おー、しゃんぜりーぜ
どーもこんばんは
さてさて、いよいよパリオリンピックに挑むサッカー男子U-24日本代表のメンバー発表の瞬間が迫っています。
フルメンバーを招集し、W杯と並ぶ「世界最高峰の大会」と位置付けている女子サッカーとは異なり、男子サッカーの特徴は言うまでもなく年齢制限がある事、そしてオーバーエイジという制度がある事。サッカーをご覧の皆様なら言わずともお解りでしょうが、オーバーエイジでどれだけ理想的な選手を呼べるのか、呼んだ選手がどれだけ機能するのか…というところは五輪での成績に直結しますし、逆に五輪を世代別大会として割り切って最初から使わないクラブもあるなどチームによって色も分かれます。
かく言う日本も「理想通りのOAが呼べて抜群に機能した大会」「OA招集が望み通りにいかなった大会」「そもそもOAを招集しなかった大会」のそれぞれがありました。今回はオーバーエイジという制度が生まれた1996年以降のオリンピックに於けるの日本代表のオーバーエイジ運用を振り返っていこうと思います。
【歴代オーバーエイジ考察】
①1996年アトランタ/2000年シドニー/2004年アテネ
②2008年北京/2012年ロンドン
↓
RK-3 UEFA EURO 2024観戦ガイドはこちらから!
↓
オリジナルアルバム出してみました!聴いてみてくださいませ。
↓
1996年アトランタ五輪
(アトランタ五輪世代:1973年〜1976年生まれ)
第1戦 vsブラジル○1-0(得点者:伊東)
第2戦 vsナイジェリア●0-2
第3戦 vsハンガリー○3-2(得点者:前園②,上村)
大会成績→ベスト8
【スタッフ】
監督:西野朗
コーチ:山本昌邦
コーチ:ゼ・マリオ
【登録メンバー】
FW9 城彰二(ジェフユナイテッド市原)
MF15 秋葉忠宏(ジェフユナイテッド市原)
【バックアップメンバー】
【オーバーエイジ選出者】
オーバーエイジ選手は招集せず。
日本にとってアトランタ五輪は1968年メキシコシティー五輪以来28年ぶりの五輪出場となり、実質的な初出場と言っても過言ではない状況だったが、五輪のU-23大会制度自体が前回大会の1992年バルセロナ五輪から、U-23代表+オーバーエイジの制度はアトランタ五輪から導入された。即ちアトランタ五輪自体がオーバーエイジという概念がもたらされた初めての大会である…という側面があった。
ブラジルが超強力なオーバーエイジを招集した事などもあって日本でも待望論であったり、誰が選ばれるかの予想は活発に行われていたというが、西野監督を始めとした現場とJFAの間では「五輪に出場できたとしてもオーバーエイジは使用しない」という方針がチームを立ち上げた1994年の時点で既に確定していた。この時点でW杯出場経験を持っていない日本にとってはオーバーエイジを呼んで戦力を強化するよりも1人でも多くの選手に国際舞台を経験させる事の方が重要との判断があり、同時に当時の日本にとってはオーバーエイジを呼ぼうが呼ぶまいが劇的な戦力増強を想像しにくく、それならば1994年の予選から2年近い月日を戦い抜いたメンバーのコンビネーションを重視した方が勝機はあったと考える事もできる。実際に他国と比べて圧倒的に歴史と戦力で劣りながらもブラジルに勝利を収めるマイアミの奇跡を起こし、最終的にはグループステージ敗退こそ喫したが、通常ならばグループステージ突破水準と言える2勝を挙げた。
2000年シドニー五輪
(シドニー五輪世代:1977年〜1980年生まれ)
第1戦 vs南アフリカ○2-1(得点者:高原②)
第3戦 vsブラジル●0-1
準々決勝 vsアメリカ●2(4PK5)2(得点者:柳沢,高原)
大会成績→ベスト8
【スタッフ】
監督:フィリップ・トルシエ
コーチ:山本昌邦
コーチ:サミア
GKコーチ:望月一頼
【登録メンバー】
GK1 楢﨑正剛(名古屋グランパスエイト)★OA
MF12 酒井友之(ジェフユナイテッド市原)
【バックアップメンバー】
DF20 山口智(ジェフユナイテッド市原)
【オーバーエイジ選出者】
GK 楢﨑正剛(1976年生)
DF 森岡隆三(1975年生)
MF 三浦淳宏(1974年生)
フル代表の監督を務めていたフィリップ・トルシエに五輪代表、ワールドユース本戦のみU-20代表監督も兼任させ、自国開催となる2002年日韓W杯に向けて同じ指導体制、同じ戦術の下で一貫した強化を行う事を目的にしたトルシエ監督の兼業体制が採られた。2021年東京五輪と同様に最もオーバーエイジの登用が上手くいった五輪として語られており、日本も実に32年ぶりとなる決勝トーナメント進出を果たした。
