RK-3はきだめスタジオブログ

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過去のアジアカップを振り返ろう④アジアカップ2004 中国大会編(ジーコジャパン)

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アジアカップと言えばこれみたいなところはある

 

どーもこんばんは

 

さてさて、アジアカップ2023が始まります!

 

 

通算5度目となる優勝を目指す日本代表ですが、いわば日本代表とアジアカップの歩みはその成長の軌跡を映すようなものでもありました。

という訳でこのアジアカップを機に、日本代表が過去に戦ってきたアジアカップを振り返っていきたいと思います。

 

 

 

今回は2004年中国大会です。

2002年日韓W杯では自国開催というアドバンテージがあったとはいえベスト16に進出。トルシエジャパンでは五輪やアジアカップでも結果を残していただけに、ジーコジャパンでは次のステージに到達する事が日本代表の目的でした。そんな中で中々思うように結果が出ない日々が続くと同時に「国内組」「海外組」というワードもしきりに使われるようになるなど歪みを抱えていた日本代表でしたが、世界を少しずつリアルに捉え、欧州遠征での奮闘もあって少しずつ対世界への自信が備わっていった時期。中村と川口を除いてはオール国内組の編成となったことでベストメンバーを揃えられた大会では無かったものの、後戻りできない場所まで来た日本にとってはまさしく真価が問われる大会となりました。

そんな2004年のアジアカップを振り返っていきたいと思います。

 

 

 

【過去のアジアカップを振り返ろう】

1992年 広島大会(優勝)

1996年 UAE大会(ベスト8)

2000年 レバノン大会(優勝)

2004年 中国大会(優勝)

⑤2007年 東南アジア大会(ベスト4)

2011年 カタール大会(優勝)

2015年 オーストラリア大会(ベスト8)

2019年 UAE大会(準優勝)

 

アジアカップ2023観戦ガイドを作成しました!コンテンツは随時更新しておりますので、是非ご活用くださいませ!

 

2023年のJリーグを振り返る記事も色々更新しています。それらの記事はこちらにまとめておりますので是非!

 

オリジナルアルバム出してみました!聴いてみてくださいませ。

 

アジアカップ2004 日本代表】

 

《スタッフ》

監督:ジーコ

コーチ:エドゥー

GKコーチ:カンタレリ

フィジカルコーチ:里内猛

 

 

《登録メンバー》

GK1 楢崎正剛(名古屋グランパスエイト)

DF3 田中誠(ジュビロ磐田)

MF4 遠藤保仁(ガンバ大阪)

DF5 宮本恒靖(ガンバ大阪)

MF6 中田浩二(鹿島アントラーズ)

MF8 小笠原満男(鹿島アントラーズ)

MF10 中村俊輔(レッジーナ)

FW11 鈴木隆行(鹿島アントラーズ)

GK12 土肥洋一(FC東京)

DF14 三都主アレサンドロ(浦和レッズ)

MF15 福西崇史(ジュビロ磐田)

MF16 藤田俊哉(ジュビロ磐田)

MF17 三浦淳宏(東京ヴェルディ1969)

DF18 松田直樹(横浜F・マリノス)

FW19 本山雅志(鹿島アントラーズ)

FW20 玉田圭司(柏レイソル)

DF21 加地亮(FC東京)

DF22 中澤佑二(横浜F・マリノス)

GK23 川口能活(FCノアシェラン)

MF24 西紀寛(ジュビロ磐田)

DF25 茶野隆行(ジェフユナイテッド市原)

MF26 山田卓也(東京ヴェルディ1969)

 

 

 

アジアカップ2004 グループD第1戦

日本1-0オマーン

2004年7月20日18:00@重慶市オリンピック・スポーツセンター

日本得点者:中村俊輔(34分)

 

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アジアカップ2004 グループD第2戦

タイ1-4日本

2004年7月24日20:30@重慶市オリンピック・スポーツセンター

タイ得点者:ステー・スクサムキット(11分)

日本得点者:中村俊輔(21分),中澤佑二(56分,87分),福西崇史(68分)

 

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アジアカップ2004 グループD第3戦

日本0-0イラン

2004年7月28日18:15@重慶市オリンピック・スポーツセンター

 

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ジーコジャパンではトルシエジャパンとは打って変わって4バックが採用されたが、2004年からは3バックも併用されるようになり、アジアカップでは一貫して3バックを採用。中田英寿小野伸二稲本潤一のいない中盤は福西崇史遠藤保仁ボランチを組み、加地亮玉田圭司といった新戦力が台頭するなど後のドイツW杯にも繋がるようなメンバーの骨組みは出来上がりつつあった。

初戦のオマーン戦を中村のスーパーゴールで飾ると、続くタイ戦では当時の日本にとって大きな得点源となっていたDF中澤の2ゴールで快勝。第3戦ではグループ最大の難敵であるイランと対峙したが、既に突破を決めていた事もあってある程度の余力を残しながらプレーし、危なげなく首位通過を決めた。

