阪神タイガース漢字ドリルは草生える
どーもこんばんは
さて、今回は以前のワールドユース企画の続編です。
1999年4月5日に開幕し、1999年4月24日に日本が初めて世界大会の決勝を戦った伝説のワールドユースから20年…今年には多くの選手がアラフォーに突入する、79年組黄金世代と呼ばれた彼らのその後と現在を見ていく当企画。
初戦のカメルーン戦に敗れたものの、アメリカ相手に見事な勝利を収めた1999年4月8日からちょうど20年の今日は前回の続きで背番号10番からです。
前編のみならず、試合結果や出場選手をまとめた以前のブログも併せてご覧下さい。それではスタート。
1999年ワールドユースナイジェリア大会登録メンバー(18人+バックアップメンバー1人)
登録メンバー(18人)
MF7 酒井友之(ジェフユナイテッド市原)
監督 フィリップ・トルシエ
コーチ 山本昌邦
コーチ サミア
MF10 本山雅志
アジア杯(2004)
コンフェデ杯(2005)
五輪(2000)
日本代表28試合0得点(2000〜2006)
小野伸二と共にこの大会のベストイレブンに選ばれたファンタジスタは翌年にはシドニー五輪に出場。2000年、2001年と鹿島の連覇にはスーパーサブとして貢献し、2002年からは鹿島でも背番号10を受け継いだ。長年に渡って鹿島の攻撃の要として、2007〜2009年の3連覇にも大きく貢献したが、A代表に関してはトルシエからもジーコからも高い評価を受けていたものの、同じポジションが激戦区だった為に日韓W杯、ドイツW杯の出場は共に逃している。
鹿島退団後の2016年からは地元のギラヴァンツ北九州に加入。今季も現役としてチームのJ2昇格を目指す。
MF11 遠藤保仁
(鹿児島実業高校→横浜フリューゲルス→京都パープルサンガ→ガンバ大阪)
日本代表152試合15得点(2002〜2015)
JリーグMVP(2014)
Jリーグベストイレブン(2003〜2012、2014〜2015)
日本年間最優秀選手賞(2008、2014)
アジア年間最優秀選手賞(2009)
Jクロニクルベスト(2013)
シドニー五輪では予備登録メンバーに甘んじ、A代表デビューも小野伸二や稲本潤一など黄金世代の活躍が目立った2002年日韓W杯後になるなど、黄金世代の中では比較的遅咲きのキャリアだったが、G大阪が強豪に育つ過程の中心に君臨し、2003年頃から日本代表にも欠かせない存在となって黄金世代のみならず近年のJリーグで最も成功した選手の中の1人に数えられるようになった。その存在の大きさは、G大阪のみならず日本代表でも「遠藤の後継者問題」がしきりに語られるほど。国際Aマッチ出場152試合は歴代最多であり、アジア最優秀選手賞受賞、史上初の20年連続開幕スタメン、21シーズン連続ゴールなど様々な記録を持つ。2度のリーグ優勝にACL優勝を成し遂げ、2010年南アフリカW杯でデンマーク戦で直接FKを見事に決めた。
黄金世代の面々も引退などの選択をする選手が増えていく中、今季も遠藤はJ1の舞台でレギュラーとして、戦術的キーマンとして、そしてかつてクラブでも代表でも共に戦った宮本恒靖監督と共にGAMBAISMの復活を目指す。
MF12 中田浩二
(帝京高校→鹿島アントラーズ→オリンピック・マルセイユ→FCバーゼル→鹿島アントラーズ)
アジア杯(2004)
五輪(2000)
日本代表57試合2得点(2000〜2007)
Jリーグ功労選手賞(2015)
鹿島では同期入団でワールドユースでも共に戦った小笠原満男、曽ヶ端準、本山雅志と共に多くのタイトル獲得に貢献し、ヨーロッパでもスイスの強豪、バーゼルでは複数タイトル獲得にレギュラーとして貢献するなど活躍した。「フラット3の申し子」と呼ばれるほどトルシエジャパンでは最もコンスタントに試合に出場し続けた選手の1人で、2002年日韓W杯では4試合全てにフル出場。ジーコジャパンでは出場機会こそ減ったものの招集はされ続け、アジアカップでは準決勝、決勝の2試合連続でゴールを挙げた。
