ゴンゴールのチャント好きです。
どーもこんばんは
さてさて、6月26日、この日何の日。
日本代表のW杯初得点から25年です。
1998 FIFAワールドカップフランス大会といえば、日本代表が初めて出場したW杯でした。
2連敗…突きつけられた現実は最終節を前にしてのグループステージ敗退決定でした。相手のジャマイカも初出場の身。お互いに2連敗でお互いに敗退決定。初勝利、初勝点を懸けた最終戦も日本は2点を先行される苦しい展開になりました。しかし74分、呂比須ワグナーの取り返しに中山雅史が詰めたその時、最終的な結果こそ虚しく終われども、その一弾は日本サッカーの歴史を切り拓くものとなりました。
という訳で今回は引き続き、全4回に分けて「1998 FIFAワールドカップフランス大会 日本代表選手名鑑」を作っていきたいと思います。
フランスW杯にあと一歩で選ばれなかった選手ベストイレブンはこちら
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DF19 中西永輔
生年月日:1973年6月23日
フランスW杯での成績:2試合(先発2)
過去の所属チーム:四日市中央工業高校→ジェフユナイテッド市原(1992-2003)→横浜F・マリノス(2004-2006)
日本代表通算成績:14試合0得点(1997-2002)
高校時代は小倉隆史、中田一三と共に四中工三羽烏と称されて高校選手権で優勝(帝京高校との両校優勝)を飾り、その実績を提げて市原でのルーキーイヤーかつJリーグ開幕前年のルヴァン杯からポジションを掴む。4バックのSB、3バックの両サイドをこなすユーティリティ性が高く評価され、長きに渡って市原の守備の重要人物としてプレーし続けた。チーム事情によっては前線を任される事も多く、特に1999年は9得点を叩き出している。市原では常に主力としてプレーし続け、2004年には岡田監督率いるマリノスでも3シーズンプレー。キャリアでなかなか恵まれなかったリーグタイトルを獲得した。
日本代表では加茂監督が率いた1997年に初招集を受けると、当初は両SBの控えとして帯同していたが、岡田監督率いるチームが本大会が迫るに連れて3バックにシフトすると、小村や斉藤とのレギュラー争いを制する形で左CBとしてのレギュラーポジションを掴み、ジャマイカ戦は累積警告で出場停止となったが最初の2試合ではフル出場。特にアルゼンチン戦ではクラウディオ・ロペスを封じたパフォーマンスが高く評価された。なお、中西はトルシエ体制でも定期的に招集されていたが、代表での国際大会出場はフランスW杯本戦のみとなっている。
引退後はDAZNを中心に解説者として活動する傍ら、他の日本代表OBと共に各地域で行われるOB戦にも積極的に参加している。釣りが趣味で、Instagramには釣りの様子や釣った魚の写真が投稿される事も多い。
GK20 川口能活
(横浜マリノス)
生年月日:1975年8月15日
フランスW杯での成績:3試合(先発3)
過去の所属チーム:清水市立商業高等学校→横浜マリノス(1994-2001.10)→ポーツマスFC(2001.10-02/03)→FCノアシェラン(03/04-2004.12)→ジュビロ磐田(2005-2013)→FC岐阜(2014-2015)→SC相模原(2016-2018)
日本代表通算成績:116試合(1997-2010)
★2002年日韓W杯,2006年ドイツW杯,2010年南アフリカW杯出場
☆アジアカップ2000,2004,2007出場
★コンフェデ杯2001,2003,2005出場
☆1996年アトランタ五輪出場
★コパ・アメリカ1999出場
日本サッカーの歴史の中で最もスター性を持ち合わせていたGK。20歳で迎えたプロ2年目のシーズンに代表正GKの松永成立からレギュラーポジションを奪うと、2001年まではマリノスの、海外挑戦を経た2005年から2013年までは磐田の絶対的な守護神としてJリーグに君臨し続けた。その神懸かり的なセービングとPKの強さはトレードマークで、気迫を全面に押し出すスタイルと人気を博す。ちなみに優勝した高校サッカー選手権の準決勝も川口のセーブによりPK戦を制している。
