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【W杯初勝利から20年】2002日韓W杯日本代表メンバー23名のW杯での軌跡と現在を選手名鑑的に作ってみた【Vol.1】

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6月9日

 

俗に言う「#OnThisDay」的なやつですわ。

 

 

 

日本代表のW杯初勝利から今日で20年です。

 

 

 

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当の私は当時…なんと5歳。野原しんのすけですよ。

当時の私は機関車トーマスばっかり見ていたので、当時の盛り上がりなど知る由もなく。今になって、あの時の盛り上がりをリアルタイムで体感したかったと悔やむばかりです。

 

 

 

…で、今回はその歴史的な日本代表vsロシア代表の試合から20周年を記念致しまして、日韓ワールドカップを戦ったメンバーの紹介というか、日韓W杯を中心としたその選手のキャリア、そして現在何をしてらっしゃるか的な事を名鑑みたいな感じでまとめていきたいな…と思います。

 

 

全4回更新!是非ブックマークなりなんなりして頂けると幸いです。

 

 

 

vol.1

vol.2

vol.3

vol.4

 

 

オリジナルアルバム出してみました!聴いてみてくださいませ。

 

 

 

GK1 川口能活

 

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生年月日:1975年8月15日

日韓W杯での成績:0試合0失点

日韓W杯時の所属チーム:ポーツマスFC

過去の所属チーム:清水市立商業高等学校横浜マリノス(1994〜2001.10)→ポーツマスFC(2001.10〜2003.9)→FCノアシェラン(2003.9〜2004.12)→ジュビロ磐田(2005〜2013)→FC岐阜(2014〜2015)→SC相模原(2016〜2018)

日本代表通算成績:116試合(1997〜2010)

★1998年フランスW杯、2006年ドイツW杯、2010年南アフリカW杯出場

アジアカップ2000、2004、2007出場

★コンフェデ杯2001、2003、2005出場

☆1996年アトランタ五輪出場

コパ・アメリカ1999出場

 

日本サッカーの歴史上、最もスター性があるとも評されたGK。特にマイアミの奇跡アジアカップ2004のヨルダン戦のように大舞台での圧倒的な"ゾーン状態"が有名で、トルシエジャパンでもアジアカップ優勝やコンフェデ杯の決勝進出に大きく貢献した。しかし、日韓W杯では1997年から2010年まで守護神の座を争い続けた楢﨑正剛が正GKの座に入った事で第2GKという立ち位置に。日韓W杯のドキュメンタリー「六月の勝利の歌を忘れない」ではベンチの立場でチームを支えながらも、GK練習ではバチバチしたライバル関係も垣間見る事が出来る。

クラブではマリノスで大活躍をした後にイングランドへ。日韓W杯メンバーでは4人しかいない海外組だったのと同時に、日本人GKとしては初の海外挑戦となった。Jリーグ復帰の際には古巣のマリノスではなく磐田を選び、磐田で8シーズンプレーした後に岐阜、相模原を経て2018年に引退。同じシーズンに引退する形となった楢﨑とは、お互いの引退セレモニーで花束贈呈の大役を担い合った。

引退後はJFA所属という形で世代別代表のGKコーチを務めている。現在はU-19を担当しているが、2021年東京五輪ではGKコーチとして帯同し、かつて自身も大活躍した五輪の舞台で谷晃生の大ブレイクをアシストした。ニュージーランド戦で谷がPK戦で無双するところをコーチとして見守る川口を見て感動を覚えたファンは多いはず。

 

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DF2 秋田豊

 

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生年月日:1970年8月6日

日韓W杯での成績:0試合0得点

日韓W杯時の所属チーム:鹿島アントラーズ

過去の所属チーム:愛知学院大学鹿島アントラーズ(1993〜2003)→名古屋グランパスエイト(2004〜2006)→京都サンガFC(2007)

日本代表通算成績:44試合4得点(1995〜2003)

★1998年フランスW杯出場

アジアカップ1996出場

コンフェデ杯2003出場

コパ・アメリカ1999出場

 

日韓W杯でのサプライズとして中山雅史秋田豊の招集が度々取り上げられるが、2002年に入ってから招集が無かっただけでトルシエジャパンの常連メンバーだった中山に対し、秋田に関してはそれも無かったので衝撃度合いは中山以上に大きかったと言える。ムードメーカーという立場での招集は、秋田自身がフランスW杯でレギュラーCBだった事や鹿島では絶対的なCBだった事から葛藤も少なからずあったと言うが、それでも中山と共に控え組の練習試合を「プレ・ワールドカップ」と称して盛り上げ、シャクレの選手4人(森岡楢﨑曽ヶ端)と共にアゴカルテットなるグループでイジられ役も担う様子がドキュメンタリーでも度々映し出されている。

クラブでは鹿島史上最高のCBとして、Jリーグ開幕元年から数多くのタイトル獲得に貢献。秋田が鹿島で背負った背番号3は鹿島のCBを象徴する伝統の番号として岩政大樹昌子源が後に背負った。2004年からは自身の出身地である名古屋でプレーし、2007年に移籍した京都で引退。秋田の現役ラストゲームは京都がJ1復帰を決める試合ともなった。

