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【六月の勝利の歌から20年】2002日韓W杯日本代表メンバー23名のW杯での軌跡と現在を選手名鑑的に作ってみた【Vol.4】

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日韓W杯から20年経ちましたので、当ブログでは只今……只今というか、6月の月間企画的な感じですね。色々あれこれ2002FIFAワールドカップを振り返っております。

 

 

その歴史的な20周年を記念致しまして、日韓ワールドカップを戦ったメンバーの紹介というか、日韓W杯を中心としたその選手のキャリア、そして現在何をしてらっしゃるか的な事を名鑑みたいな感じでまとめていきたいな…と思い、当時の23名のメンバーを振り返っていましたが、いよいよ本日の第4回でラストです!

前回までの記事も下記にリンクを置いておりますので、そちらから是非!

 

 

vol.1

vol.2

vol.3

vol.4

 

 

オリジナルアルバム出してみました!聴いてみてくださいませ。

 

 

 

MF19 小笠原満男

 

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生年月日:1979年4月5日

日韓W杯での成績:1試合0得点

日韓W杯時の所属チーム:鹿島アントラーズ

過去の所属チーム:大船渡高校→鹿島アントラーズ(1998〜2006.8)→FCメッシーナ(06-07)→鹿島アントラーズ(2007.7〜2018)

日本代表通算成績:55試合7得点(2002〜2010)

★2006年ドイツW杯出場

アジアカップ2004出場

コンフェデ杯2003、2005出場

 

小野伸二稲本潤一と共に黄金世代の一員として、トルシエ率いるU-20ワールドユースの準優勝に大きく貢献。キャリア後半は老練なボランチの印象が強いが、当時はトップ下のプレーメーカーだった。しかしその後はトルシエの構想から外れて、A代表デビューはおろかシドニー五輪のチームにもその後あまり関れらなくなっていたが、クラブでの活躍もあり中田英寿の控えのプレーメーカーとしてW杯2ヶ月前の2002年に代表デビュー。そのまま一気にW杯メンバーに滑り込み、チュニジア戦では僅かな時間ながら途中出場を果たしている。代表キャリアに限れば後のジーコジャパン期の方が印象に強く、ドイツW杯では2試合に先発した。

鹿島ではクラブの象徴的な選手として長年に渡ってプレーし、鹿島では17個ものタイトル獲得に貢献。ちゃんと調べた事は無いが同期入団の曽ヶ端と共にJリーガーとして最多だろう。2000年の天皇杯決勝と2001年のチャンピオンシップでは優勝決定Vゴールを叩き込み、2009年には前年9月にに全治10ヶ月の怪我を負いながらも開幕に間に合わせてMVPを受賞。2018年に鹿島にも自身にも唯一足りなかったACL優勝を果たして引退し、昌子源には「タイトル1番似合う人」と称されている。

引退後は鹿島のアカデミーに入り、現在はテクニカル・アドバイザーに就任。クラブが主催するイベントにも顔を出しながら、ユースの監督を務める柳沢敦と共に鹿島の育成の肝を担っている。

 

 

 

MF20 明神智和

 

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生年月日:1978年1月24日

日韓W杯での成績:3試合0得点(先発3)

日韓W杯時の所属チーム:柏レイソル

過去の所属チーム:柏レイソルユース柏レイソル(1996〜2005)→ガンバ大阪(2006〜2015)→名古屋グランパス(2016)→AC長野パルセイロ(2017〜2019)

日本代表通算成績:26試合3得点(2000〜2003)

アジアカップ2000出場

☆コンフェデ杯2001、2003出場

★2000年シドニー五輪出場

 

「完璧なチームとは8人の明神と3人のクレイジーで構成される」という有名な言葉が物語るようにトルシエが最も信頼を寄せていた選手の一人として知られ、五輪代表でもA代表でも中心選手として活躍。2000年以降、トルシエ体制でのほぼ全ての代表活動に参加した。本職はボランチだが代表では右WBでの起用が多く、そして左WBには小野三都主中村俊輔らが入ることが多かったので、左右非対称な配置のバランスを取る為にも必要不可欠な存在として君臨。W杯ではベルギー戦こそ市川に先発の座を譲ったが、その後の3試合はいずれもフル出場を果たし、ベスト16進出の立役者となった。

柏でもガンバでもキャプテンを務めた経歴を持っているなどクラブレベルでも多くの実績を残しており、10シーズン過ごしたクラブが2つある選手もおそらく稀だろう。柏では1999年のナビスコ杯制覇や2000年の年間勝点1位になったチームを牽引し、当時の柏の監督を務めた西野朗が率いるガンバに2006年に移籍するとACLや三冠達成など多くのタイトルを獲得に貢献。特にガンバでは遠藤保仁橋本英郎二川孝広明神智和の4人から成るMF陣が「黄金の中盤」と称された。

ガンバ退団後は名古屋、長野を経て2019年に引退。現在はドイツW杯に出場した大黒将志と共にガンバユースのコーチを務めているが、教え子の中には遠藤保仁加地亮山口智などかつての同僚の息子もいる。ちなみにイメージ的には高体連バリバリ感があるが、自身は元々柏ユースの出身。