いわゆるマイアミの奇跡と呼ばれるアトランタ五輪で後に伝説として記憶されるほどの大活躍を見せて一躍知名度を上げると、五輪終了直後からフル代表に招集されるようになる。フランスW杯予選が始まる1997年から正GKの座に就くと、歴戦のベテランさえも「異様な空気だった」と評する最終予選で日本の守護神を22歳にして務め上げた。本大会でも正GKを務め、チームは3戦全敗に終わったがアルゼンチン戦では23本のシュートに対して1失点に抑えるなど奮闘。後のキャリアにも共通して言える圧倒的な大舞台での強さに繋がる片鱗を見せていた。ちなみに川口は22歳でフランスW杯に出場しているが、日本で20代前半でW杯の試合に出場したGKは川口のみとなっている。
磐田を退団し、岐阜と相模原に所属して2018年に引退した後はJFA所属の指導者に転身。世代別代表のGKコーチを務め、2021年東京五輪にもGKコーチとして参加。谷晃生のPK戦での奮闘を川口がコーチとしてアシストする絵には感慨を覚えたファンも多かったはず。同代表のヘッドコーチを務めた横内昭展監督が就任した磐田のGKコーチに就く形で古巣に復帰している。また、2023年には福西崇史らと共に早稲田大学大学院を卒業し、修士の学位を得た。
GK21 楢﨑正剛
生年月日:1976年4月15日
フランスW杯での成績:0試合
過去の所属チーム:奈良育英高校→横浜フリューゲルス(1995-1998)→名古屋グランパス(1999-2018)
日本代表通算成績:77試合0得点(1996-2010)
★2002年日韓W杯,2006年ドイツW杯,2010年南アフリカW杯出場
☆アジアカップ1996,2004,2007出場
★コンフェデ杯2003,2005出場
☆2000年シドニー五輪出場
★コパ・アメリカ1999出場
プロ1年目から横浜フリューゲルスで出場機会を得ていた若手GK。フランスW杯の時点では川口と共に22歳だったが、歴戦のベテランGKがいたところを22歳の2人が追い越して行った形になる。若くして守護神の座を掴んだフリューゲルスではチーム消滅のその時まで絶対的な守護神で在り続け、名古屋移籍後はその存在感を一段と増し、名古屋がリーグ優勝を果たした2010年にはGKとして唯一のJリーグMVPを受賞した。
代表では川口との長年に渡るライバル関係で知られていたが、五輪や予選の実績が物語るようにフランスW杯の時点では明確に川口の方が優位に立っていた。しかしトルシエジャパンになってからは楢﨑が一気に川口に追いついていく形になり、2002年日韓W杯では楢﨑が正GKを務めている。なお、川口が代表デビューを果たした1997年2月のスウェーデン戦から正GKが楢﨑から川島永嗣に代わる前の最後の試合となった2010年5月の韓国戦までの13年間216試合で、川口と楢﨑以外のGKが先発した試合は僅か24試合しかない。
引退後は名古屋に残り、GKコーチとしての指導者業やクラブスペシャルフェローとしての広報活動など、様々な形で名古屋に貢献している。ちなみに川口とのライバル関係はしきりに煽られたが当人同士の仲は良く、奇遇にも同じ年に引退となった事からお互いのセレモニーではお互いが花束贈呈を担った。引退後にはCM共演も果たしている。
MF22 平野孝
生年月日:1974年7月15日
フランスW杯での成績:2試合(途中2)
過去の所属チーム:清水商業高校→名古屋グランパスエイト(1993-2000.7)→京都パープルサンガ(2000.7-2000.12)→ジュビロ磐田(2001)→ヴィッセル神戸(2002)→東京ヴェルディ1969(2003-2005)→横浜F・マリノス(2006)→大宮アルディージャ(2007)→バンクーバー・ホワイトキャップス(2008-2010)
日本代表通算成績:15試合4得点(1997-2000)
名門・清水商業高校から名古屋に進み、アーセン・ベンゲル監督の薫陶を受けてドラガン・ストイコビッチらと共に攻撃の中心人物としてプレー。左サイドでの突破力と左脚のシュートは強烈な破壊力を誇り、同クラブがJリーグのお荷物とすら呼ばれたいような立場から上位に躍進できるようになるまでの軌跡を担った。名古屋退団後は複数クラブを渡り歩いだが神戸や東京Vでは主力として活躍。2008年からはアメリカにDFとして挑戦し、35歳のシーズンとなる2009年にはチーム内の最優秀DF賞を受賞した。