オーバーエイジもそれに基づいてシンプルに核となるGKと3CBの真ん中、やや選手層が薄いポジションの補充(WB)を代表からそのまま引っ張って来れば良いというような形になっており、実際に招集した選手もGKは楢﨑、DFは代表の主将も担っていた森岡、WBには両サイドをこなせる三浦が招集されている。スケジュール的な側面もあり1999年までは明確にフル代表と五輪世代でメンバーを分けていたが、五輪予選やワールドユースが落ち着いた2000年以降は五輪代表メンバーが次々と代表入りを果たしており、五輪前最後の代表戦となったUAE戦ではベンチ入りメンバー22人のうち13人がシドニー五輪世代の選手となるなど、実質的に日本はフル代表のようなチームで大会に挑む事となった。同じく森保一監督がフル代表と五輪代表を兼任した2021年東京五輪の際にも同様の事は言われていたが、この時のそれはより顕著だった。
この大会に関してはオーバーエイジが機能したかどうかというよりも、前述のようにメンバーやスタッフそのものがフル代表とほぼ同じだった事からも、オーバーエイジがハマったというよりはオーバーエイジを含めて通常の代表戦とほぼ同じ運用でプレーできる状態を事前に作っていたと言えて、ある意味ではオーバーエイジを融合させるプロセス自体が存在しなかったという表現もできる。この時点で既に多くのメンバーがフル代表に絡んでいたが、2年後の日韓W杯のレギュラーメンバーはシドニー五輪の基本スタメンと半数以上が同じ人選になっていた事は一つの証左だろう。
2004年アテネ五輪
第1戦 vsパラグアイ●3-4(得点者:小野②,大久保)
第2戦 vsイタリア●2-3(得点者:阿部,高松)
第3戦 vsガーナ○1-0(得点者:大久保)
大会成績→グループステージ敗退
【スタッフ】
監督:山本昌邦
コーチ:石井知幸
GKコーチ:川俣則幸
フィジカルコーチ:菅野淳
【登録メンバー】
DF2 田中マルクス闘莉王(浦和レッドダイヤモンズ)
MF5 阿部勇樹(ジェフユナイテッド市原)
FW11 田中達也(浦和レッドダイヤモンズ)
【バックアップメンバー】
【オーバーエイジ選出者】
GK 曽ヶ端準(1979年生)
MF 小野伸二(1979年生)
1996年はオーバーエイジ自体が導入初年度だった事、2000年はチーム運営の観点でやや特殊な体制だった事も踏まえると「オーバーエイジの成否」という観点としてサンプルとなるのはこの大会からとも言える。
この大会では小野、曽ヶ端、そして高原直泰といずれも1979年生まれの現役日本代表選手を招集したが、高原に関しては2年前の日韓W杯を欠場する要因となったエコノミークラス症候群の再発により五輪出場を断念し、一枠余らせた2名体制で挑む事となった。なお、2003年時点ではボランチの明神智和をオーバーエイジの有力候補として同年の親善試合にも出場させていたが、2004年になると予選で主将を務めた鈴木啓太が最終メンバーから落選するほどボランチがアテネ世代だけで賄えるポジションになった事から候補から外れている。大会は最初の2試合でパラグアイ、イタリアとの乱打戦を落として敗退決定。最終戦でのガーナ戦では1-0で勝利して意地を見せた。
当時のフル代表はメンバーを固定する傾向にあるジーコジャパンだったが、平均年齢の若かった日韓W杯出場選手が20代後半を迎えたのが当時の日本代表だった訳で、誰が監督でも少なからずそういった傾向にはなったと思われるとはいえ、アテネ世代は五輪時点でJリーグで主力としてプレーしている選手は多かった一方、フル代表でプレーした経験を持つ選手がシドニー世代と比べると相当に少なく、唯一当落線上に立っていたのが大久保、そこに松井が数試合の出場実績を持つ…という状況だった。つまるところ、アテネ世代はフル代表との交流や接点がほぼ無かった世代とも言えて、いわゆる"雲の上の存在"とでも言うべき小野伸二が直前合宿に合流した時点から「気を遣ったわけではないですが、アテネの時は僕らが伸二さんに合わせ、頼ってしまった部分があったんです (徳永悠平)」という側面が強くなり、今野泰幸が「別に伸二さんが悪い訳ではないが、その変化がしっくりこなかった」と語ったように微妙な平衡感覚を狂わせてしまった部分もあったと言える。
【②北京・ロンドン五輪に続く】
ではでは(´∀`)