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【追悼&大阪ダービー直前特集】大阪ダービーをめぐる冒険〜松下電器産業サッカー部初代監督・水口洋次〜

 

 

 

Jリーグが始まって、30回目の5月を迎えた。

 

"オリジナル10"の一角であるガンバ大阪にとって、今年は30シーズン目のシーズンだ。1年はJ2で過ごす羽目になったが…1993年から29シーズンも日本のトップリーグで戦っているという事実──ガンバ以外のチームにも言えることだが、これは過小評価されるべきではない事柄だと思う。

 

 

 

…ところで、皆さまは「ガンバ大阪の成り立ち」についてどこまで把握しているだろうか。

おそらく、ガンバの前身が今でも親会社であるパナソニックの「松下電器産業サッカー部」である事は多くの人が知るところであろう。だが、その松下電器サッカー部はどういうルーツを持つクラブなのか…?というところである。

 

 

 

ガンバ大阪のルーツ…それはものすごくシンプルに表現するとこうなる。

ガンバ大阪は昔、セレッソ大阪の一部だった。もっと言えば、セレッソサテライトチームという立場だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

正確に言えば、こういう歴史である。

オリジナル10にはガンバだけ名を連ねた事実、そして、近年はセレッソ優勢とはいえ…タイトル獲得数を始めとした全体的な歴史という意味では、Jリーグ開幕以降の歴史はガンバの方が深いという印象が一般的に強いと思う。だが、Jリーグ開幕以前の歴史という観点で言えば、その歴史にはあまりにも大きな差があった。

セレッソの前身クラブの名は「ヤンマーディーゼルサッカー部」…Jリーグ開幕以前の日本サッカーを語る時に、このチームの存在は避けては通れない。日本サッカーの歴史を担ったクラブの一つであり、釜本邦茂らを擁した彼らの1970年代はまさしく黄金期だったのだ。

 

ただし、JSL(日本サッカーリーグ)への加盟時に大量の部員補強を行った事で、ヤンマーのスカッドは肥大状態にあった。そんな中でサテライトチームとして1972年に結成された、いわばヤンマー2軍的な立ち位置のチームが「ヤンマークラブ」だった。

当初は同好会的なチームだったが、選手個々の成長や1軍で戦力外になった選手を受け入れる事でチーム力は増強。全国社会人大会で優勝などを経て、彼らはサテライトチームながらJSL2部まで駒を進めていたのだ。そんな中で1979年、親会社であるヤンマーは突如としてサッカー部一本化の為にヤンマークラブの解散を発表。最後の天皇杯…最後に決勝で1軍と戦う事を夢見た彼らの冒険は、準々決勝で三菱(現:浦和レッズ)の前に敗れ、その歴史に幕を閉じる事となった。

だが、彼らの歴史に閉じた幕は、翌年再び開く事になる。その中心にいた人物こそ、かつてのヤンマーの主力の一人であり、そしてヤンマークラブで最後の監督を務めた水口洋次という男だった。

 

 

 

ヤンマーを去った水口は、ある会社が設立しようとしていたサッカー部の発足準備に中心メンバーとして、そして初代監督として関わっていた。全くのゼロベースからサッカー部を立ち上げなければならないという状況下の中、ヤンマーを辞めてまでこのプロジェクトに携わった水口はヤンマークラブに所属していた選手数名を共に連れていき、新卒選手を獲得し、それでも選手が足らず、水口自身が現役復帰して選手登録することでようやく13人。なんとかクラブの発足に漕ぎ着け、そのクラブの歴史はヤンマークラブ解散の翌年、1980年に産声を上げる。

 

 

 

そう、これが現在のガンバ大阪に続く、松下電器産業サッカー部誕生の瞬間だった。

 

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前述のように、ゼロからのスタートで最初は苦難の道のりから始まった松下サッカー部だったが、ヤンマー黄金期を知る水口の指導の下で徐々に力をつけ始めると成績がそれに比例し始めて、成績が呼応してくると選手も集まってくる。1983年には永島昭浩、1987年には本並健治が加入するなど、後のガンバ大阪を担うプレイヤーも集まり始めた。

ヤンマーの調子が劣る中で、Jリーグ開幕前夜の頃には松下はJSL1部に定着し、存在感を見せ始める。そして1991年1月1日、ほんの11年前まではヤンマーの2軍に過ぎず、ほんの10年前には選手が13人しかいなかったチームは、Jリーグのない当時は文字通り日本一を決める部隊であった天皇杯の決勝で、読売クラブと並ぶ二強だった日産自動車PK戦の末に下した。国立の地で掲げた天皇杯、その歴史の始まりからはあまりにも遠過ぎたその場所……水口洋次という稀有なバイタリティを持つ男が紡いだこのストーリーこそ、ガンバ大阪にとってのいわゆる"創世記"だった。

 

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冒頭で言った言葉を少し訂正するなれば、ガンバの母体は松下電器サッカー部であり、松下電器サッカー部の母体にセレッソの前身であるヤンマーがあった…というのが正確である。

諸問題が絡んでオリジナル10入りを逃したセレッソに対し、関西唯一のJクラブとして初年度からの参入が決まったガンバ。水口は監督の座を、かつてのヤンマーの大エースであり、日本サッカーのレジェンドであり、そして水口と同期でヤンマーに入社し、その男の初ゴールをアシストした関係でもある釜本邦茂に指揮権を託す。水口自身はガンバ大阪の取締役として、強化部長や普及部長といったポストを歴任。松下電器の定年退職と共にガンバを去る2002年まで、クラブの繁栄に力を注ぎ続けた。

この男の存在がなければ、ガンバ大阪というチームは存在しなかっただろう。松下電器サッカー部は別の形で生まれたとしても、今の歴史に辿り着くことは無かったはずだ。一人の偉人の誕生で、歴史とは如何なるようにも導かれていく。それはサッカーでも野球でも、会社でも科学でもこの世界の全ての概念に同じことが言えるだろう。

 

 

ガンバ大阪がクラブ創立30周年を迎えた昨年、私はその30年に絞ってガンバにとっての"偉人"を紹介するブログを書いた。

このブログでは1993年以降…というテーマで執筆した為、水口はその中には含めていない。しかし、ここに記した人物がガンバの偉人となる全ての道の始まりは、水口から始まるものだったと言っても過言ではなかった。

 

 

 

Jリーグ30シーズン目を迎える今年の4月10日、その全ての始まりとなった男が天に召された。

 

 

もうすぐ四十九日を過ぎようとしている中で、明日は大阪ダービー…水口にとっては自らのルーツであるチームと、自らが築いたチームがぶつかる試合となる。生前、ガンバを離れた後は鳥取県で暮らしたいたそうだが、この大阪ダービーには度々現地に駆けつけていたらしい。

歴史とは歴史の上に成り立つものである。西暦が数字であるように、たとえその形や解釈が変わったとしても、歴史が薄まる事は永遠にない。Jリーグにせよ、ガンバにせよ、セレッソにせよ……自分達を語る上で、折り重なった歴史はいつだってエンブレムの後ろにある。

 

明日、30シーズン目を迎えたJリーグで57回目の大阪ダービーが行われる。抱いた大志と描いたロマンの先に見られる景色がピッチ上に映し出される事を願っている。

 

 

 

ガンバ大阪の始まりを築いた、水口洋次氏のご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

 

過去の大阪ダービー企画↓

ガンバとセレッソの両方でプレーした選手ベストイレブン

ガンバとセレッソが直接対決として戦った大阪ダービー

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2020年のダービー観戦記