だが、日本を蝕んでいたのは試合内容やパフォーマンス以上に中国の環境だった。当時の中国では小泉首相(当時)の靖国神社参拝や尖閣諸島の領有権問題もあって反日感情が異常なほど高まっており、ましてや試合会場となった重慶と日本の歴史的背景もあってか中国代表と関係ない試合にも関わらず日本の国歌斉唱時にブーイングが浴びせられ、試合中も絶え間なく罵声が飛ぶどころか「勝利に歓声を上げた日本のサポーター席にゴミが投げ入れられた」「尖閣諸島の領有権を主張する横断幕が掲げられる」「日本大使館車両が攻撃を受けた」といった事案が発生。大アウェイにしても異常な逆境に立たされ続けた中で、日本は決勝トーナメントに踏み込む事となる。

 

 

 

アジアカップ2004 準々決勝

日本1(4PK3)1ヨルダン

2004年7月31日18:00@重慶市オリンピック・スポーツセンター

日本得点者:鈴木隆行(14分)

ヨルダン得点者:モハメド・シェルバイエ(11分)

 

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重慶での日本戦はこれが最後だった事もあってか、前述したような反日感情の表面化はこの試合で一つのピークに達する事となり、試合中は常に中国の観客がヨルダンを応援するという異様な空気の中で進んでいった。

試合は早い時間から動く。11分にヨルダンは左サイドで粘ったサイードのクロスをシェルバイエが合わせて先制点。しかし日本も14分に中村のFKに鈴木が頭で反応してすぐさま同点に追い付いた。だが、この大会に於けるヨルダンの立ち位置はほぼノーマークでありながらも、後に長きに渡って日本の前に立ちはだかる事になるGKシャフィを中心にした守りとスピーディーな攻撃を何度も繰り出して日本相手に健闘を見せる。日本にとっては「絶対的に日本有利」という慣れない立場で戦うトーナメントと、中国の環境に対するストレスも相まってリズムをどうしても掴めない。お互いに心臓に悪いシーンを何度も繰り返しながら、試合は遂にヨルダン相手にPK戦に突入。そしてこれが、後に「伝説のPK戦」として語り継がれる事になる。

波乱のPK戦だった。先行の日本は中村、三都主という左利き名手2人が大きく枠外にキックを外すという異常事態が発生。この時、左利きの2人が蹴った後の芝が捲れ上がる様子を目の当たりにした主将の宮本が審判にエンドの変更を要求すると、審判はこれを承諾。サッカーの歴史を担った人物の一人と言っても過言ではないジーコですら「見たことがない」と語る異例の事態が重慶で起こっていた。それでもPK戦に於ける「2点ビハインド」が致命傷である事には変わりはない。エンド変更後に日本は福西と中田がキックを成功させたが、ヨルダンもPKを成功させた事でヨルダン優位な状況に変わりはなかった。迎えたヨルダンの4人目。決められれば日本は、重慶という街に屈辱だけを抱いて帰国の途につく事となる……。

だが、「神が降りた夜」というものは時として現実に起こる現象なのだろう。ブログの企画としては本末転倒になるが、ここから先の展開は今回も、そしてこれから先も繰り返し流れるだろうから敢えて書かない。ただ、あの日の日本のゴールには23番を背負う神がいた。屈辱だらけの重慶の街に最後に一つの蹴りを入れ、日本は準決勝へと駒を進める。

 

 

 

アジアカップ2004 準決勝

バーレーン3EX4日本

2004年8月3日18:00@山東体育場

バーレーン得点者:アラ・フバイル(6分,71分),ナーセル(85分)

日本得点者:中田浩二(48分),玉田圭司(55分,93分),中澤佑二(90分)

 

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伝説の夜は2度訪れた。アジアカップPK戦と言えば真っ先に思い浮かぶのは前述のヨルダン戦だろうが、アジアカップの同点劇と言えば思い起こされるのはこの試合だろう。

全くノーマークだったチームと対峙するという構図はヨルダン戦と同じで、序盤に先制点を許すところまでもヨルダン戦と同じ展開を辿った。しかし直後の玉田のシュートはポストに当たり、三都主のクロスに鈴木が詰めたシーンといった決定的をことごとく逃し、試合はバーレーンリードの時間が続いていく。そんなストレスフルな状況に追い打ちをかけるかのように、40分には遠藤が不可解な判定で一発退場。会場が変わっても変わらない中国の大アウェイでは片付けられない環境…考え得る「最悪」は次々に重なっていく。それでもジーコ監督は前半終了間際に田中を下げて中田をボランチに入れる事で4バックにシフト。更にハーフタイムには福西を下げて小笠原を投入し、4-1-2-2とも形容できる攻撃的な布陣へと切り替える。これが功を奏したのか日本は後半開始早々に得意のCKから中田の代表初ゴールで同点に追いつくと、55分には中田のスルーパスに抜け出した玉田が後のブラジル戦を思わせるようなシュートを決めて逆転!日本は考え得る様々な逆境を跳ね除けて決勝に進む──そんなストーリーは完成した、はずだった。

