RK-3はきだめスタジオブログ

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過去のアジアカップを振り返ろう①アジアカップ1992 広島大会編(オフトジャパン)

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そんな広島も新スタへ

 

どーもこんばんは

 

さてさて、アジアカップ2023が始まります!

 

 

通算5度目となる優勝を目指す日本代表ですが、いわば日本代表とアジアカップの歩みはその成長の軌跡を映すようなものでもありました。

という訳でこのアジアカップを機に、日本代表が過去に戦ってきたアジアカップを振り返っていきたいと思います。

 

 

 

初回となる今回は1992年日本大会です。

日本にとって開催国代表でもあった1992年大会ですが、日本サッカーに於ける「1992年」とは今に繋がる時代の始まりの一年だった…そういう記念碑的な一年だったと表現しても過言ではないでしょう。ハンス・オフト監督率いる日本代表は8月のダイナスティカップ(E-1選手権の前身大会)を制し、戦後初となる国際タイトルを獲得。翌年のJリーグ開幕を控え、事前に開幕したナビスコ杯の流れにも背を押された広島大会…初出場となった前回大会は1勝どころか1点も取れずに大会を去った日本でしたが、その時とはまるで違う、まさしく舞台は整ったと言えよう状態で迎えたアジアカップでした。

そんな1992年のアジアカップを振り返っていきたいと思います。

 

 

 

【過去のアジアカップを振り返ろう】

①1992年 広島大会(優勝)

1996年 UAE大会(ベスト8)

2000年 レバノン大会(優勝)

2004年 中国大会(優勝)

2007年 東南アジア大会(ベスト4)

2011年 カタール大会(優勝)

2015年 オーストラリア大会(ベスト8)

2019年 UAE大会(準優勝)

 

アジアカップ2023観戦ガイドを作成しました!コンテンツは随時更新しておりますので、是非ご活用くださいませ!

 

2023年のJリーグを振り返る記事も色々更新しています。それらの記事はこちらにまとめておりますので是非!

 

オリジナルアルバム出してみました!聴いてみてくださいませ。

 

アジアカップ1992 日本代表】

 

《スタッフ》

監督:ハンス・オフト

コーチ:清雲栄純

GKコーチ:ディド・ハーフナー

 

アメリカW杯アジア最終予選(ドーハの悲劇)日本代表メンバー選手名鑑

 

《登録メンバー》

GK1 松永成立(横浜マリノス)

DF2 大嶽直人(横浜フリューゲルス)

DF3 勝矢寿延(横浜マリノス)

DF4 堀池巧(清水エスパルス)

DF5 柱谷哲二(ヴェルディ川崎)

DF6 都並敏史(ヴェルディ川崎)

DF7 井原正巳(横浜マリノス)

MF8 福田正博(浦和レッズ)

FW9 武田修宏(ヴェルディ川崎)

MF10 ラモス瑠偉(ヴェルディ川崎)

FW11 三浦知良(ヴェルディ川崎)

MF12 山田隆裕(横浜マリノス)

DF13 阪倉裕二(ジェフユナイテッド市原)

MF14 北澤豪(ヴェルディ川崎)

MF15 吉田光範(ジュビロ磐田)

FW16 中山雅史(ジュビロ磐田)

MF17 森保一(サンフレッチェ広島)

FW18 神野卓哉(横浜マリノス)

GK19 前川和也(サンフレッチェ広島)

FW20 高木琢也(サンフレッチェ広島)

 

 

 

アジアカップ1992 グループA第1戦

日本0-0UAE

1992年10月30日19:00@広島県立びんご運動公園陸上競技場

 

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アジアカップ1992 グループA第2戦

日本0-0北朝鮮

1992年11月1日14:00@広島広域公園陸上競技場

日本得点者:中山雅史(80分)

北朝鮮得点者:金光民(29分)

 

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アジアカップ1992 グループA第3戦

日本1-0イラン

1992年11月3日14:00@広島広域公園陸上競技場

日本得点者:三浦知良(87分)

 

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1992年よりオフト監督が就任し、当初はあまりにも急激な変化を前に軋轢が生じる事もあったが、ダイナスティカップでの優勝等を通じて着実にチームとして右肩上がりの曲線を描き始めた流れで迎えたのが広島開催のアジアカップだった。

しかしグループステージでは苦戦し、初戦のUAE戦では0-0のスコアレスドロー。続く北朝鮮との試合も終盤に中山のゴールでなんとか勝点1こそ奪ったが、日本は最終戦のイラン戦を「引き分けでも敗退」という状況で戦う事になった。そんな中で迎えたイラン戦は立ち上がりはイランに押し込まれる時間が続いたが、日本も少しずつリズムを取り戻して以降は一進一退の展開が続いていく。それでも0-0が続く試合展開は時間経過と共に「勝てなければ敗退」というプレッシャーとなって日本にのしかかっていた。