現在は鹿島のクラブスタッフとして勤務する他、やべっちFCの隔週レギュラーとなるなど、テレビ朝日を中心に解説として活動しており、テレ朝中継の代表戦ではピッチ解説を務める。
MF13 小野伸二
(清水商業高校→浦和レッドダイヤモンズ→フェイエノールト→浦和レッドダイヤモンズ→VfLボーフム→清水エスパルス→WSW→北海道コンサドーレ札幌)
アジア杯(2000)
コンフェデ杯(2001)
五輪(2004OA)
日本代表56試合6得点(1998〜2006、2008)
アジア年間最優秀選手賞(2002)
この大会の時点でW杯出場経験のあった言わずと知れた「日本サッカー史上最高の天才」。この大会の3ヶ月後の大怪我の影響が今現在まで続く事になり、今尚「あの怪我が無ければ…」とよく言われているが、そんな怪我を負っても偉大なキャリアを積んでしまっている辺り小野のえげつなさが良くわかる。日本代表でも2002年日韓W杯では全4試合に出場し鈴木隆行の伝説的なゴールをアシスト。欧州でもフェイエノールトでUEFAカップを制するなどUEFA主催大会優勝経験のある唯一の日本人選手で、元オランダ代表のスナイデル、ファン・ペルシーといった選手は小野を絶賛するコメントを残している。
オーストラリアで大活躍をした後、2014年途中から札幌に加入。今季もJ1の舞台でプレーし、近年躍進するチームを内外で支えている。
FW14 永井雄一郎
(三菱養和ユース→浦和レッドダイヤモンズ→カールスルーエSC→浦和レッドダイヤモンズ→清水エスパルス→横浜FC→アルテリーヴォ和歌山→ザスパクサツ群馬→FIFTY CLUB)
日本代表4試合1得点(2003)
唯一の海外組、そして唯一の前回大会出場者として大会では高原とツートップを組んだ。長らく浦和で主力としてプレーし、二桁ゴールこそJ2に居た2000年のみであったが、2004年東京V戦での70mドリブルゴール、天皇杯優勝を決める終了間際の決勝ゴール、2007年ACL決勝での先制ゴール、クラブW杯日本人初ゴールなど記憶に残るゴールを多く決めた。日本代表でも4試合の出場に留まったが、ジーコジャパン初勝利を手繰り寄せるゴールを決めるなど勝負強さを見せた。
浦和退団後は国内の数チームを渡り歩き、現在は神奈川県1部リーグのFIFTY CLUBに所属してプレーする傍ら、解説の仕事も行なっている。
FW15 高田保則
(ベルマーレ平塚ユース→ベルマーレ平塚/湘南ベルマーレ→横浜FC→ザスパ草津)
ワールドユース以後、J1や日本代表などトップレベルの舞台ではあまり目立たなかったものの、湘南で長く活躍するなどJ2のレジェンドとして2010年の引退までコンスタントに試合に出場し続けた。J2通算出場、J2通算得点の記録は今年で20年を迎えるJ2の歴史の中で共に歴代6位である。
2010年シーズンで現役を引退。現在は日本サッカー協会「こころのプロジェクト」のスタッフとして活動している。
FW16 播戸竜二
(琴丘高校→ガンバ大阪→コンサドーレ札幌→ヴィッセル神戸→ガンバ大阪→セレッソ大阪→サガン鳥栖→大宮アルディージャ→FC琉球)
日本代表7試合2得点(2006〜2008)
2000年には当時J2の札幌で15得点、2004年には神戸で17得点を挙げるなどコンスタントに活躍していたが、黄金世代の中では比較的A代表には縁のないキャリアを過ごしていた。しかしG大阪に復帰した2006年に6試合連続ゴールを含む16得点を挙げると、当時のオシムジャパンにて代表デビューを果たし、アジアカップ2007のメンバーにも選ばれている(負傷により辞退)。2008年以降は怪我などもあって出場機会が減るものの天皇杯決勝柏戦での決勝点を始め、印象的なゴールを決める勝負強さを発揮し、ムードメーカー的なキャラクターもあって多くのサポーターに愛された。その後C大阪、鳥栖を経て移籍した大宮で2015年に記録したハットトリックはJリーグ歴代最年長でのハットトリック記録である。