ただでさえ日本が過ごした過密日程は他国よりもストレスの溜まる環境に置かれていた中で背負わされた10人というディスアドバンテージ。その影響はじわじわと日本とバーレーンの実力差を埋め、マイボールの時間を作れなくなった日本にバーレーンの猛攻が襲いかかってくる。71分にはミスから2-2になる同点弾を奪われると、バーレーンを押し返せないまま迎えた85分にはカウンターから被弾。湧き上がるスタンド…「最悪」はその輪郭をはっきりと日本に示してきた。

明確に訪れた敗退危機。だが日韓W杯のトルコ戦で松田直樹をパワープレーに出せなかった事に未練を抱いていた宮本は、ジーコからの指示を待つ前に中澤に前半でプレーするよう指示を出す。それは後に中澤も「ツネさんに言われなければ、絶対に前には上がらなかった」と語るほどの奇策だったが、ヨルダン戦で神を引き寄せたように、奇跡は一大決心の影を追うようについてくる。玉田のクロスボールはファーに流れたが、なんとか回収した鈴木からボールを受けた三都主はダイレクトでエリア内に放り込む。そのボールの低さは決して彼の得意とする弾道ではなかったが、それでも"そこにいた中澤"の頭を目掛けて飛んできた。

人間、息を吹き返すときはわかりやすいもので、情念で手繰り寄せた延長戦では早々に玉田のゴールで再逆転に成功。バーレーンも驚異的な粘りで日本ゴールに襲いかかるが、川口や宮本の奮闘もあって90分と同じ轍は踏まずに試合を終えた。壮絶なシーソーゲームの末に、日本は遂に決勝へと駒を進めた。

 

 

 

アジアカップ2004 決勝

中国1-3日本

2004年8月7日20:00@北京工人体育場

中国得点者:リ・ミン(33分)

日本得点者:福西崇史(22分),中田浩二(65分),玉田圭司(90+1分)

 

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「中国を黙らせる」──大アウェイではなく、理不尽としか言えないような環境でのプレーを強いられた日本にとってはいつしかそれが大いなるモチベーションとなり、となればこの物語にケリを付ける唯一の方法は自分達の手で中国を叩き潰す事に他ならなかった。その舞台が決勝ともなれば願ったり叶ったり。ある種、この時のジーコジャパンはある種のハイになっていたようにも思う。当然ながら試合前から北京工人体育場は異様な空気に包まれていたが、逆に言えばこの日は相手が中国だったが故に大アウェイと割り切りやすい部分もあったのかもしれない。いずれにしても過酷な5試合を戦い抜いた結果、日本は逆境でバフをかけられるだけの胆力を備えていた。

相手のラフプレーや不可解な判定にも苦しめられて前半はなかなか前進できない時間が続いていたが、22分には左サイドのFKから伝家の宝刀と化していた中村のセットプレーで福西が合わせて先制。水を打ったかのような静かさに日本陣営が途轍もない快感を覚えた事は想像に難くない。前半のうちに追いつかれた事は痛手だったが、65分にはまたしても中村のセットプレーを中田が押し込んで勝ち越しに成功。アディショナルタイムには中村のスルーパスに抜け出した玉田がGKをかわして決め切った。執念と意地…その全てを最後に結実させた日本は、全てが敵に見えた中国のピッチの上で、静まり返るスタンドを背に自分達だけが高らかに勝利の歌を叫ぶ権利を連覇という形で掴み取ってみせた。

 

 

 

《大会総評》

アジアカップ」と言えばこの大会を真っ先に思い浮かべる人が多いと思います。それだけ壮絶な、ありえないほどに劇的な大会でした。日本を取り巻いた逆境、それを踏まえた上でのヨルダン戦やバーレーン戦の試合展開を経て、最後は中国を倒して優勝する……出来すぎなほど美しいストーリーでした。ヨルダン戦に至っては全ての英断、全ての偶然が最後は川口能活の味方をしたような試合展開だった訳ですし。

ある意味ではこの大会は反骨の大会だったと思っています。それは中国で置かれた日本の立場が第一ですが、当時の日本代表には国内組と海外組という立ち位置の差があり、国内組はそこにどう争っていくかを模索しなければならなかった。そこで国内組主体で挑む事になったアジアカップはまさしくそれを示す場でした。当時の選手の多くが様々な場面で例として挙げるほど、この大会のチームには一体感があったと言います。精神論を押し出すつもりはありませんが、こういう大会は2004年大会程ではなかったとしてもチームは特殊な状況に置かれますから、色々な形の反骨精神をそれぞれ抱き、それを良い形でピッチにぶつけた結果だったんだろうなと。

付け足していうと、この大会での日本のセットプレーは余りにも驚異的な武器でしたね。日本がこの大会で決めた13得点のうち、セットプレー由来のゴールはこぼれ球を繋ぎ直したようなものと含めると実に8得点。中村俊輔という稀代のプレースキッカーに加え、エリア内には中澤のみならず福西や中田、鈴木もいた。国際大会でのセットプレーの有用性を強く示した大会でもありました。

 

2007年東南アジア大会編つづく

 

 

でもなんでヨルダンとPKまで行ったのよ

ではでは(´∀`)