G・BLUE〜ブログとは名ばかりのものではありますが...ブログ。〜

気ままに白熱、気ままな憂鬱。執筆等のご依頼はTwitter(@blueblack_gblue)のDM、もしくは[gamba_kyoto@yahoo.co.jp]のメールアドレスまでご連絡お願いします。

【W杯初決勝T進出から20年】2002日韓W杯日本代表メンバー23名のW杯での軌跡と現在を選手名鑑的に作ってみた【Vol.2】

f:id:gsfootball3tbase3gbmusic:20220617123141j:image

 

日韓W杯から20年経ちましたので、当ブログでは色々あれこれ2002FIFAワールドカップを振り返っております。

 

 

 

前回からはその歴史的な20周年を記念致しまして、日韓ワールドカップを戦ったメンバーの紹介というか、日韓W杯を中心としたその選手のキャリア、そして現在何をしてらっしゃるか的な事を名鑑みたいな感じでまとめていきたいな…と思い、当時の23名のメンバーを振り返っている最中。

全4回更新で今回は第2回でございます。

 

 

 

本日6月14日は日本が初の決勝トーナメント進出を決めたチュニジア戦からちょうど20年。…スタジアム違うけど、チュニジア戦からちょうど20年の日に大阪でチュニジア戦やるのって奇跡か…?

まだまだ続くので、ブックマークなりなんなりもして頂けたら!

 

 

vol.1

vol.2

vol.3

vol.4

 

 

オリジナルアルバム出してみました!聴いてみてくださいませ。

 

 

 

MF7 中田英寿

 

f:id:gsfootball3tbase3gbmusic:20220614063602j:image

 

生年月日:1977年1月22日

日韓W杯での成績:4試合1得点(先発4)

日韓W杯時の所属チーム:パルマFC

過去の所属チーム:韮崎高校→ベルマーレ平塚(1995〜1998.6)→ACペルージャ(98-99〜2000.1)→(2000.1〜00-01)→パルマFC(01-02〜2004.1)→ボローニャ(2004.1〜2004.6)→フィオレンティーナ(04-05)→ボルトン・ワンダラーズ(05-06)

日本代表通算成績:77試合11得点(1997〜2006)

★1998年フランスW杯、2006年ドイツW杯出場

☆コンフェデ杯2001、2003、2005出場

★1996年アトランタ五輪2000年シドニー五輪出場

 

日本人選手の海外移籍に於けるパイオニア的存在で、代表の成績にのみならず、日本サッカーの歴史の中でのキーパーソン的存在。日本人として唯一のセリエA優勝経験者であり、日韓W杯での海外組が4名だった事実が物語るように、当時は海外移籍のハードルが今とは比べ物にならない時代で、当時の代表では世界との差や肌身で感じている唯一と言っていい選手であった。トルシエとは確執も度々噂されたが、国際経験乏しいチームに於ける中田英寿の価値は人一倍強く捉えていたはずで、トルシエジャパンに於けるトップ下のポジションは常に彼のポジションであり、当時の日本でほぼ唯一の世界からも認知されたプレーヤーだった。

日韓W杯では全4試合にスタメン出場。攻撃面のリーダーとしてチームの攻撃を牽引し、チュニジア戦では自身にとってW杯で唯一のゴールをヘディングにより叩き出した。日韓W杯前、合宿所で行われたバーベキューパーティーでは盟友・松田直樹の煽りに乗せられる形でプールに突き落とされたシーンは当時の代表を追ったドキュメンタリー(六月の勝利の歌を忘れない)の中であまりにも有名な一コマであり、当時のチームの雰囲気の良さを窺わせる印象的なシーンでもあった。

日韓W杯後は怪我の影響等もあって、クラブ・代表の両面で輝く瞬間は限定的になっていった。ポジションをボランチに移して挑んだドイツW杯では、敗退直後にチームメイトですら寝耳に水だった突然の引退発表。引退後は"旅人"として世界各国での社会活動に加え、日本酒のプロデュースや美術館の名誉館長を務めるなど、サッカー外も含めたシーンで多岐にわたる活動を繰り広げている他、自身の個人サイト名義で古巣である湘南へのスポンサーも行っている。2016年と2017年にはFIFAの年間表彰式に出席しており、前者ではプスカシュ賞(年間ベストゴール)の発表役を担い、後者ではクリスティアーノ・ロナウドルカ・モドリッチなどベストイレブン受賞者へ記念品を贈呈する際のプレゼンターを務めている。

