タカハーラ
ウォグロ
ヤナギサァワ
タムァダ
どーもこんばんは
さてさて、カタールW杯までいよいよ残り2ヶ月です。
森保一監督率いる日本代表はW杯メンバー発表前最後の親善試合として9月23日にアメリカ代表、9月27日にエクアドル代表と対戦。W杯にも出場する2ヶ国を相手に大会に向けた最終調整と同時に、W杯メンバーの最後の絞り込み作業を行う事になります。
という訳で、今回からはW杯の日本代表にちなんだ連載企画をば。
「サプライズ選出」───W杯メンバーの発表が近付く度に、様々なメディアで度々耳にするフレーズです。印象的なところで言えば2002年の中山雅史と秋田豊、2006年の巻誠一郎、2010年の川口能活、2014年の大久保嘉人辺りでしょうか。彼らは次の日のスポーツ新聞を賑わせ、次のトピックが来るまでは、選考の話題を独り占めする事になります。
一方、一人滑り込んだ人間がいるという事は、同時に一人滑り落ちてしまった当落線上の人間がいる…という訳で。しかし、W杯メンバーまであと一歩のところまで迫った時点でその選手は言うまでもなく時代を代表する名選手です。という訳で今回からは、過去の日本代表のW杯メンバーに於いて、当落線上にいながら落選してしまった、或いは出場確実とされながら怪我等で大会参加が叶わなかった選手で11人を組み、各大会の裏ジャパンを作ってみたいと思います。
第3回はドイツW杯編です。
規律性を徹底したトルシエ体制から自主性を重んじるジーコ体制へと変わり、それに伴う様々なロマンや夢も昂ぶれば、一方で溝や軋轢も生み出してしまった、終わってみれば未完の夢のようになってしまった4年間でした。このジーコ体制の頃から「国内組」「海外組」という言葉が盛んに使われるようになり、選手もサポーターも、ある種のジレンマなるものに苛まれ始めていた、日本が新た悩みに直面したフェーズとも言えるでしょう。
それでも「日本代表史上最強」とも謳われた豪華なメンツが揃ったドイツW杯メンバー発表ですが、比較的順当に読み上げられていくメンバーリストの中、サプライズが待ち構えていたのは一番最後でした。当時私小3。「タカハーラ…」の段階から学校では流行語大賞でしたね。
2006年ドイツW杯編
オリジナルアルバム出してみました!聴いてみてくださいませ。
↓
【2006年ドイツW杯日本代表メンバー】
監督:ジーコ
テクニカルアドバイザー:エドゥー
GKコーチ:カンタレリ
フィジカルコーチ:里内猛
第1戦 vsオーストラリア●1-3(得点者:中村俊輔)
第2戦 vsクロアチア△0-0
第3戦 vsブラジル●1-4(得点者:玉田圭司)
GK1 楢﨑正剛(名古屋グランパスエイト)
MF7 中田英寿(ボルトン・ワンダラーズ)
FW11 巻誠一郎(ジェフユナイテッド千葉)
DF14 三都主アレサンドロ(浦和レッドダイヤモンズ)
FW16 大黒将志(グルノーブル・フット38)
MF17 稲本潤一(ウェスト・ブロムウィッチ)
MF18 小野伸二(浦和レッドダイヤモンズ)
DF19 坪井慶介(浦和レッドダイヤモンズ)
FW20 玉田圭司(名古屋グランパスエイト)
ドイツW杯の当落線上で落選してしまったメンバーベストイレブン
※システムやフォーメーションは当時の代表と異なる場合があります。
※最終候補メンバーは、W杯メンバー発表1週間前に行われたキリンカップサッカー2006のメンバー23名としています(ただし、この23名に海外組は含まれていません)
GK 都築龍太
生年月日:1978年4月11日
当時の所属チーム:浦和レッドダイヤモンズ
それ以前のW杯出場:なし
その後のW杯出場:なし
日本代表通算成績:6試合0得点(2001〜2009)
ジーコ体制の前半となる2003年までは土肥や曽ヶ端準、下田崇と共に楢﨑・川口を追う立場としてコンスタントに招集されていた。