加茂監督時代にデビューした代表戦では帯同こそ常にしつつも出場機会は少なく、ジョホールバルの歓喜でもベンチには入っていなかった。しかし岡田監督は本大会に向けて平野をジョーカーとして重宝し、本大会で先発していない選手の中では呂比須と2人だけとなる複数試合で途中出場。本人曰く、W杯に出た事でサッカーへの考え方が変わったとの事。また、三浦知良落選に繋がる「最後の1枠を"5人目のFW"にするか"3人目のGKにするか"」問題で後者が優先されたのはMFの平野がFWをこなせる事が大きかったという。
引退後はスカパーのJリーグ番組でMCを務めるなど解説者として活動した後、2018年には神戸のフロントに入閣し、いわゆるバルサ化の一端を担った。同じフロント組だった三浦淳寛監督就任以降は自身もSDやコーチを歴任。三浦監督の退任後は再び神戸のスカウト部門に戻っている。
監督 岡田武史
生年月日:1956年8月25日
過去の指導チーム:ジェフユナイテッド市原コーチ(1990※-1994)→日本代表コーチ(1995-1997.10)→日本代表監督(1997.10-1998.7)→コンサドーレ札幌監督(1999-2001)→横浜F・マリノス(2003-2006.8)→日本代表監督(2008-2010.7)→杭州緑城足球倶楽部(2012-2013)
※前身の古河電気工業サッカー部時代を含む
フランスW杯の日本代表監督。元々は選手としてプレーした古河電工が母体となった市原のコーチを務めていたところ、加茂監督体制の発足にあたって監督に就任。当初岡田本人は市原でのコーチ業にやりがいを感じていたことから断る意向だったそうだが、自身にとっての恩師で上司である清雲栄純の説得もあって任を受けた。事態が大きく変わったのは1997年10月、予選敗退危機に陥った日本はカザフスタンの地で加茂監督を解任し、まさしく青天の霹靂で岡田コーチは岡田監督となった。当初はカザフスタン戦に続く連戦となったウズベキスタン戦の暫定監督としての就任だったが、ウズベキスタン戦がドローに終わりながらも一定の手応えはあった事と、このタイミングでいきなり外部の監督に指揮を委ねるリスクを踏まえて岡田体制の継続が決定。自身初の監督業は日本サッカー史上最も壮絶な1ヶ月の中で迎える事になった。
脅迫電話が鳴り止まない自宅を24時間体制でパトカーが警護し「半分気が狂いそう」「世の中全てが敵に見えた」と述懐するほどの極限状態ながら、システム変更や北澤豪や中山雅史らの代表復帰の策を講じ、プレーオフを含めた就任後の予選5試合を3勝2分で乗り切り見事に日本をW杯初出場へ導く。1勝1分1敗(勝点4)での決勝トーナメント進出を目標に掲げた本大会では3戦全敗という結果に終わった一方、守備の組織力に関しては一定の評価を受けた。未だに是非が語られ、未だに「カズ、三浦カズ」の映像が流れる三浦知良落選に関してはあらゆるシミュレーションを繰り返した結果、カズを出すべきシチュエーションになかなかならなかった事が大きかったとしており、監督として経験を積んでからであればどうしたかはわからないとした上で当時の、当時なりのベストを尽くした決断に後悔はないと語った。南アフリカの事まで語るとすると本当に長くなるのでそれはまた別の機会に…。
2022年カタールW杯に向けた予選で日本が苦境に陥った際、森保一監督が苛烈なバッシングに曝される中で試合解説を務める機会の多かった岡田は、森保監督へ励ましや労い、或いは擁護のメッセージを度々送っていた。これには予選を戦う代表チームの監督の苦しみを共有する数少ない人間としての想い、そしてフランスW杯の予選で自身が壮絶なバッシングを受けていた時、元代表監督の横山謙三氏にかけられた「お前のやりたいようにやれ。文句言うやつがいたら俺がやっつけてやる」という言葉が大きな救いになったという岡田自身の経験が影響しており「自分も森保にとってそういう存在でありたい」という想いがあったと語っている。
今年のJ3の監督陣すごいね…
ではでは(´∀`)