今更言うまでもないが、サッカーにとって、代表チームにとってワールドカップが持つ意味とは非常に大きい。そしてそこで収めた成績は、そのチームが過ごした4年間の意義を確定させてしまうだけの力を持っている。前のワールドカップから次のワールドカップまでの4年間のうち、例え3年間でどれだけ素晴らしい成果を挙げようともワールドカップで低調に終わればその4年には「失敗」の烙印が押され、逆に3年間がダメダメであったとしても、ワールドカップで躍進できればその4年は得てして「成功」として見做されるのだ。
「歴代最強の日本代表は?」と問いかけた時、今尚「2010年代初期の代表チーム」と答える人は多い。実際に私もそう思っている。だが、そのチームが最後に辿り着いたブラジルのクイアバの地で見たものは「グループリーグ敗退」という結末だった。
モノを書く時間は異様にある今、改めてブラジルW杯に挑んだアルベルト・ザッケローニ率いる日本代表の成功と失敗について振り返りたい。
①4-2-3-1と3-4-3
2010年、日本は南アフリカW杯でカメルーン、デンマークを下してグループステージを突破した。当時の岡田武史監督はこれまでやってきた戦い方では勝てないと見るや、阿部勇樹をアンカーに配置した4-1-4-1の守備に重きを置いたシステムと戦術を採用。今でも歴代の日本で最も守備の堅かったチームと言われている。
とはいえ、この戦い方はあくまでも「2010年南アフリカW杯専用」の戦い方であり、日本代表が目指していたのは日本人の機動力などを活かした連動性のある攻撃サッカーで、実際に岡田監督自身も当初目指していたのはそういうスタイルだった。本田圭佑を筆頭に、長友佑都や岡崎慎司、内田篤人ら伸び盛りのタレントも豊富だったから、彼らを更に伸ばし、活かす意味でも歴史上試合展開では受け身に回ることが多かったチームにとって「南アフリカW杯後」というのは自分達が主導権を握れるチームに変わる為の千載一遇のチャンスだったと言える。そこで招聘されたのがディフェンシブ戦術が主流のイタリアで、攻撃サッカーで名声を得たザッケローニだった。
ザックジャパンの初陣となった埼玉スタジアム2002でのアルゼンチン戦……親善試合とは言えども、あそこで明るい未来を見た人は多いだろう。ベストメンバーのアルゼンチンを岡崎のゴールで1-0で下し、続くアウェイ韓国戦では0-0のドロー。就任最初の2試合を1勝1敗で乗り切り、いきなりの大舞台となるAFCアジアカップ 2011に挑んだ。
AFCアジアカップ2011日本代表
MF8 松井大輔(グルノーブル・フット38)
MF10 香川真司(ボルシア・ドルトムント)
監督 アルベルト・ザッケローニ
採用したシステムは4-2-3-1。このシステムは岡田監督も南アフリカW杯以前に採用していたものである。だが、メンバーは既に岡田ジャパンから大幅に入れ替わっていた。この時の23人のうち南アフリカW杯に参加したのは半数以下の10名。しかもその10名のうち岩政と内田は試合には出ていなかった事を思うと、代表の世代交代はアジアカップ前の時点である程度行われていたとも言える。
この大会は観ていて非常に面白い大会だった。ヨルダン戦やカタール戦では大苦戦したが、その他の試合も含めてサッカーの質はかなり高いものを見せていた。本田をトップ下として軸に据え、左サイドで香川、長友を含めたトライアングルで左サイドをギタギタに崩す。そこに遠藤からの高精度のパスが送られてきたり、ポストプレーに長けた前田が2列目のタレントの能力を引き出す動きを見せたり。
日本のように、W杯出場がある程度前提になっているようなチームであれば、チームとしてのピーク…チームとしての完成は本来ならワールドカップの本番に持ってこれるのが一番望ましい。…タイミングの運というものはあるから、こればっかりは狙って出来るものではない。だが、「ザックジャパン」というチームはこの時点でほとんど完成してしまったのだ。
アジアカップでの基本的なスタメンはこんな感じである。この11人は怪我や出場停止などがない限り2年後のコンフェデレーションズカップまで、11人がそのままスタメンを張り続けていく事になり、そしてブラジルW杯でも前田がメンバーから外れて遠藤がベンチに座った以外は…要するに、9割以上が2011年時のメンバーのままW杯に向かったのだ。
個人的には、代表でもクラブでも批判的に見られがちな「スタメンの固定化」にそこまで否定的ではない。むしろ、スタメンがある程度固定されている事は強いチームの条件の一つだとすら思っている。特にこの時期、海外組が一気に増えて代表活動が更に限られるようになっていたし、日本代表が目指すべき方向性はこのアジアカップで明確化されていたからある程度の固定化は正しい選択だったと思う。
ただ、メンバーを固定化するメリットを享受するならば、同時に「やっておかなくてはならない事」と「やってはいけない事」も発生してしまうのだ。ザックジャパンはここからそのジレンマと戦い続ける事になる。
ただ、メンバーを固定しつつもザッケローニ監督は自身がこだわりを持つシステムがあった。「3-4-3」である。アジアカップで想像以上の成果が得られた事で4-2-3-1がメインシステムにはなったが、ザッケローニ監督はオプションとして3-4-3の成熟を目指す事を兼ねてから明言していた。2011年であれば3月にチャリティーマッチとして行われたJリーグ選抜との試合、6月にペルー、チェコと対戦したキリンカップ、10月のベトナムとのキリンチャレンジカップでテストしている。
しかし、通常の代表戦とはテーマが大きく異なるJリーグ選抜との試合は別にしても、3-4-3が機能していたとはお世辞にも言い難かった。コントラストとしても、4-2-3-1で戦ったのその他の試合で完璧な試合を見せていただけに3-4-3というオプションもこの時点でほぼほぼ消滅していたと言えるだろう。ザッケローニ監督にしても、元々自身のこだわりを無理に押し付けるタイプでは無いので、機会があればこれ以降も3-4-3にトライする試合はあったが、無理に導入しようとはせずに同年9月から始まったブラジルW杯予選では確実な4-2-3-1を採用していた。
サッカーに於いて、3バックシステムは比較的特殊なシステムとされる事が多い。今の森保ジャパンでも議論されているが、3バックを試合で勝てるレベルまで育てるなら練度が必要になる。代表で3バッグがある程度成績を残せていたのはフィリップ・トルシエやジーコが監督を務めていた頃、要するに国内組中心の日本代表で、国内組だけの代表活動も活発に行っていた時期なのだ。加えて、ザックジャパンの頃のJリーグで「攻撃的な3バック」を採用していたチームは広島くらいだったから、この時代の3バックに慣れている選手がほとんど居なかったという意味では3-4-3を導入するにはタイミングも良くなかったのかもしれない。
とはいえ、3-4-3が低調だっただけで4-2-3-1で戦った時の輝きは凄まじかった。アジアカップで香川が怪我し、香川が復帰したら今度は本田が長期離脱した事でアジアカップ以外でWエースが2011年に共演したのは8月の韓国との試合のみ。そしてその韓国戦は3-0というスコアもさる事ながら、その試合内容は日本代表史上でも屈指とさえ言われた。本田が負傷離脱した後はトップ下のポジションを中村憲剛が務め、香川も岡崎も伸び伸びとプレー。日に日に成熟していくチームはどんどん日本代表史上最強の名を拝するに相応しいチームへと成り上がっていき、次に本田と香川が揃ったその瞬間……このチームは本当に完成するんじゃないか、その期待を抱かせながら日本という国全体にとって激動だった2011年の幕を閉じた。
つづく。