマーヘッドとも称された。
最終予選ではUAE戦で井原の決勝点になりかけたシュートを潰した事であわや戦犯にもなりかけたが、全体的には秋田豊とポジションを争いながら井原とのCBコンビ、或いは3バックのレギュラーを務める機会も多く貴重な人材として貢献。本大会では中西永輔が台頭した事で控えメンバーの立場となったが、中西が出場停止となった第3戦のジャマイカ戦では先発出場を果たしている。W杯後のトルシエ体制ではほぼ代表招集の機会は無かったが、監督がジーコに代わった2002年には移籍した仙台での活躍が評価されて一度代表復帰を果たした。
2008年を最後に当時JFLの鳥取で現役を引退し、2013年には一時期鳥取の監督も務めた。現在は主にDAZNでJ2や海外リーグの解説を担う他、サッカー界でも屈指の将棋好きとして知られている事から将棋界のサッカー好きとのコラボイベントにも積極的。2015年にはイベントでサッカー好きとして知られる渡辺明棋王(当時)との対局も実現した。
MF6 山口素弘
生年月日:1969年1月29日
フランスW杯での成績:3試合(先発3)
過去の所属チーム:東海大学→横浜フリューゲルス(1991※-1998)→名古屋グランパスエイト(1999-2002)→アルビレックス新潟(2003-2005.8)→横浜FC(2005.8-2007)
日本代表通算成績:58試合4得点(1995-1998)
※横浜F前身の全日空サッカークラブ時代を含む
★アジアカップ1996出場
☆コンフェデ杯1995出場
様々な局面に対応できる守備力にゲームメイク力やパスセンスといったボランチに求められる要素を全て兼ね備え、その上に得点能力も併せ持つなど日本屈指のボランチかつフリューゲルスを象徴する選手として知られていた。フリューゲルスでプロデビューとなった遠藤保仁はプロ1年目で出会った同じポジションの山口のプレーに衝撃と影響を受けたと今も語る。フリューゲルスの躍進を牽引すると共に、1998年のチーム消滅と天皇杯優勝に至る軌跡に於ける中心人物として放った存在感は今でも語り草となっている。フリューゲルス消滅後は名古屋に入団し、その後に移籍した新潟と横浜FCではベテランの妙味を発揮してJ1昇格の立役者となった。代表では井原が主将だったが、クラブキャリアではその殆どで主将を担っていた事でも知られる。引退した2007年を含めて、代表活動による欠場が多かった1997年以外の全シーズンで20試合以上に出場している。
この時期の代表は監督交代もあってレギュラーの入れ替わりが少なからずあった時期だったが、名波浩や本田泰人とのWボランチ、或いはアンカーとしてチームの心臓としての役割を担う。特に予選の韓国戦で決めたループシュートは、試合こそ最終的に敗れたものの今なお伝説的なゴールとして記憶され、日本代表史上最高のゴールの一つにも数えられる。W杯本戦ではゲームメイクに長けた名波とWボランチを組み、山口は主にバランサーとしての役割を担っていた。本大会の全3試合でフル出場となった5選手のうちの一人でもある。端正な顔立ちゆえに女性ファンも多かった。
引退後は2012年に古巣の横浜FCの監督に就任し、開幕ダッシュに失敗したチームの立て直しに成功。就任時は最下位だったチームを4位まで引っ張り上げて、最終的にはプレーオフ進出にまで漕ぎ着けた。その後はJFA関連の仕事が多かったが、2018年からは育成部門のトップとして名古屋に復帰。2021年からはGMに就任し、名古屋ではこれまで少なかったアカデミー出身選手がトップで活躍する流れを構築すべく奮闘している。
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アイアム東京五輪世代
ではでは(´∀`)