 

 

MF21 戸田和幸

 

生年月日:1977年12月30日

日韓W杯での成績:4試合0得点(先発4)

日韓W杯時の所属チーム:清水エスパルス

過去の所属チーム:桐蔭学園高校清水エスパルス(1996〜2002)→トッテナム・ホットスパー(2003.1〜2003.12)→ADOデンハーグ(2004.1〜2004.7)→清水エスパルス(2004.7〜2004.12)→東京ヴェルディ1969(2005)→サンフレッチェ広島(2006〜2008.6)→ジェフユナイテッド千葉(2008.6〜2008.12)→慶南FC(2009)→ザスパ草津(2010〜2011)→FC町田ゼルビア(2012)→ウォリアーズFC(2013)

日本代表通算成績:20試合1得点(2001〜2002)

★2001年コンフェデ杯出場

 

ベスト16進出の立役者かつ、W杯で飛躍的に知名度を高めた選手の一人。サンドニの悲劇により守備の再建が急務になった2001年、いきなりコンフェデ杯の初戦にて代表デビュー。五輪代表の予選は参加していただけに同世代けら少し遅れての代表デビューとなったが、同大会の準優勝に大きく貢献した事で一気にレギュラーに定着した。W杯では稲本潤一小野伸二が攻撃に重きを置く分、明神と共に中盤の広大なスペースで圧倒的な活躍を披露。中田英寿はチームのMVPとして柳沢敦と並んで名前を挙げており、稲本もメディアで度々その貢献に称賛と感謝の意を述べている。そして何より、W杯で衝撃を与えた赤モヒカンは宮本恒靖バットマンと共に日本代表のアイコンだった。

2年目から出場機会を得た清水では、99年のステージ制覇などの黄金期を不動のレギュラーとして支えた。ただし、当時はバックの一角としてCBで起用されており、実際に五輪代表時代はCBで招集されている。ボランチにコンバートされたのは2001年で、最初は戸田本人も断ったそうだが、結果的にそれが代表デビューと日韓W杯にも繋がった。W杯での活躍が評価され、2003年にはプレミアリーグにも挑戦している。

引退後はDAZNWOWOW、TBS系列を中心に解説を務めているが、入念なリサーチと分析からなる理知的な解説は多くのファンに支持されており、それの深掘り版とも言えるYouTubeも人気。スポーツナビが実施した人気解説者投票では1位に輝いた。他方、一橋大学サッカー部監督を経て渋谷シティFCのテクニカルダイレクターも務めている。

 

 

 

DF22 市川大祐

 

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生年月日:1980年5月14日

日韓W杯での成績:3試合0得点1アシスト(先発1)

日韓W杯時の所属チーム:清水エスパルス

過去の所属チーム:清水エスパルスユース清水エスパルス(1998〜2010)→ヴァンフォーレ甲府(2011)→水戸ホーリーホック(2012)→藤枝MYFC(2013〜2014)→FC今治(2015)→ヴァンラーレ八戸(2016)

日本代表通算成績:10試合0得点(1998〜2003)

 

「市川、カズ、三浦カズ、それから北澤」の市川。フランスW杯出場を決めた岡田ジャパンで現役高校生ながら代表デビューを果たし、フランスW杯メンバーの最終候補にも名を連ねた。17歳322日での代表デビューは今なお日本代表の最年少出場記録であり、当然ながらシドニー五輪を含めた2002年を目指すチームの中心選手として期待されていた。しかし1999年にオーバートレーニング症候群を発症した事でワールドユース五輪も逃してしまう。それでも2002年には何とか間に合わせてW杯メンバー入り。ベルギー戦では先発を飾り、チュニジア戦は途中出場で中田英寿のゴールをアシストした。日韓W杯では最年少メンバーだった事もあったのか、W杯のドキュメンタリー(六月の勝利の歌を忘れない)ではトルシエとの様々なやりとりも見られる。

清水ではユースから飛び級昇格を果たした1998年からレギュラーで出場。特に左のアレックス(後の三都主)、右の市川という両WBの破壊力は黄金期を築いた当時の清水のストロングポイントで、トルシエは両WBに小野伸二や明神などを起用する傾向がある中で、サイドプレーヤーとしてW杯メンバーに入ったのも市川と三都主のみだった。W杯後は怪我にも苦しめられたが、長谷川健太監督体制では不動の右SBとして活躍。

清水退団後は甲府、水戸、藤枝、今治を経て八戸で2016年に引退。引退後は自身を育てた清水のアカデミーに戻り、2021年からはU-15の監督を務めて後進の育成に当たっている。

 

 

 

GK23 曽ヶ端準

 

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生年月日:1979年8月2日

日韓W杯での成績:0試合0失点

日韓W杯時の所属チーム:鹿島アントラーズ

過去の所属チーム:鹿島アントラーズユース鹿島アントラーズ(1998〜2020)