 

 

 

MF8 森島寛晃

 

f:id:gsfootball3tbase3gbmusic:20220609111739j:image

 

生年月日:1972年4月30日

日韓W杯での成績:3試合1得点

日韓W杯時の所属チーム:セレッソ大阪

過去の所属チーム:東海大学第一高校→セレッソ大阪(※1991〜2008)

日本代表通算成績:64試合12得点(1995〜2002)

★1998年フランスW杯出場

アジアカップ1996、2000出場

★コンフェデ杯2001出場

C大阪前身のヤンマーディーゼルサッカー部時代を含む

 

日韓W杯の際にジョーカー的な役割を務めたアタッカー。トルシエジャパンでは初戦に呼ばれた後で長らく代表から遠ざかる時期が続いたが、2000年に再招集されてからはアジアカップコンフェデ杯での躍進にも大きく貢献。日韓W杯は全体的に平均年齢が若いチームだった中、数少ないベテランという側面もあった。決勝トーナメント進出を懸けた第3戦のチュニジア戦、後半から投入された森島が決めたゴールは日本のグループステージ突破を決定付けると同時に、会場が大阪長居スタジアムだった事から「自身が所属するクラブの本拠地で行われたW杯でゴールを決める」というこの上ない選手冥利に尽きる記録を達成。W杯のハイライトシーンを生んだ。

クラブでは全身のヤンマー時代から引退までセレッソ一筋でプレー。日韓W杯が行われる2002年にはセレッソはJ2に降格していたので、西澤と共にJ2所属としてW杯に挑んだ最初の選手ともなっている。セレッソは"背番号8"をエースナンバーと定め、クラブを象徴する選手が背負う伝統が根付いているが、それは背番号8を森島がずっと背負っていた事に由来している。

現役引退後もアンバサダーとしてセレッソに残留。各種イベントへの参加やチーム編成・スカウティングにも携わりながら、2018年12月にセレッソ代表取締役社長に就任した。社長として打ち合わせや会食に出かけると、やはりチュニジア戦のゴールに話題が及ぶ事も多々あるという。

 

 

 

FW9 西澤明訓

 

f:id:gsfootball3tbase3gbmusic:20220608224726j:image

 

生年月日:1976年6月18日

日韓W杯での成績:1試合0得点(先発1)

日韓W杯時の所属チーム:セレッソ大阪

過去の所属チーム:清水東高校セレッソ大阪(1995.1〜1995.6)→フォレンダム(95-96)→セレッソ大阪(1996〜2000)→エスパニョール(2001.1〜2001.6)→ボルトン・ワンダラーズ(2001.7〜2001.12)→セレッソ大阪(2002〜2006)→清水エスパルス(2007〜2008)→セレッソ大阪(2009)

日本代表通算成績:29試合10得点(1997〜2002)

アジアカップ2000出場

☆コンフェデ杯2001出場

 

恵まれたフィジカルを活かし、印象的なスーパーゴールも多く残した大型ストライカー。セレッソでも長年コンビを組んだ森島とのコンビはゴールデンコンビとして知られ、お互いにトルシエ体制初期はメンバーから外れながらも同時期に復帰すると、当時世界最強だったフランスを相手に森島とアベックゴールを決めた事から代表に定着。アジアカップコンフェデ杯ではレギュラーFWも務めた。日韓W杯ではメンバー発表から合宿開始までの間に虫垂炎を患うというトラブルもあってグループステージでは出番が無かったが、ベスト16のトルコ戦で唐突にスタメンを飾った。ちなみにトルコ戦の日は西澤の誕生日でもあった。

クラブではセレッソを中心に欧州でもプレー。セレッソでは2000年や2005年に二桁得点を挙げる活躍を見せてセレッソの上位進出に貢献。2007年には清水に移籍したが、最終的に引退はセレッソで飾っている。セレッソにとって森島の8番と西澤の20番は特別な番号として扱われており、2021年に大久保嘉人セレッソ復帰に際して20番を選んだ背景には西澤の存在があった。