しかし、俗にいう「キャバクラ事件」の影響もあって代表から遠ざかっている間に、川口と楢﨑は勿論、第3GKの土肥も定着して早い段階で3枠が固まってしまった。2006年の代表活動は楢﨑と土肥が揃って負傷した事で下田と共に代表に復帰したが、楢﨑と土肥の離脱が長期化しなかった事で自然と候補から外れてしまった。
DF 三浦淳宏
生年月日:1974年7月24日
当時の所属チーム:ヴィッセル神戸
それ以前のW杯出場:なし
その後のW杯出場:なし
日本代表通算成績:25試合1得点(1999〜2005)
☆2005年コンフェデ杯出場
★アジア最終予選参加
明神智和や戸田和幸といったトルシエ時代の主力がジーコ体制では構想外となる中で2003年に代表復帰を果たすと、その後は常連組として継続的に招集され、アジアカップやコンフェデにも参加していた。
ベンチが定位置ではあったが、ドイツW杯予選を振り返る時に欠かさず語られる「アブダビの夜」というエピソードの主役的存在であり、予選突破の影の立役者でもあったが、所属する神戸のJ2降格や駒野・村井の台頭もあり、2006年には招集機会も無いまま終わってしまった。ただ、肝心のW杯では最終的にチームが瓦解して終わってしまい、前回大会とアジアカップ2004での成功から三浦を始め、藤田俊哉や松田直樹のようなサブでもチームを盛り立てられるベテランを招集しておくべきだったのでは、という声も上がった。
DF 田中誠
生年月日:1975年8月8日
当時の所属チーム:ジュビロ磐田
それ以前のW杯出場:なし
その後のW杯出場:なし
日本代表通算成績:32試合0得点(2002〜2006)
☆2005年コンフェデ杯出場
★アジア最終予選参加
☆最終候補メンバー選出
以前から代表活動には数回参加していたが、代表デビューはジーコ体制での2004年。それ以降はジーコの信頼を勝ち取ると、アジアカップ2004など3バック採用時は中澤-宮本-田中がレギュラーとして固定されるようになり、最終予選は出場停止の1試合を除く全試合で先発。その後は怪我から復帰した坪井と右CBのポジションを争ったが、ジーコは最終的に田中をW杯でのファーストチョイスとして起用する方針を固め、5月15日に発表された最後の23人にも当然のようにジーコの口から名前を告げられた。
そういう意味では今回の企画で田中の名前を挙げるのは適切ではない。だが、田中がW杯の舞台に立つ事は叶わなかった。福島での合宿を経てドイツに入って開幕を直前に控えた練習で負傷。ジーコからは「残るか、帰るか」の選択を求められたが、自身の状態が間に合うかどうかの確証が無かった事、チームに残って間に合わなかった場合の事を踏まえて帰国を決意し、権利を手にしていたW杯への挑戦が絶たれる形になってしまった。選手の入れ替え期間にはまだ時間があった為、代役としてハワイ旅行中の茂庭が緊急招集。初戦の10日前の事だった。ロシアW杯までの6大会で、23名の最終リストに入りながら途中離脱となったのは田中のみである。
田中はキャラクター的な人間性も周囲から評価されており、後に主将の宮本は戦力のみならず人間性の面でも田中の離脱が痛かったと語ってもいた。
DF 村井慎二
生年月日:1979年12月1日
当時の所属チーム:ジュビロ磐田
それ以前のW杯出場:なし
その後のW杯出場:なし
日本代表通算成績:5試合0得点(2005〜2006)
☆2005年コンフェデ杯出場
★アジア最終予選参加
☆最終候補メンバー選出
ジーコが新戦力を多く招集した東アジア選手権でデビュー。そこで活躍し、代表に定着した。ユース時代を過ごした市原でイビチャ・オシムの指導を受けたオシムチルドレンでありながら、茶野隆行同様にジーコ時代に呼ばれてオシム時代には呼ばれなかった稀有な選手。