FC琉球退団後は無所属という形で積極的にサッカーメディアに顔を出しているが、現役は引退していない。加地亮、藤ヶ谷陽介が引退した際に行われたガンバTVの労い企画では遠藤保仁と共にゲスト出演したが、途中参加ながらMCのたむらけんじ以上に喋り続けていた。
MF17 氏家英行
(横浜フリューゲルスユース→横浜フリューゲルス→大宮アルディージャ→ザスパ草津→図南SC群馬/tonan前橋)
ワールドユース唯一の出場が決勝戦のスタメンとなった後、大宮で長らく主力してプレーし、2004年の初のJ1昇格を最後に大宮を退団。1年間草津でプレーした翌年からは当時群馬県1部リーグの図南SC群馬で選手兼任コーチとして2014年までプレー。2014年には監督代行も務めた。手島、辻本、遠藤らと同じく横浜フリューゲルス在籍経験のある選手の1人。
2014年の引退後はザスパクサツ群馬に戻り、コーチやGM補佐を歴任した。
GK18 南雄太
日本代表(2001)
自身がゲスト出演した先日のジャンクスポーツでも放送された2004年の伝説のオウンゴールのイメージが先行しがちだが、クラブレベルでは十分な成功を収めている。若くてして柏の正GKとして2000年には年間勝点1位にも大きく貢献(当時のレギュレーションによりリーグ順位は3位)。2001年には川口能活と楢崎正剛が負傷した事により、イタリアとの親善試合当日に急遽日本代表に合流を要請されてベンチ入りしている。
柏退団後、熊本を経て2014年からは横浜FCでプレー。2018年にはJ1昇格プレーオフ進出に多大な貢献を果たし、40歳となる今季も正GKとしてJ1昇格を目指す。
GK 曽ヶ端準
W杯(2002)
五輪(2004OA)
日本代表4試合0得点(2001〜2003、2010)
ワールドユース、そして翌年のシドニー五輪では予備登録メンバーと悔しい想いをしたが、榎本と南がA代表未出場だったのに対し、2001年にA代表デビューを果たすと逆転で2002年日韓W杯のメンバー入りを果たした。クラブでは鹿島一筋でプレーし、2001年に高桑大二朗からポジションを奪って以来長年鹿島の正GKとして数多くのタイトルを獲得。同期の小笠原、本山、中田らと共に一時代を築くなど、そのキャリアは79年組の中でも成功を収めたと言える。
2010年代中頃からは衰えが指摘されるようになったが、そんな中で見せたクラブW杯レアル・マドリード戦のパフォーマンスは語り草。クォン・スンテの加入後は第2GKとなったが、今季も最後尾から常勝鹿島を支える。
監督 フィリップ・トルシエ
ワールドユースを始め、世代別代表では好成績を残したものの、コパ・アメリカなどA代表では低迷が続き、2000年には解任騒動が勃発。しかしここを何とか持ちこたえると、2000年シドニー五輪ベスト8、アジアカップ2000優勝、2001年コンフェデレーションズカップ準優勝、そして2002年日韓W杯での初勝利&決勝トーナメント進出と日本サッカーの歴史を次々に塗り替えていった。日本代表監督退任後はフランス代表監督候補にも挙がる。マルセイユ監督時代には中田浩二を獲得し、当時10代のサミル・ナスリを抜擢した事でも知られる。
マルセイユの監督を退任後はアフリカや中国で指揮を執り、現在はベトナムサッカーの育成機関である「PVFアカデミー」の強化責任者を務める他、ワイナリーのオーナーとしての顔もあり、銘柄である「ソル・ベニ(SOL BÉNI)」は日本からも購入可能で、日本語のTwitterアカウントもある。
…さぁ、こんな感じです!
想い出と伝説は色褪せない…。
ドリルから自虐してどないすんねん
ではでは(´∀`)