2022…
どーもこんばんは
さてさて、6月20日、この日何の日。
フランスW杯 日本代表vsクロアチアから25年です。
1998 FIFAワールドカップフランス大会といえば、日本代表が初めて出場したW杯でした。
当時はクロアチア代表も初出場でした。とはいえ、ユーゴスラビア代表としてW杯を始めとした国際経験も豊富だったクロアチアは最終的には3位まで上り詰める事に。日本は勝てるチャンスのない試合ではなかったものの、ここでも0-1で敗れてしまいました。その後、日本とクロアチアはW杯の舞台で2度戦う事に…。お互いにとって、これが第一歩だった訳ですね。
という訳で今回は引き続き、全4回に分けて「1998 FIFAワールドカップフランス大会 日本代表選手名鑑」を作っていきたいと思います。
フランスW杯にあと一歩で選ばれなかった選手ベストイレブンはこちら
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MF13 服部年宏
(ジュビロ磐田)
生年月日:1973年9月23日
フランスW杯での成績:0試合
過去の所属チーム:東海大学→ジュビロ磐田(1994-2006)→東京ヴェルディ(2007-2009)→ガイナーレ鳥取(2010-2011)→FC岐阜(2012-2013)
日本代表通算成績:44試合2得点(1996-2003)
☆アジアカップ1996,2000出場
中山雅史や名波浩らと共に黄金期のジュビロ磐田を語る上で欠かせない存在で、対人プレーの強さを見せつつカバーリングの堅実さ、フィードやミドルシュートの際に見せるキック精度の高さを持ち合わせた守備のオールラウンダーと呼ぶべき選手。磐田が完全優勝を果たした頃は主将も務めた。
アトランタ五輪組の一人で、マイアミの奇跡の際にも対人守備の面で大活躍して1-0での勝利に貢献。五輪代表と磐田での活躍が評価される形で代表にもコンスタントに招集され、予選の参加機会こそ少なかったが本大会のメンバーにも名を連ねた。本大会で出場機会は無かったものの、フランスW杯メンバーでは数少ないトルシエジャパンにも常時招集されていた一人であり、W杯初出場は日韓W杯の方で果たしている。磐田では主にボランチ起用だったが、代表では左CB・左SB・左WBがメイン。
磐田を退団後は東京Vで3シーズンプレーし、その後は鳥取と岐阜で2シーズンプレーして2013年に引退。引退後はすぐに磐田の強化部長に就いて監督・名波浩とタッグを組むと、退任後はヘッドコーチや監督代行を務めた。2022年には福島ユナイテッドFCの監督に就任。今季は沼津の監督に就任した中山雅史との対決にも注目が集まったが、初対戦は1-1のドローに終わっている。
FW14 岡野雅行
生年月日:1972年7月25日
出身地:神奈川県横浜市
フランスW杯での成績:1試合(途中1)
過去の所属チーム:日本大学→浦和レッドダイヤモンズ(1994-2001.9)→ヴィッセル神戸(2001.9-2003)→浦和レッドダイヤモンズ(2004-2008)→天水圍飛馬(2009.2-2009.6)→ガイナーレ鳥取(2009.7-2013)
日本代表通算成績:25試合2得点(1995-1999)
★アジアカップ1996出場
☆コンフェデ杯1995出場
フランスW杯に至るまでの物語のメインキャスト。「野人」の愛称で親しまれた快速FWのキャリアはジョホールバル以外のところでも波瀾万丈で、サッカー部すらなかった松江日本大学高校(現:立正大学淞南高校)ではサッカー部の立ち上げを岡野自身で行い、日本大学では夜は居酒屋でアルバイトをする生活の中でプロ予備軍と言っても過言では無かった筑波大学やジーコ擁する住友金属工業蹴球団相手に躍動して注目された。プロとしての殆どの期間を浦和で活躍し、Jのお荷物と呼ばれた時代から浦和が成り上がる過程を肌で知る選手の一人。
1995年から日本代表には常連組として招集されており、先発機会こそ多く無かったが、その快速は日本代表に於いて貴重なオプションとして重宝されていた。その最たる例がなんと言ってもジョホールバルの歓喜であり、それまで出場機会が無かった事や延長戦で決定機を外した際の話は今やすっかり岡野の鉄板トークになっている。ちなみに岡野が買い与えた歴史図鑑を読んだ娘が「パパが出てる」と言ったらしい。本大会でもジョーカー枠として選出されてクロアチア戦に途中出場したがインパクトは残せず、帰国後は中田英寿とフィジカルの差について話し合ったという。