現役引退後はセレッソのアンバサダーと共に代理人業を行っている(JSP所属)。現在は日本人の元選手の仲介人も増えてきたが、西澤が代理人になった時はさほど多くもなかった。堂安律の移籍など、日本人選手の海外移籍にも絡んでいる。

 

 

 

FW10 中山雅史

 

f:id:gsfootball3tbase3gbmusic:20220609111725j:image

 

生年月日:1967年6月23日

日韓W杯での成績:1試合0得点

日韓W杯時の所属チーム:ジュビロ磐田

過去の所属チーム:筑波大学ジュビロ磐田(※1990〜2009)→コンサドーレ札幌(2010〜2012)→アスルクラロ沼津(2015.9〜2020)

日本代表通算成績:53試合21得点(1990〜2003)

★1998年フランスW杯出場

アジアカップ1988、1992出場

★コンフェデ杯2001出場

 

ゴン中山」でお馴染み日本サッカー史に於ける伝説的なストライカー。日本がW杯で初めて奪った得点は他でもないこの男によって刻まれたものである。トルシエジャパンでも常連メンバーとして帯同していたが、2002年は招集外が続いた事もあってW杯での代表復帰はサプライズとして捉えられた。同じくサプライズ選出となった秋田豊と共に、どうしてもモチベーションが落ちてしまいがちになるサブ組を盛り上げるムードメーカーとしての役割を全うし、そういうピッチ外の様子を追ったドキュメンタリーでは主役級の存在感を放っている。W杯ではプレースタイル的にはイメージから遠い背番号10が与えられた事は選出以上のサプライズでもあったとか。ロシア戦で途中出場し「No.10 ナカヤマ」が場内にコールされた際のスタンドの沸き上がり方はロシア側が少しビビったみたいな話もあったりなかったり…。

Jリーグ開幕前から、前身のヤマハ時代を含めて磐田の象徴的選手として君臨。磐田史上最高の選手を尋ねれば、おそらく多くの人が中山・名波・ドゥンガのどれかを答えるだろう。1998年に残した27試合36得点という数字は未だにJ1での1シーズン最多得点記録であり、サプライズとは言うが、2001年も2002年も黄金期磐田の得点源として2年連続16得点を叩き出していた。

2010年から移籍した札幌で2012年に引退し、テレビ朝日での解説業と並行しながら2015年には沼津で現役に復帰した。2021年からは沼津を退団して磐田のコーチに就任。全体練習後の居残りシュート練習はお馴染みの光景で、大津祐樹やジャーメイン良はインタビューでその効果と感謝を口にする事も多い。

 

 

 

FW11 鈴木隆行

 

f:id:gsfootball3tbase3gbmusic:20220609111534j:image

 

生年月日:1976年6月5日

日韓W杯での成績:4試合1得点(先発3)

日韓W杯時の所属チーム:鹿島アントラーズ

過去の所属チーム:鹿島アントラーズ(1995〜1997.3)→CFZ(1997.3〜1997.9)→鹿島アントラーズ(1997.10〜1998.10)→ジェフユナイテッド市原(1998.10〜1998.12)→CFZ(1999.2〜1999.8)→鹿島アントラーズ(1999.8〜1999.12)→川崎フロンターレ(2000.1〜2000.8)→鹿島アントラーズ(2000.8〜2002.7)→KRCヘンク(02-03)→鹿島アントラーズ(2003.7〜2003.8)→ヒューズデン・ゾルダー(04-05)→鹿島アントラーズ(2004.7〜2005)→レッドスター・ベオグラード(2006)→横浜F・マリノス(2007)→ポートランド・ティンバーズ(2008.3〜2010)→水戸ホーリーホック(2011.6〜2014)→ジェフユナイテッド千葉(2015)

日本代表通算成績:55試合11得点(2001〜2005)

アジアカップ2004出場

☆コンフェデ杯2001、2005出場

 