だが終了間際、ラモスの横パスを高い位置で受けた井原のスルーパス。そしてこれに抜け出し、右足を振り抜いたのは誰もが知る11番だった。キン右足一閃。このゴールと共に日本は準決勝進出を果たし、試合後にKINGが放った「魂込めました、脚に。」という伝説の言葉と共に、サッカー日本代表は未だかつて見た事ない世界へと足を踏み入れていく事になる。

 

 

 

アジアカップ1992 準決勝

日本3-2中国

1992年11月6日16:30@広島スタジアム

日本得点者:福田正博(48分),北澤豪(57分),中山雅史(84分)

中国得点者:謝育新(1分),李曉(70分)

 

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当時は8チームの出場だった為、グループステージを勝ち抜けば即準決勝というレギュレーションだった。対戦相手は中国。ダイナスティカップでは勝利したとはいえ、前々回大会では決勝にも進んだ中国は当時の価値観では格上の相手と言えた。

試合は開始早々に左サイドを崩されて失点を喫し、そのまま前半をビハインドで折り返した日本だったが、後半開始早々にカズのCKを福田が頭で合わせて同点に追いつくと、57分には自陣からのロングボールを高木が落とし、そのボールに反応して抜け出した北澤が決め切って逆転に成功。決勝進出へ、あとはこのリードを守り切るのみ…だがこの試合はここから壮絶なドラマを辿る事になる。北澤のゴールで逆転した直後、GK松永が相手選手との交錯の末に一発退場。絶対的な守護神の突然の離脱にGK前川をスクランブル出場させる事態となったが、70分にその前川がクロスボールの処理を誤って同点に追いつかれてしまう。

数的不利、悪魔の同点劇…日本を取り巻くムードは悪い方角へと向いていた。だが75分に日本は高木を下げて中山を投入すると再び攻撃は活性化。84分にはラモスのボールキープから右に展開すると、福田のクロスをファーサイドの中山が頭で合わせて3-2!イラン戦で窮地を脱した日本は、準決勝でもドラマチックな展開で初の決勝へと駒を進めた。

 

 

 

アジアカップ1992 決勝

日本1-0サウジアラビア

1992年11月8日14:35@広島広域公園陸上競技場

日本得点者:高木琢也(36分)

 

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日本代表にとって、サッカーでここまでの大舞台となったのは1968年のメキシコシティー五輪以来だろうか。広島ビッグアーチキャパシティーをも上回る観客が詰めかけた中で、最後に日本の前に立ちはだかったのは大会3連覇を目指すサウジアラビアだった。

Jリーグ開幕時にも話題になったチアホーンが鳴り響くスタジアム。日本は中国戦で退場した松永に加えて森保も累積警告で出場停止という状況ではあったが、日本は36分に左サイドからカズが入れたクロスを高木が胸トラップからきっちり決め切って先制。大会が行われていた広島に所属し、アジアの大砲とも称される高木は決勝戦がようやく大会初ゴールとなった。

その後は自然と3連覇を目指すサウジアラビアが押し気味に試合を進める展開となるが、極端に攻め立てられるような試合展開にはなっておらず、日本も随所にカウンターから好機を作って試合をコントロール。中国戦では失態を犯したGK前川も決勝では安定したプレーを見せた。試合は前半の高木のゴールを守り切って勝利。日本は遂に、初めてアジアの頂点へと辿り着いた。

 

 

 

《大会総評》

現在は史上最強とも言われている日本代表ですが、そこに続く道と言いましょうか、日本サッカーが日本サッカーとして歩み出した最初の年がこの1992年であって、そこで勝ち取ったこの大会は誇張表現でもなんでもなく、サッカー日本代表にとって間違いなく記念碑的な大会でした。

ダイナスティカップを制し、Jリーグ開幕を翌年に控えた爆発前夜の状況で掴んだ自国開催での優勝……オフト体制で競技面でも急激にレベルアップしていく中で、それもイラン戦や中国戦のような劇的な展開を制して優勝を果たす。そしてこのチームがほぼそのまま翌年に待ち受けていたドーハの悲劇を体感する事になる訳ですが、ストーリー性も含めて日本代表が今の競技力を持つ上で、そして日本におけるサッカーの立ち位置を築く上で、この大会が持った歴史的な意味合いは未来永劫変わる事は無いと思います。

「すべてはここから始まった」…その表現が全ての5試合だったのでは。

 

1996年UAE大会編つづく

 

 

前川親子の物語性…

ではでは(´∀`)