当時4歳。
どーもこんばんは
さてさて、2001年6月10日……日本サッカーの歴史に一つの「史上初」が刻まれました。自国開催として行われたFIFAコンフェデレーションズカップ…フィリップ・トルシエ監督率いる日本代表はこの大会で決勝まで進出し、A代表としてFIFA主催の世界大会で初めての決勝戦をフランスと戦ったのです。
結果としては当時世界最強と言われたフランスに敗れて準優勝となり、そもそも各国間でのコンフェデに対する温度差には差があったとはいえ、国際大会で準優勝を果たした、決勝まで行ったという歴史の持つ意味は大きく、今でも日本サッカーの歴史に燦々と輝いています。
今日、2021年6月10日……そんなコンフェデ杯の決勝から20年です。
今回は歴史を作った当時の代表チームと大会や歩み、そして翌年の日韓W杯に繋がる、自国開催でフィーバーの中で開催されたコンフェデ2001を振り返っていきましょう。
FIFAコンフェデレーションズカップ2001日韓大会
グループA
韓国
フランス
メキシコ
オーストラリア
グループB
日本
ブラジル
カナダ
開催会場
大会概要
コンフェデ杯が「W杯前年にW杯開催国でのプレ大会として行われる」という定義が正式に定まったのは2005年のドイツ大会からだが、実質的にはW杯のプレ大会として行われた最初のコンフェデ杯である。
ただしこの大会は国際Aマッチデーとして設定されていなかった為にオーストラリアとメキシコは主力をほとんど呼べておらず、ブラジルに至っては実質的なB代表に近い顔触れといえた。その一方、当時は開催国だけでなく前回のW杯王者は予選が免除されていた事もあって、それに該当するフランスは「貴重な公式戦の機会」として主要メンバーをほぼ揃えていた。また、日韓両国は勿論の事、カメルーンとカナダもベストメンバーを揃えている。ちなみにブラジルを率いたエメルソン・レオン監督、カナダを率いたホルガー・オジェック監督は前者は清水エスパルス、後者は浦和レッドダイヤモンズでの監督経験があったので凱旋大会でもあった。
グループAは波乱の多い展開となった。ジネディーヌ・ジダンこそ欠場したものの、それでもパトリック・ヴィエラやマルセル・デサイーを揃え、そして当時フランスW杯とEURO2000を制覇した黄金期のフランスは開幕戦こそ韓国に勝利したが、続くオーストラリア戦でまさかの黒星。最終的にはフランス、オーストラリア、そしてフース・ヒディンク監督体制で最初の公式戦となった韓国の3チームが勝点6で並んだが、韓国は開幕戦でフランスに0-5で敗れた事が響いて得失点差で敗退している。対するグループBはカナダとカメルーンに連勝した日本が勝点7、ブラジルが勝点5を積み、A組と比べるとスッと決勝トーナメント進出チームが確定した。
ベスト4では日本もフランスもそれぞれ1点差で勝利。決勝ではダークホースかつ開催国の日本、絶対的優勝候補本命のフランスの対決となったが、そこはフランスが力の差を見せて優勝を飾った。フランスはこれにより、1998年フランスW杯、EURO2000、そしてコンフェデ杯も制してその座は揺るがない…そう誰もが思った。誰もが翌年の日韓W杯の本命だと信じて疑わなかったが……。
コンフェデレーションズカップ2001日本代表
監督:フィリップ・トルシエ
登録メンバー
MF10 三浦淳宏(東京ヴェルディ1969)
GK12 楢崎正剛(名古屋グランパスエイト)
MF21 小野伸二(浦和レッドダイヤモンズ)
FIFAコンフェデレーションズカップ2001日韓大会グループA第1戦
日本3-0カナダ
2001年5月31日19:30@新潟スタジアム
日本得点者:小野伸二(57分)、西澤明訓(60分)、森島寛晃(88分)
そもそもコンフェデに至るまでのトルシエジャパンは激動の中にいた。3月のフランス戦では俗に「サンドニの悲劇」と呼ばれる惨敗を喫し、4月のスペイン戦では守備とのバランスを大きく調整した。そしてコンフェデ杯自体、最初に発表したメンバーから4人も入れ替わっている。かなりドタバタの中の開幕だった。例えば戸田は代表デビュー戦がいきなり公式戦での先発出場となったのはそれも影響しているのだが、戸田はここから一気にレギュラーに定着する事となる。
蓋を開けてみればカナダとの初戦は快勝。新潟がフィーバー状態になっていた地の利も味方し、前半こそ後手に回ったものの後半に一挙3ゴールを挙げて勝利を収める。特に小野の直接FKによってもたらされた先制点の場面では「(FKの際に隣にいた)中田英寿とどちらが蹴るのかをどうやって決めたのか」という質問に小野本人が「口ジャンケン」と答えたエピソードは有名。小野はグーで勝ったらしい。