「日本サッカーの歴史の中で最も重要なゴールを3つ挙げろ」という議題になった時、フランスW杯出場を決めた岡野雅行のゴールとフランスW杯での中山雅史のゴールと共に真っ先に挙げられるべきゴールは鈴木がベルギー戦で必死に伸ばした脚から産まれたあの一発だろう。ベルギー戦でのあの一発はまさしく、日本代表が新章の扉を開いた瞬間だった。日韓W杯では全4試合に出場。鹿島でもコンビを組む柳沢敦との2トップでベスト16進出の大きな原動力となった。

名FWとして語られる選手としてはキャリアでの総ゴール数は少なく、二桁得点もJ2で一度記録したのみ。しかしレンタル移籍を繰り返しても出場機会を掴めないまま鹿島に復帰した2000年、ナビスコ杯でニューヒーロー賞に輝く活躍を見せると、優勝争い天王山となったG大阪戦やCS第2戦の横浜FM戦といった大一番で先制点を獲得。レンタル先の一つだった市原でも、リーグ戦はノーゴールながらJ1参入決定戦ではチームの残留に大きく貢献する得点を挙げている。そもそも日本代表にしても、追加招集で急遽呼ばれたコンフェデ杯カメルーン戦の2得点から一気に定着した。前述のベルギー戦しかり、まさしく「持ってる男」の象徴である。

現在はサッカー解説者としてフジテレビを中心に活動する一方、2021年から小学生向けのサッカースクールを首都圏を中心に運営中。自ら直接指導を行うスタイルが好評を博し、早くも5校目がオープンした。ちなみに、鈴木が「師匠」と呼ばれるのは単なるネットスラング的な事ではあるが、知ってか知らずか小野伸二に「師匠」とテレビで呼ばれた。

 

 

GK12 楢崎正剛

 

f:id:gsfootball3tbase3gbmusic:20220609111524j:image

 

生年月日:1976年4月15日

日韓W杯での成績:4試合3失点(先発4)

日韓W杯時の所属チーム:名古屋グランパスエイト

過去の所属チーム:奈良育英高校横浜フリューゲルス(1995〜1998)→名古屋グランパス(1999〜2018)

日本代表通算成績:77試合0得点(1996〜2010)

★1998年フランスW杯、2006年ドイツW杯、2010年南アフリカW杯出場

アジアカップ1996、2004、2007出場

コンフェデ杯2003、2005出場

☆2000年シドニー五輪出場

コパ・アメリカ1999出場

 

フランスW杯予選から南アフリカW杯直前までの間、日本代表はGKに困ることは無かったが、逆を言えば常にハイレベルな二択で悩む状態は続いていた。それが川口能活と楢﨑正剛である。トルシエ体制でも期間としてはフランスW杯の正GKも務めた川口が先発の期間の方が長かったが、楢﨑もシドニー五輪オーバーエイジとして招集されるほど信頼されており、そして最終的に日韓W杯でレギュラーの座を痛めたのは楢﨑の方だった。日本のW杯での初勝点、初勝利、初決勝トーナメントは全て楢﨑が正GKとして関わっている。大会期間中から度々しゃくれているアゴをイジられるなどイジられキャラとしての側面も持ち、ドキュメンタリーでもそういう場面が多々ある。南アフリカW杯では大会直前で楢﨑に代わってスタメンに抜擢された川島永嗣を、川口と2人で献身的にサポートした。

クラブでは横浜フリューゲルスで活躍していた為、1998年までは川口とのライバル関係にマリノスフリューゲルスのキーパーという側面もあった。フリューゲルス消滅と共に名古屋に移籍すると、2018年の引退まで名古屋の絶対的守護神として君臨し、2010年にはGKとして史上初となるJリーグMVPを受賞。フリューゲルスへの思い入れも強く、名古屋から移籍したくない理由の一つとして「『前所属・横浜フリューゲルス』の文字を消したくない」とも語っていた。

引退後は名古屋のクラブスペシャルフェローに就任し、名古屋のアカデミーのGKコーチも務めるなど、営業面でも育成面でもチームを支える立場に立っている。2021年からはJFAトレセンコーチも兼任で務めている。

 

 

 

次回

 

2002年の音楽といえばモンパチが無双してたのね

ではでは(´∀`)