引退後はそのまま京都のコーチに就任し、2010年途中から監督に就任。京都と町田では監督として結果は残せなかったが、2020年から就任した岩手では京都時代の教え子も積極的に補強しながら悲願のJ2昇格を達成。J3優秀監督賞も受賞した。監督業の傍ら、トレーニング機器の販売を手掛けるサンクト・ジャパンの代表取締役社長やeSports関連の活動も行っている。

 

 

 

DF3 松田直樹

 

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生年月日:1977年3月14日

日韓W杯での成績:4試合0得点(先発4)

日韓W杯時の所属チーム:横浜F・マリノス

過去の所属チーム:前橋育英高校→横浜F・マリノス(1995〜2010)→松本山雅FC(2011)

日本代表通算成績:40試合1得点(2000〜2005)

アジアカップ2000、2004出場

☆コンフェデ杯2001出場

★1996年アトランタ五輪、2000年シドニー五輪出場

 

中田英寿と共に、いわゆるシドニー世代の先頭を走り続けてきた名物DF。五輪サッカーに最も出場したのは3回出場の吉田麻也だが、オーバーエイジではなく23歳以下の選手として複数回五輪に出場したのは中田と松田の2人のみである。トルシエジャパンでは中心的というよりも、ある種トルシエジャパンの中でも象徴的な選手で、トルシエと衝突して代表を辞退した時期もあったが、トルシエの期待や川口能活の説得もあって代表に復帰すると、そこからは代表の絶対的なレギュラーとしてフラットスリーの右CBの座に君臨した。W杯本戦でも全試合にフル出場し、プールサイドでの宴会での中田英寿とのやり取りはしばしばトルシエジャパン及び日韓W杯日本代表の象徴的な場面の一つとして語られており、ドキュメンタリーの中でも最も印象的なシーンであった。

マリノスではルーキーイヤーから優勝に貢献し、川口能活中村俊輔など同世代のタレントらと共に絶大な人気を誇った。その中でも特に強いパーソナリティとカリスマ性を持ち合わせていた松田の存在の大きさは、チームメイトのみならずマリノスのサポーターにとっても一選手以上のものがあり、今もなおかつてのチームメイトから松田に関する数々のエピソードは伝説のようにも語られている。マリノスから戦力外通告を受けた後、サポーターの前で現役続行を宣言したエピソードはあまりにも有名。

松本山雅に移籍した2011年8月4日、34歳という若さにして急逝。彼は現役サッカー選手のまま、短くも濃い人生を閃光のように駆け抜けた。

 

 

 

DF4 森岡隆三

 

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生年月日:1975年10月7日

日韓W杯での成績:1試合0得点(先発1)

日韓W杯時の所属チーム:清水エスパルス

過去の所属チーム:桐蔭学園高校鹿島アントラーズ(1994〜1995.7)→清水エスパルス(1995.7〜2006)→京都サンガFC(2007〜2008)

日本代表通算成績:38試合0得点(1999〜2003)

アジアカップ2000出場

☆コンフェデ杯2001、2003出場

★2000年シドニー五輪出場

コパ・アメリカ1999出場

 

トルシエジャパンの軌跡に於ける最重要人物の一人と言っても過言ではない存在で、フランスW杯のメンバー中心の構成から新世代に入れ替えたタイミングで絶対的な存在に。歴代日本代表監督の中でも屈指のクセの強さを誇るトルシエと主将という立場で接し、戦術面でもフラットスリーの中央を常に任されており、日韓W杯にもキャプテンとして選ばれていた。しかし怪我をなんとか間に合わせて迎えたW杯ではベルギー戦に出場したがその試合で負傷退場。症状が外部から認識されにくい怪我だった事もあって様々な葛藤を抱えながらも、秋田豊中山雅史といったベテラン勢と共にベンチからのサポートに徹した。

"清水のレジェンド"という印象が強いが、プロデビューは鹿島。出場機会を求めて1995年夏に移籍した清水で絶対的な存在として活躍。清水時代はDFながら背番号11番を長らく背負っていた事でも知られている。2007年から京都に移籍し、2008年に引退。出場こそなかったが現役最後の試合の相手は奇遇にも清水で、京都側のみならず清水側からも記念品が贈呈された。

引退後はそのまま京都のトップチームコーチに入り、2015年から務めた京都U-18の監督では麻田将吾や福岡慎平など京都のJ1復帰の原動力になった選手を育成。鳥取の監督を経て、現在はNHKを中心とした解説業や清水のアカデミーヘッドオブコーチングを務める。ちなみに、Jリーグで初めて指揮を録った試合の対戦相手は同じく監督デビューとなる宮本恒靖率いるG大阪U-23だった事が話題になった。

 

 

 

MF5 稲本潤一

 

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生年月日:1979年9月18日

日韓W杯での成績:4試合2得点(先発4)