前述の東アジア選手権以降、三浦に代わる三都主のバックアップ候補として継続的に招集され、当落線上の位置まで駆け上がった上で最後のキリンカップを迎えた。しかし迎えたブルガリア戦、先発のチャンスを得るとキレのある動きを見せていた矢先に負傷退場。左ひざ前十字靭帯段列と診断され、悔やまれる結果となってしまった。
MF 本山雅志
生年月日:1979年6月20日
当時の所属チーム:鹿島アントラーズ
それ以前のW杯出場:なし
その後のW杯出場:なし
日本代表通算成績:28試合0得点(2000〜2006)
☆2005年コンフェデ杯出場
★アジア最終予選参加
☆最終候補メンバー選出
黄金世代を代表するドリブラー。同じ鹿島で動機の小笠原や中田浩二と共に、世代別代表を含めたトルシエ時代からコンスタントに招集されており、日韓W杯でも候補の大枠には入っていた選手の一人。
鹿島時代からよく知るジーコが率いる代表チームには継続招集されており、特に2004年はアジアカップ2004など多くの試合で出場機会を得ていた。しかしスーパーサブ的な役割が期待されながらなかなか得点という結果は残さず、スーパーサブの役割は大黒や玉田が担う事になった。
MF 松井大輔
生年月日:1981年5月11日
当時の所属チーム:ル・マン
それ以前のW杯出場:なし
その後のW杯出場:2010年南アフリカW杯
日本代表通算成績:31試合1得点(2003〜2012)
アテネ五輪世代としてはジーコの下、大久保嘉人に次ぐ早さで代表デビューを飾り、2003年のコンフェデ杯にも参加。フル代表からは一時遠ざかったが、アテネ五輪で10番を背負い、現地で「ルマンの太陽」とも称されるほどのフランスでの活躍を経て2005年に代表復帰。2005年の最終戦となったアンゴラ戦では自身にとって唯一の代表戦でのゴールとなる得点を奪うなど、最後の1年で一気に有力候補にまで駆け上がっていった。
2006年に入っても有力な地位に付けており、海外組を交えての最後のAマッチとなるボスニア・ヘルツェゴビナ戦でも出場機会を得た。状態の良さから松井待望論もあったが、最終的に本戦メンバーには惜しくも選ばれなかった。おそらくジーコは3-5-2ベースで選考を行なっており、それゆえにサイドよりセンターの選手が多くなったのも要因か。
MF 阿部勇樹
生年月日:1981年9月6日
当時の所属チーム:ジェフユナイテッド千葉
それ以前のW杯出場:なし
その後のW杯出場:2010年南アフリカW杯
日本代表通算成績:53試合3得点(2005〜2011)
★アジア最終予選参加
☆最終候補メンバー選出
千葉の育成組織の最高傑作であり、オシムチルドレンとして最も代表的な選手。アテネ五輪世代の選手の多くは2005年の東アジア選手権でデビューとなったが、阿部はその前の2003年の同大会からメンバー入りを果たしていた。
2005年の東アジア選手権で再び代表に呼ばれると、その後のW杯まで残り1年を切った辺りからは継続的に招集を受け、そのポリバレント性からメンバー入りも期待されたが、最終的には23人のメンバーから漏れる事となった。
MF 長谷部誠
生年月日:1984年1月18日
当時の所属チーム:浦和レッドダイヤモンズ
それ以前のW杯出場:なし
その後のW杯出場:2010年南アフリカW杯、2014年ブラジルW杯、2018年ロシアW杯
日本代表通算成績:114試合2得点(2006〜2018)
★最終候補メンバー選出
所属する浦和が充実期に突入し、その軌跡に沿うように個人としても大躍進。アテネ五輪本大会を含め、同世代からは少し遅れる形にこそなったが2006年に入ってから初招集されると、デビュー戦となるアメリカ戦で存在感を残し、続くインド戦では先発にも抜擢された。
2月の代表戦での活躍とリーグ戦での好調もあり、いわゆる若手枠も当時のチームにはいなかった事もあって招集を期待する声もあったが、元々福西、稲本、小野、遠藤がいたボランチに中田英寿が下りてきた影響もあって、当時はもうボランチの枠が残っていなかった。長谷部が代表で絶対的な存在になっていくのは2008年の岡田武史体制以降となる。