日本代表通算成績:4試合0得点(2001〜2003)

★2004年アテネ五輪出場

 

トルシエ率いる代表チームでは特に世代別代表では常に招集を受けていながら、いわゆる黄金世代のワールドユース、更に楢﨑オーバーエイジで参加したシドニー五輪と2つの国際大会で続けてバックアップメンバーという悔しい待遇も受けたが、ワールドユースで正GKだった南雄太五輪でメンバー入りした都築龍太らを振り切り、川口能活楢崎正剛が君臨するGK陣最後の一枠に滑り込んだ。トルシエは曽ヶ端のポテンシャルを高く評価しており、最終的には楢﨑を選んだが、ベルギー戦で曽ヶ端を先発に据える構想もあったらしい。ドキュメンタリーでも秋田森岡楢崎に曽ヶ端を加えた4人が「アゴカルテット」と呼ばれるなど、イジられキャラ的に結構出てくる。後のアテネ五輪では小野と共にオーバーエイジで出場した。

元々鹿島サポーターでありユースに所属。高札組の中田浩二小笠原満男本山雅志らと同じ1998年に入団すると、出番が飛躍的に増えた2001年は鹿島のリーグ優勝に大きく貢献。長きに渡って鹿島の守護神を務め、2007年から2014年まで244試合連続フル出場という数字が物語るように小笠原と共に数多のタイトル獲得をそのピッチで経験してきた。2016年クラブW杯決勝でもレアル・マドリード相手に圧巻のパフォーマンスを見せている。

鹿島一筋23年という圧巻のキャリアを誇った曽ヶ端は2020年シーズンをもって引退。引退後は鹿島のGKアシスタントコーチとしてトップチームスタッフに名前を連ねている。

 

 

 

監督 フィリップ・トルシエ

 

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生年月日:1955年3月21日

日韓W杯での成績:ベスト16(2勝1分1敗)

過去に率いたチーム:コートジボワール代表、ナイジェリア代表、ブルキナファソ代表、南アフリカ代表、オリンピック・マルセイユ、U-19ベトナム代表など

 

開催国として決勝トーナメント進出を至上命題とされている日本が最初に招聘を試みたのはアーセン・ベンゲルだったが、ベンゲルから推薦されたのがアフリカで「白い呪術師」と称されたトルシエだった。

通訳のフローラン・ダバディ氏は「トルシエの言葉を直訳するな」と厳命されたエピソードに代表されるように、口が常軌を逸したエキセントリックな言動・行動のエピソードは例を挙げればキリがなく、その指導法には賛否両論があるどころか多くの選手が「今の時代ならアウト」とも語るほどだが、フランスW杯で現実を見せつけられた日本サッカーの流れを加速させたのがトルシエであるのは間違いなく、多くの選手が「当時の日本に合っていた」と語っている。異例のアンダー世代も含めた指揮権を託され、黄金世代とも称されたワールドユースでの準優勝、シドニー五輪での28年ぶりの決勝トーナメント進出、コンフェデ杯の準優勝、そしてW杯…日本はあらゆる「初◯◯」をトルシエ体制で経てきた。

「フラットスリー」と呼ばれる3バック戦術は彼のトレードマークでもあり、左WBに小野伸二中村俊輔のような攻撃的MF、右WBに明神智和伊東輝悦のようなボランチを配置する左右非対称的な選手起用も特徴的だった。また、日韓W杯のドキュメンタリーではニッコニコで選手にプールに突き落とされるフランクな面や、試合後のミーティングで怒りすぎた事を少し省みる葛藤のような部分も収録されていた。U-20代表のキャンプをあえて環境面が劣悪なブルキナファソで行った際のエピソードを当時のメンバーが今も印象的な逸話として語っており、W杯本戦で秋田豊中山雅史を招集した事に代表されるマネジメント術も持ち合わせていて、特に試合前のスピーチ能力の高さは通訳のダバディ氏や当時の山本昌邦コーチらも称賛している。トルコ戦での采配は今も少なからず批判があり、当時の選手も少なからず動揺したとは言うが、それでもトルシエとの4年間の冒険は最終的に成功と呼べる期間だった。

W杯後は、最終的に就任は実現しなかったがフランス代表監督の最終候補にも残っており、マルセイユの監督に就任した際には中田浩二を獲得した。2008年にFC琉球の総監督として再び日本で仕事をして以降は中国やベトナムなどアジアを中心に活動しており、2014年からは自身でワインブランド「ソルベニ3-4-3」を立ち上げている。

現在でも日本代表の試合はチェックしており、交流のある記者を通じて試合毎にインタビューも掲載されている。記事曰く、フランスのクラブに守田英正を紹介したらしい。2020年には日本サッカー殿堂入りを果たし、2022年6月の日本vsブラジル戦前に行われた日韓W杯20周年記念式典にて授賞式が行われた。

 

 

 

選手名鑑完結!W杯関連企画はまだまだ更新していきます!

 

 

なかたがとぶーぞなかたがとぶーぞ♪

ではでは(´∀`)