現役終盤に6シーズン所属した鳥取で引退するとそのまま鳥取のGMに就任し、後に代表取締役兼GMとなった。様々な企画を積極的に打つ他、知名度を活かしてスポンサーへの挨拶回りや交渉は自ら率先して行なっている。トーク技術には定評があり、様々なバラエティや元サッカー選手のYouTubeにも積極的に出演。なお、高校時代のエピソードは鈴木おさむの脚本で2017年に岡野役を竜星涼が演じる形でドラマ化されている。
MF15 森島寛晃
(セレッソ大阪)
生年月日:1972年4月30日
フランスW杯での成績:1試合(途中1)
過去の所属チーム:東海大学第一高校→セレッソ大阪(1991※-2008)
日本代表通算成績:64試合12得点(1995-2002)
※C大阪前身のヤンマーディーゼルサッカー部時代を含む
☆アジアカップ1996,2000出場
前身のヤンマー時代から引退までセレッソ一筋でプレーしたミスターセレッソ。通算得点数はヤンマー時代から合わせて実に140得点を記録しているセレッソは"背番号8"をエースナンバーと定めてクラブを象徴する選手が背負う伝統が根付いているが、それは背番号8を森島がずっと背負っていた事が由来である。
代表では加茂監督体制ではレギュラーの時期もあったが、中田英寿の台頭以降はジョーカー枠としての選出が多かった。本大会でもそういう役割を期待されて選出されてクロアチア戦に出場したが、クロアチア戦では投入準備中に日本が失点を喫した事で、プレッシャーの意味合いが一気に変わったというような事を本人は語っている。その後、森島はトルシエジャパンにも常連招集されており、フランスW杯のリベンジも期して挑んだ日韓W杯では自身のホームである長居スタジアムで決勝トーナメント進出を決めるゴールを挙げる最高の結果を残した。
現役引退後もアンバサダーとしてセレッソに残留。各種イベントへの参加やチーム編成・スカウティングにも携わりながら、2018年12月にセレッソの代表取締役社長に就任した。現役時代は「日本一腰の低いJリーガー」とも言われ、社長となった現在も現役時代同様のハードワークを見せる。
DF16 斉藤俊秀
(清水エスパルス)
生年月日:1973年4月20日
フランスW杯での成績:0試合
過去の所属チーム:早稲田大学→清水エスパルス(1996-2006)→湘南ベルマーレ(2007-2008)→藤枝MYFC(2009-2013)
日本代表通算成績:17試合0得点(1996-1999)
★アジアカップ1996出場
サッカー王国・静岡で育った清水エスパルスのレジェンドCB。高校と大学での実績を提げて1996年にプロデビューを果たすと、名波浩と共に同年から創設されたナビスコ杯のニューヒーロー賞の初代受賞者となる。当時黄金期を迎えた清水の守備を森岡隆三らと支え、1999年にはベストイレブンにも選ばれた。当時は東海リーグ及びJFLだった藤枝MYFCでは引退する2013年まで選手兼監督を務めていた。
ルーキーイヤーの1996年から代表に招集されており、出場機会は必ずしも多くなかったが、読みとカバーリングに長けたプレースタイルから井原正巳の後継者にして貴重な控えとして常時招集を受けており、実際に最終予選でも井原が出場停止となったUAE戦では先発だった。本大会でも出場機会は無かったがメンバーに選ばれている。
引退後は各年代のチームのコーチを歴任した後、森保一監督体制ではフル代表のコーチに就任。冨安健洋のヘディング開眼に一役買ったり、分業制だった森保ジャパンでは主に守備設計を担当しカタールW杯ベスト16に貢献した。なお、日本代表としてW杯に出場した選手がコーチとしてW杯に参加したのは斉藤が初めてとなっている。横内昭展や上野優作がJクラブの監督就任に伴いコーチを退任する中、斉藤は第2次森保ジャパンでも留任している。
DF17 秋田豊
(鹿島アントラーズ)
生年月日:1970年8月6日
出身地:愛知県名古屋市
フランスW杯での成績:3試合(先発3)
過去の所属チーム:愛知学院大学→鹿島アントラーズ(1993-2003)→名古屋グランパスエイト(2004-2006)→京都サンガFC(2007)
日本代表通算成績:44試合4得点(1995-2003)
☆アジアカップ1996出場
