RK-3はきだめスタジオブログ

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【初めてのW杯から25周年】1998年フランスW杯 日本代表メンバー選手名鑑 vol.2

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ちなみに1998年のCDランキング1位はGLAYだよ!

 

どーもこんばんは

 

 

さてさて、6月14日、この日何の日。

 

 

 

日本代表がW杯初試合を戦った日から25年です。

 

 

 

1998 FIFAワールドカップフランス大会といえば、日本代表が初めて出場したW杯でした。

 

という訳で今回は全4回に分けて「1998 FIFAワールドカップフランス大会 日本代表選手名鑑」を作っていきたいと思います。

 

Vol.1 / Vol.2 / Vol.3 / Vol.4

 

 

フランスW杯にあと一歩で選ばれなかった選手ベストイレブンこちら

 

2002年日韓W杯 日本代表選手名鑑こちら

 

2022年カタールW杯 日本代表選手名鑑こちら

 

Jリーグ30周年記念特集こちらから!

 

オリジナルアルバム出してみました!聴いてみてくださいませ。

 

 

 

MF7 伊東輝悦

(清水エスパルス)

 

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生年月日:1974年8月31日

出身地:静岡県清水市(現:静岡県静岡市)

フランスW杯での成績:0試合

現在の所属チーム:アスルクラロ沼津(2017〜)

過去の所属チーム:東海第一高校→清水エスパルス(1993-2010)→ヴァンフォーレ甲府(2011-2013)→AC長野パルセイロ(2014-2015)→ブラウブリッツ秋田(2016)

日本代表通算成績:27試合0得点(1997-2002)

★コンフェデ杯2001出場

☆1996年アトランタ五輪出場

★コパ・アメリカ1999出場

 

アトランタ五輪ブラジル戦、いわゆるマイアミの奇跡に於いて伝説になった男。五輪での活躍はもちろん、有力な選手が多くひしめく当時の清水で若くして定位置を勝ち取り、同クラブの歴史にとって重要な選手として君臨し続けた。五輪代表以降はボランチにコンバートしたのでその印象が強いが、攻撃的なポジションでプレーしていた頃はそのドリブル能力で「テルドーナ」と称された。

1997年に代表デビューを果たしたが、同年のアジア予選には1試合にも出場していないという背景もあって、五輪やクラブでの活躍が評価されての代表選出であったが本人としては「最終候補に入った時点で驚きだった」との事。フランスW杯では山口、名波、中田が絶対的な存在として中盤に君臨してきた事で出場機会は無かったが、フランスW杯メンバーが多く代表から外れる中で伊東は日韓W杯に向かう代表チームに常に呼ばれ続けていた。

長らく活躍した清水は2010年を最後に退団。甲府、長野、秋田を経て入団した沼津では現在でもプレーしており、今季は中山雅史監督の下でプレー。三浦知良JFLに移籍した2022年以降はJリーグ最年長プレーヤーとなっている。G大阪二川孝広と共に「寡黙」「人見知り」「無口」の代表格となっており、それにまつわるエピソードも多々存在する。

 

 

 

MF8 中田英寿

(ベルマーレ平塚)

 

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生年月日:1977年1月22日

出身地:山梨県甲府市

フランスW杯での成績:3試合(先発3)

過去の所属チーム:韮崎高校→ベルマーレ平塚(1995-1998.6)→ACペルージャ(98/99-2000.1)→(2000.1-00/01)→パルマFC(01/02-2004.1)→ボローニャ(2004.1-2004.6)→フィオレンティーナ(04/05)→ボルトン・ワンダラーズ(05/06)

日本代表通算成績:77試合11得点(1997-2006)

★2002年日韓W杯,2006年ドイツW杯出場

☆コンフェデ杯2001,2003,2005出場

★1996年アトランタ五輪,2000年シドニー五輪出場

 

「日本代表史上最高の選手は?」という議論であれば答えは尽きないが、欧州に於ける日本人選手の地位向上という点を重視すればその筆頭は中田英寿になるだろう。アトランタ五輪後に日本代表に合流したニュースターは早々にチームの中で絶対的な存在として君臨。フランスW杯後にイタリアのペルージャに移籍し、後に移籍したASローマではユベントスとの首位天王山で得点を奪うなど同年のローマのスクデット獲得に大きな貢献を果たした。欧州が今より遥か遠くにあった頃、日本はヒデに夢と世界を見た。