日韓W杯時の所属チーム:アーセナル

現在の所属チーム:南葛SC(2022〜)

過去の所属チーム:ガンバ大阪ユースガンバ大阪(1997〜2001.7)→アーセナル(01-02)→フラムFC(02-03〜03-04)→ウェストブロムウィッチ(2004.8〜2004.12)→カーディフ(2005.1〜2005.6)→ウェストブロムウィッチ(05-06)→ガラタサライ(06-07〜07-08)→アイントラハト・フランクフルト(08-09)→スタッド・レンヌ(2009.7〜2009.12)→川崎フロンターレ(2010〜2014)→北海道コンサドーレ札幌(2015〜2018)→SC相模原(2019〜2021)

日本代表通算成績:82試合5得点(2000〜2010)

★2006年ドイツW杯、2010年南アフリカW杯出場

アジアカップ2000出場

★コンフェデ杯2001、2003、2005出場

☆2000年シドニー五輪出場

 

日韓W杯の日本代表に於ける最大のスター。ベルギー戦で決めた逆転ゴールは日本が初めてW杯でリードを奪った瞬間であり、ロシア戦では稲本のゴールによる1-0のスコアがそのまま日本のW杯初勝利となった。ロシア戦後、狂喜乱舞と化したロッカールームに訪れた小泉純一郎首相(当時)に上半身裸の姿で抱きつきに行ったシーンを強く記憶しているファンも多いはず。その後の2試合ではハーフタイムに交代するなど悔しい思いもあったが、あの六月の主役は確かに稲本だったし、2000年以降にトルシエのチームが出場した全ての公式大会でレギュラーを張っている。なお、日韓W杯のメンバーで2010年南アフリカW杯に参加したのはフィールドプレーヤーでは稲本のみであり、日韓W杯メンバーの中では長く代表に生き残っていた。

クラブではガンバのユースで育ち、当時のありとあらゆる記録を塗り替えるなど大きな話題となり、浦和の小野と共にいわゆる"黄金世代"の旗頭的な存在だった。当時のガンバは成績面はてんでさっぱりだったが稲本や宮本恒靖が活躍した事で育成面では高い評価を確立するようになっていた。2001年に夏には当時黄金期を迎えていたアーセナルに移籍。同じシドニー世代の中田英寿小野伸二を含めて、当時はまだまだ高校サッカー出身選手の割合が大半だった中で、アカデミー出身選手の海外移籍は例のない事で、そういう意味でも革命的な選手だったと言える。

アーセナルでは出番を得られながったが、ガラタサライ時代にはUEFAチャンピオンズリーグでも得点するなど欧州で長らくプレー。2010年に川崎でJリーグに復帰すると、川崎退団後は札幌と相模原でのプレーを経た後、今年から南葛SCに入団した。オフシーズンや日本代表戦の際には解説を務める事もある。

 

 

MF6 服部年宏

 

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生年月日:1973年9月23日

日韓W杯での成績:1試合0得点

日韓W杯時の所属チーム:ジュビロ磐田

過去の所属チーム:東海大学ジュビロ磐田(1994〜2006)→東京ヴェルディ(2007〜2009)→ガイナーレ鳥取(2010〜2011)→FC岐阜(2012〜2013)

日本代表通算成績:44試合2得点

★1998年フランスW杯出場

アジアカップ1996、2000出場

★コンフェデ杯2001、2003出場

☆1996年アトランタ五輪出場

コパ・アメリカ1999出場

 

トルシエジャパンは2000年のタイミングでシドニー五輪世代を組み込んで大幅な世代交代を行い、フランスW杯のメンバーの多くはこの時点で多くが代表から遠ざかる事になったが、その中でも最後の日韓W杯まで招集され続けた数少ない選手でトルシエジャパンの初戦(エジプト戦)からW杯までの全期間に於いてほぼ皆勤賞で代表に参加していた中田英寿が五輪代表の活動を優先させた時期があった事を思うと、フィールドプレーヤーで最初から最後まで招集され続けていたのは服部が唯一に近いも言える。当初は左CBを主に務めていたが後半からは左WBを担当する事が増え、初勝利を挙げたロシア戦でも左WBで出場している。

Jリーグ史上最強との呼び声も高い黄金期の磐田では主将も務めており、Jリーグに燦々と輝く「N-BOX」システムでは福西崇史と共にボランチの一角を担ってキープレーヤーの1人として活躍。磐田退団後は2007年に東京VのJ1復帰、2010年に鳥取Jリーグ昇格に貢献し、2013年に岐阜で引退。20シーズンのプロキャリアで常時レギュラー出場していた。

引退してすぐに磐田の強化部長に就任。磐田時代の恩師である鈴木政一が監督に就任するとコーチとして入閣し、2021年は鈴木監督が体調不良で入院した際は代行監督として磐田をJ2優勝に導いた。2022年からはJ3福島の監督に就任している。

 

 

 

次回

 

機関車トーマスではゴードンが好きでした。

ではでは(´∀`)