★コンフェデ杯2003出場
日本サッカー史上でも屈指のヘディングの強さを誇るCB。Jリーグに於いて数々のタイトルを獲得した鹿島史上最高のCBとして君臨し、同じく黄金期を迎えていた磐田の中山雅史との対決は多くの注目を集めていた。秋田が鹿島で背負った背番号3は鹿島のCBは後に岩政大樹や昌子源が背負うなど、鹿島にとってDFリーダーが背負う番号として認識されている。2004年からは自身の出身地である名古屋でプレーし、2007年に移籍した京都で引退。秋田の現役ラストゲームは京都がJ1復帰を決める試合ともなった。
日本代表では比較的控えのCBとして呼ばれる事が多かったが、加茂監督が3バックにシステムを変えてからはレギュラーに定着。その後岡田監督が4バックに戻した時には2CBのレギュラーにも収まっていた。空中戦の強さを活かした得点力も魅力で、本大会でも全試合にフル出場。バティストゥータやシューケルと言った世界屈指のFWと対峙し、一定の手応えを掴める働きは披露した。トルシエジャパンでは多くのフランスW杯メンバーと同様に1999年のコパアメリカを機に代表から遠のいたが、秋田に関しては最後の最後で日韓W杯のメンバーに選出されている。
引退後はそのまま京都のコーチに就任し、2010年途中から監督に就任。京都と町田では監督として結果は残せなかったが、2020年から就任した岩手では京都時代の教え子も積極的に補強しながら悲願のJ2昇格を達成。J3優秀監督賞も受賞した。監督退任後は岩手の代表取締役社長に就任。このニュースは驚きをもって報じられたが、元々監督業の傍らトレーニング機器の販売を手掛ける会社の社長を務めていたので社長業の経験は持っていた。
FW18 城彰二
(横浜マリノス)
生年月日:1975年6月17日
フランスW杯での成績:3試合(先発3)
過去の所属チーム:鹿児島実業高校→ジェフユナイテッド市原(1994-1996)→横浜F・マリノス(1997-1999)→レアル・バジャドリード(2000.1-2000.7)→横浜F・マリノス(2000.7-2001)→ヴィッセル神戸(2002)→横浜FC(2003-2006)
日本代表通算成績:35試合7得点(1995-2001)
★アジアカップ1996出場
☆1996年アトランタ五輪出場
1994年に高卒ルーキー1年目ながら12得点を挙げ、早くからスターダムにのし上がった大型FW。市原では若くしてエース格の役割を担い、1997年に移籍したマリノスでは1998年には25得点を叩き出した。W杯後に挑戦したスペイン移籍後は怪我の影響もあって若干早熟的なキャリアを歩む事となってしまったが、それでも現役最終年もJ2で43試合12得点の結果を残し、横浜FC発のJ1昇格と共に有終の美を飾って現役を終えている。
アトランタ五輪でもエースFWとして活躍しており、フル代表でも22歳にしてレギュラーを務めるようになった。呂比須が帰化して中山が復帰してからはベンチスタートも多くなったが、ジョホールバルの歓喜では同点ゴールを叩き出す活躍を見せて本大会にも順当に選出。それどころか、岡田監督は三浦を外した上で「城をFWの軸として考えている」と公言し、エースとしての役割が着せられる事となった。ただ本人のプレッシャー相当なもので、試合中に医療用のガムを噛まなければならないほどの不眠や吐き気に襲われていたという。パフォーマンスも低調に終わった事で帰国後に空港で水をかけられたのは有名なエピソードとなったが、本人は「代表エースとしての重圧に触れられた事」を貴重な体験として挙げた。なお、帰国後に三浦からは労いと激励の電話を受けたとの事。
引退後は日本テレビ系列の解説者として日テレ中継の日本代表戦やクラブW杯、高校サッカーなどの解説を担当。YouTubeチャンネルも開設しており、自身のキャリアを振り返る企画では秘話も満載で評判が良い一方、森保ジャパンへの論評は物議を醸す事が多い。なお、城が移籍した当時はスペインでプレーする日本人選手は非常に珍しかったので、当時バルセロナに所属しており、和食レストランを経営していることでも知られるルイス・フィーゴには対戦時に「うちの寿司屋に来てくれ」と言われたらしい。微妙だったそう。
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記録上は2分け
ではでは(´∀`)