日本代表ではアトランタ五輪が終わった1997年より代表に定着。すぐさまレギュラーに定着し攻撃の中心的役割を担った。W杯出場を決めたジョホールバルの歓喜では2アシストを記録し、岡野雅行Vゴールも中田のミドルシュートが得点のきっかけである。本大会でも3試合全てにフル出場。中田のプレーは世界的にも高く評価され、大会終了後には4ヶ国12クラブからオファーが届き、最終的にはペルージャを選んだがその12クラブの中にはアーセナルユベントスといったビッグクラブも名を連ねていた。なお7番のイメージが強いが、フランスW杯までは8番を背負っている。

フランスW杯後はイタリアでの活躍により、自国開催となった2002年日韓W杯では開催国の顔役としても君臨。世界が一目置く存在となり、FIFAや各団体が主催する親善試合に世界選抜として出場する事も多かった。2006年ドイツW杯後の突然の現役引退後は"旅人"としてサッカー外も含めた多岐に渡る活動を繰り広げている他、自身の個人サイト名義で古巣である湘南へのスポンサードも行っている。FIFAの年間表彰式でプスカシュ賞(年間ベストゴール)の発表役やベストイレブン受賞者へのプレゼンターを務めるなど今でもその影響力は根強い。孤高の存在と見られがちだが、フランスW杯メンバーや同年代の選手の引退試合にはマメに参加する律儀さも持ち合わせている。

余談だがフランスW杯頃までの"使われる選手"であり、一般的に"使う選手"のイメージが強い中田がベストパートナーの一人に挙げた名波やU-17から共にプレーしてきた宮本恒靖は「本来のヒデは"使われる側"の選手」という主旨のコメントを残している。

 

 

 

FW9 中山雅史

(ジュビロ磐田)

 

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生年月日:1967年6月23日

出身地:静岡県藤枝市

日韓W杯での成績:3試合(先発3)

過去の所属チーム:筑波大学ジュビロ磐田(1990※-2009)→コンサドーレ札幌(2010-2012)→アスルクラロ沼津(2015.9-2020)

日本代表通算成績:53試合21得点(1990-2003)

※磐田前身のヤマハ発動機サッカー部時代を含む

★2002年日韓W杯出場

アジアカップ1988,1992出場

★コンフェデ杯2001出場

 

ゴン中山」でお馴染み日本サッカー史に於ける伝説的なストライカー。磐田史上最高の選手を尋ねれば、おそらく多くの人が中山・名波・ドゥンガのどれかを答えるだろう。1998年に残した27試合36得点という数字は未だにJ1での1シーズン最多得点記録であり、4試合連続ハットトリックと最速ハットトリックギネスブックにも登録されている(4試合連続の方は現在は別の選手)。圧倒的な勝負強さと飽くなきゴールへの探究心、自己犠牲を厭わない献身性で泥臭くとも得点や勝利に繋げるプレーは中山をJリーグの中でも特別な存在に押し上げ、岡崎慎司のように中山の影響を強く受けた選手は後進の世代にも多い。

ドーハの悲劇の際に2-1と勝ち越すゴールを挙げながら"その瞬間"はベンチに下がっていた中山だったが、加茂周監督が率いるチームからは暫し代表から遠ざかっており、最終予選でも9月の韓国戦の際にはTV中継でピッチリポーターを任せるほどであった。しかし岡田監督に交代し、リポーターを務めていた僅か1ヶ月後のカザフスタンとの最終戦から復帰すると、ジョホールバルの歓喜と呼ばれる続くイラン戦の両試合で得点を挙げる。本大会では城と2トップを組む形で全試合に先発し、ジャマイカ戦では75分に日本代表W杯1号ゴールを記録。今後日本がどれだけW杯躍進すれども、第1号はいつまでも中山である。ジャマイカ戦では後に骨折と診断される怪我を負ったが痛みに耐えながら90分出場。トルシエ体制でもコンスタントに招集されており、日韓W杯ではフランスW杯とは異なる役割でベスト16進出の影のキーマンとして貢献した。