FIFAコンフェデレーションズカップ2001日韓大会グループA第2戦
カメルーン0-2日本
2001年6月2日19:30@新潟スタジアム
日本得点者:鈴木隆行(8分、65分)
前述の通り、この大会はメンバー発表後に離脱者が続出した。追加招集の際、FW柳沢敦とFW高原直泰が離脱した時は山下と久保とFW2人が招集され、MF奥大介の離脱では同じく中盤の藤田が追加招集。しかし衝撃だったのがDF中澤佑二の代わりとして呼ばれたのがFWの鈴木だった。この時点で鈴木の代表招集は直前のスペイン遠征のみで出場時間もそれほどない。そもそも、基本的に追加招集の可能性がある選手にはクラブに一応伝えておく観衆があるが、鈴木の際はそれも無かったらしい。それだけに勝てば決勝トーナメント進出が決まる試合で先発に抜擢されたのはチーム内でも衝撃が走ったという。しかし結果的には2点も決めて一躍ポジション争いに食い込んでしまった。この試合がなければベルギー戦の伝説の一発は絶対に無かった訳で、戸田しかり運命とタイミングとは恐ろしいというかなんというか…。
ちなみにカメルーンの2トップはG大阪での活躍で日本では特にスターだったパトリック・エムボマ、当時は有力な若手の一人だったサミュエル・エトーという垂涎もの2トップ。
FIFAコンフェデレーションズカップ2001日韓大会グループA第3戦
ブラジル0-0日本
2001年6月4日19:30@茨城県立カシマサッカースタジアム
カメルーン戦の勝利で既に決勝トーナメント進出は確定した為、日本にとっては消化試合に。その為、メンバーは大幅に変更され、この時点で全試合に先発していたのは中田英寿と小野だけとなった。
当時の代表レギュラークラスをほぼ呼べず、国内組中心となったブラジルとの試合は結局最後までスコアは動かず0-0。だが、ブラジル代表が鹿島で試合を行う事自体に邂逅的なものは感じるし、ブラジルの当時の監督、エメルソン・レオンと伊東輝悦は師弟関係でもあった。加えて、この試合に出場したワシントンとマグノ・アウベスは後にJリーグに参戦し、得点王も獲得するなど何かと巡り合わせの多い試合とも言える。
FIFAコンフェデレーションズカップ2001日韓大会グループ準決勝
日本1-0オーストラリア
2001年6月7日19:30@横浜国際総合競技場
日本得点者:中田英寿(43分)
日本代表…というより中田英寿伝説の試合の一つ。中田英寿というプレーヤーの日本代表での軌跡を語る時、間違いなく映像が使われる試合であろう。
中田は当時ローマに所属していた。セリエAで首位を走るローマの中で、中田はレギュラーではなかったが、ユベントス戦での活躍もありスーパーサブ的な位置を得つつあった。だがセリエAはシーズン終盤戦の真っ只中で、JFAとの相談の末に「グループステージの3試合のみ」という条件で中田の招集に成功。この準決勝はその契約を1試合延長して挑んだものだった。
当日の横浜国際総合競技場(現:日産スタジアム)は集中豪雨の影響で中継のカメラはもちろん、ピッチの中からも周囲を確認しにくく、そもそも稲本が「目を開けていられなかった」というほどの雨だったが、前半終了間際に中田が放ったグラウンダーの直接FK、その後のガッツポーズは日本を決勝に導いた事、そして中田自身は決勝には出られなかった事も相まって伝説の一撃とされている。
FIFAコンフェデレーションズカップ2001日韓大会グループ決勝
日本0-1フランス
2001年6月10日19:30@横浜国際総合競技場
フランス得点者:パトリック・ヴィエラ(30分)
中田英寿がイタリアに帰った事で、日本はスペイン戦で採用した3ボランチにシフト。今風に言うと3-3-2-2が近いのだが、森島がトップ下に近い位置に入る事で3-5-1-1とも言える布陣になった。
だがやはり、ほぼベストメンバーを揃えたフランスの猛威は日本に牙を剥き続ける。今もフランスは黄金期を迎えているが、日本のレベルで比較すると互角に渡り合う事は今現在と比べても困難だった。それでも守備陣は集中してフランスの攻撃に耐えていただけに、やや事故的に喫した30分の失点は非常に悔やまれる。最終的にはこの一発が決勝点のとなり試合終了。A代表の世界大会で勝ち進んだ初の決勝の舞台はほろ苦い結果で終わった。だが20年前の今日のこの日が日本サッカーにとって重要な意味をもたらしたのは言うまでも無い。
コンフェデも無くなっちゃったね…。
ではでは(´∀`)