FW 鈴木隆行
生年月日:1976年6月5日
当時の所属チーム:鹿島アントラーズ
それ以前のW杯出場:2002年日韓W杯
その後のW杯出場:なし
日本代表通算成績:55試合11得点(2001〜2005)
☆2005年コンフェデ杯出場
★アジア最終予選参加
ある意味では、シンデレラボーイ的にW杯出場を射止めた前回大会とは真逆の軌跡を辿る形となってしまったのかもしれない。ジーコジャパンの初陣から継続的に招集され、高原や柳沢らがいる中でも、決して単なる常連ではなくレギュラーとしてプレーし続けた。アジアカップ2004でもスタメンとして優勝に貢献している。
しかし2005年、まさしく前回大会で鈴木が辿ったようなシンデレラストーリーを大黒が辿る形となり、長身枠・フィジカル枠としても巻が急激に台頭。2006年からは久保も代表に復活した事で、W杯イヤーには招集される事も無くなってしまった。
FW 佐藤寿人
生年月日:1982年3月12日
当時の所属チーム:サンフレッチェ広島
それ以前のW杯出場:なし
その後のW杯出場:なし
日本代表通算成績:31試合4得点(2006〜2012)
★最終候補メンバー選出
アテネ五輪への出場は逃したが、2003年の仙台移籍をターニングポイントにストライカーとしての得点能力が開花。2004年にはJ2で20得点、広島に移籍した2005年には18得点を挙げて日本人得点王となり、2006年最初の試合となるアメリカ戦で初招集・代表デビューを果たした。
リーグでの好調そのままにキレのある動きを見せると、インド戦とエクアドル戦では2試合連続ゴール。ストライカーとして存在感を発揮する。しかし海外組の高原や大黒がほぼ当確だった事もあり、食い込める枠は残されていなかった。
FW 久保竜彦
生年月日:1976年6月18日
当時の所属チーム:横浜F・マリノス
それ以前のW杯出場:なし
その後のW杯出場:なし
日本代表通算成績:32試合11得点(1998〜2006)
★最終候補メンバー選出
現役時代はブラジル史上最高の選手とも評された神様ジーコが、日本で最も愛したストライカー。潜在能力は前監督のトルシエも認めており、トルシエ体制では不完全燃焼に終わったが、ジーコとは性格的なウマも合い、ジーコジャパンの4年間では得点王となる11得点を記録。ジーコジャパンでは18試合の出場である事を思えば驚異的な得点率である。一次予選の初戦では終了間際に劇的な決勝ゴールを挙げ、東欧遠征でチェコから決めたゴールは今なお伝説として語り継がれている。
久保の才能に心底惚れ込んでいたジーコは、早い段階から久保をFWの軸として考えており、休暇等でブラジルに帰れば「久保というFWに注目してほしい」という旨のコメントを何度もしていた。しかし現実は非常で、2004年頃から慢性的な腰痛に悩まされる事になる。2005年はリハビリが中心となり招集されなかったが、2006年に代表に復帰すると、ジーコも久保本人も、どうにかW杯に出れる術を最後まで模索した。しかし直前のキリンカップでも思うようにプレー出来ず、最終的には久保自身の選手生命に関わる影響をメディカルスタッフに指摘されて断念。ジーコは久保を呼ぶか否かの判断をメンバー発表前日まで悩んでいたと言う。
日本代表史上最大のロマンはW杯という舞台には縁が無く、ジーコも「あれだけの逸材を、世界に披露できなくなる。そんな結論を、自分で下さなければならなかった」「ドイツW杯は、私個人はもちろんだけど、日本にとって残念だったんじゃないかと思う。タツがいたら、国民はW杯をどれだけ楽しめたか」と小さくない未練として残している。ただ、久保は今でもジーコを恩師として感謝し続けており、ジーコも退任後も久保の事を気にかけ続けていた。
↓
……ムァキ。
\オォー…/
ではでは(´∀`)