磐田退団後に入団した札幌で2012年に引退するが、2015年から2020年までは試合出場こそなかったが沼津で現役復帰を果たしている。ユーモア溢れるひょうきんなキャラクターかつ、日本サッカー史上屈指のトーク力の持ち主としても知られており、様々なバラエティ番組出演からプリキュアの声優まで担当。札幌での現役引退から2020年までは主にテレビ朝日系での解説者として日本代表戦では松木安太郎との熱血コンビでも人気を博していたが、2021年からは2シーズン磐田のコーチを務めた際にはあまり表に出ないところでの選手の技術強化に尽力する黒子としての手腕も見せ、2023年からは監督として沼津を率い、遂に「監督・ゴン中山」が実現している。

 

 

 

MF10 名波浩

(ジュビロ磐田)

 

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生年月日:1972年11月28日

出身地:静岡県藤枝市

フランスW杯での成績:3試合(先発3)

過去の所属チーム:順天堂大学ジュビロ磐田(1995-1999.7)→ACヴェネツィア(99/00)→ジュビロ磐田(2000.6-2006.8)→セレッソ大阪(2006.8-2006.12)→東京ヴェルディ1969(2007)→ジュビロ磐田(2008)

日本代表通算成績:67試合9得点(1995-2002)

アジアカップ1996,2000出場

☆コパ・アメリカ1999出場

 

中山と共にジュビロ磐田史上最高の選手として数えられる選手であり、かの有名な「N-BOX」の「N」が名波の名前から取られている事が彼がジュビロ黄金期の象徴だだた事を物語っている。個人でゲームそのものを支配してしまうだけの存在感を持ち合わせ、左足一本で攻撃を司る姿はまさしく司令塔。同年代の選手はもちろん中田英寿中村俊輔といった下の世代の中心人物もその存在感を称賛している。藤枝という街ぐるみでサッカーが盛んな場所で生まれ育ち、有望株が揃いまくっていた当時の静岡でも早くから特別な存在として君臨していた。

代表にはルーキーイヤーから招集を受けているが早い段階からラモス瑠偉の次の10番を引き継ぐ事となった。元々7番を希望していた事や、本人の言葉を借りれば「《10番名波》がそのまま活字になる」上で批判を浴びることから背番号に思うところは多々あった中でも常に代表の最重要人物として貢献。代表では山口素弘ボランチを組む事が多かったが、山口より少し前でトップ下の中田より少し後ろという2.5列目的な位置でプレーし、日本の攻撃は基本的に中田と名波を起点に組み立てられていた。本大会では全試合に先発したが、アルゼンチン戦では名波の脚に当たったボールを拾われて失点する悔しさを味わっている。次回の日韓W杯も本人やトルシエ監督を含めた多くの人間からメンバー入りを熱望されたが、2001年に負った負傷が尾を引く形となって惜しくも連続出場は逃した。

引退後はテレビ朝日系を中心とした解説者業を経て磐田の監督を長期間を務める。戦術面では賛否両論があったが、持ち前の求心力でモチベーターやマネージャーとしては能力を存分に発揮。2021年から就任した松本の監督を退任した後、2023年からは日本代表コーチとして、かつて自身の代表での教育係だった森保監督を補佐する立場に就いた。人脈の広さとトーク技術ゆえに様々な選手のYouTubeに出演し、当時の様々な裏話を披露している。

 

 

 

MF11 小野伸二

(浦和レッドダイヤモンズ)

 

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生年月日:1979年9月27日

出身地:静岡県沼津市

フランスW杯での成績:1試合(途中1)

現在の所属チーム:北海道コンサドーレ札幌(2021〜)

過去の所属チーム:清水商業高校→浦和レッズ(1998-2001.7)→フェイエノールト(01/02-2006.1)→浦和レッズ(2006-2007)→VfLボーフム(2008.1-2010.1)→清水エスパルス(2010〜2012.9)→ウェスタン・シドニー・ワンダラーズ(12/13-13/14)→北海道コンサドーレ札幌(2014.6-2019.8)→FC琉球(2019.8-2020)

日本代表通算成績:56試合6得点(1998-2008)

★2002年日韓W杯,2006年ドイツW杯出場

アジアカップ2000出場

★コンフェデ杯2001出場

☆2004年アテネ五輪出場

 

日本サッカー史上最高の才能を持つと称される天才MF。高校卒業の際には13クラブからオファーを受けて浦和に入団し、ルーキーイヤーからベストイレブンに選ばれ、当時はまさしく彗星の如く現れたニュースターだった。浦和で活躍後、後にオランダ3強の一角であるフェイエノールトではUEFAヨーロッパリーグ制覇の立役者となり、その輝きは日本代表のチームメイトやOBのみならず、スナイデルファン・ペルシー、ディルク・カイトといったオランダのレジェンドからもその才能と実力には惜しみない賞賛を受けている。

W杯イヤーでルーキーイヤーとなった1998年シーズンの開幕から鮮烈な印象を残すと、W杯2ヶ月前の韓国との親善試合で初招集&初出場し、そのまま本大会にも出場。三浦知良の11番を背負いながら18歳272日という現在も破られていない日本人のW杯最年少出場記録をジャマイカ戦で樹立。その試合でも印象的なプレーを連発し、日本のサッカーファンは中田と共に小野に夢と世界を見ていた。ちなみに岡田監督曰く「小野の招集は『将来を見据えて経験を積ませる為の選出』と言われたが実際にそんな余裕は無かった。もしヒデが出場停止や怪我になった場合、攻撃を成立させるには小野の天才性に賭けるしかない」との方。

フランスW杯後には欧州も含めて様々な成功を収め、現在も2014年夏に加入した札幌で現役を続けており、フランスW杯メンバーの現役選手は伊東輝悦と2人のみになった。出場機会こそ減っているが札幌は小野の経験値や人間性、影響力を多角的に評価しており、2022年には引退後もフロントや指導者として札幌に残る生涯契約を結んでおり、ウォーミングアップで見せるボールコントロールには対戦相手のサポーターから歓声が起こる事もしばしば。

 

 

 

FW12 呂比須ワグナー

(ベルマーレ平塚)

 

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生年月日:1969年1月29日

出身地:サンパウロ州フランカ(ブラジル)

フランスW杯での成績:3試合(途中3)

過去の所属チーム:サンパウロFC(1985-1987.10)→日産自動車サッカー部(87/88-89/90)→柏レイソル(90/91※-1994)→本田技研工業フットボールクラブ(1995-1996)→ベルマーレ平塚(1997-1998)→名古屋グランパスエイト(1999-2000)→FC東京(2001.1-2001.7)→アビスパ福岡(2001.7-2002)

日本代表通算成績:20試合5得点(1997-1999)

※柏前身の日立製作所サッカー部時代を含む

★コパ・アメリカ1999出場

 

フランスW杯に至る日本代表を語る上で欠かせない選手。ブラジルの名門・サンパウロFCで育ち18歳にして来日。しかし日産時代は怪我に苦しみ、柏では大活躍しながらも外国籍籍枠の兼ね合いで放出されて帰化申請が頓挫するなど様々な挫折を味わった。だが拾われる形で入団したJFL本田技研で再ブレイクすると、平塚に移籍した1997年に帰化が通って代表招集。フィジカルに目が行きがちだが、それ以上に滑らかなボールの扱い方とシュートパターンの幅広さが大きな武器で、J1では2試合に1得点以上の得点ペースを誇っていた。

平塚移籍後、日産時代にMFだった呂比須をFWにコンバートさせた加茂監督率いる代表チームに予選第3節の韓国戦から参加。そこから3試合連続ゴールを決めて一躍救世主となった。ジョホールバルの歓喜では試合直前に母親が亡くなり、岡田監督は帰国を促したが代表に帯同して後半から出場。岡野の決勝点の起点になるなど、まさに呂比須がいなければどうなっていたかわからないと言えるだけの活躍を見せた。本大会では全試合で途中出場しており、ジャマイカ戦では中山のゴールをアシスト。日本代表第1号アシストを記録したのは他でもない呂比須である。

引退後はブラジルに帰国し、指導者としてブラジルの複数クラブの監督を務めた。Jリーグでも仕事をしており、2012年のG大阪時代はもう絶許。ただし、2017年に新潟で監督を務めた際には新潟サポから退任事に続投を求められる程の信頼は得た。日産時代の先輩である金田喜稔の影響で長渕剛のファンであり、長渕の特集番組でコメントを寄せた事もある。

ちなみに本人曰く、アルゼンチン戦で日本サポーターから呂比須コールが送られた際、日本に「ロペス」がいるとは知らないアルゼンチンのクラウディオ・ロペスが自分への声援と勘違いして手を振っていたらしい。

 

 

 

Vol.3こちら

 

でけでっでっでっでっでっでっでっでででででででで

ではでは(´∀`)