しかしまぁ、30周年がこんなハードになるとはなぁ…
どーもこんばんは
さてさて、今年2021年はガンバ大阪のクラブ創立30周年です。
1991年10月1日にクラブとして歩み始めたガンバの歴史は紆余曲折でした。川淵三郎チェアマン(当時)にクソミソに言われたところから始まり、お荷物と呼ばれた暗黒時代からの若手の台頭、2度の黄金時代、その間にあった悪夢…あんな事やこんな事、色々ありました。
というわけで、私もガンバファンですので、いわゆる「ガンバ大阪30周年記念企画」的な事をやってみようと思います。
今回は…「独断と偏見による、ガンバ大阪ポジション別ランキング」です。
文字通り、歴代のガンバ戦士の貢献をポジション別に独断と偏見でランキングにしてみようと思います。
ポジションはGK部門、センターバック部門、サイドバック部門、ボランチ部門、攻撃的MF部門、FWに関しては外国人選手がかなり多かったので日本人FW部門と外国人FW部門に分け、そして最後に監督部門を考えていきます。
まずは今回はFW編!
FW編に関しては、日本人編と外国人編に分けて5人ずつ挙げていきます。それでは早速始めていきましょう…。
※データは2020年シーズン終了時のデータです。また、あくまで成績はトップチームに限り、ガンバ大阪U-23での成績は含みません。
↓
【日本人FW部門】
第5位
生年月日:1977年12月12日
在籍年:1996〜2001
背番号:13(1997〜1998)→11(1999〜2001)
日本代表通算成績:1試合0得点(2000)
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:131試合36得点
公式戦通算:167試合46得点
ガンバがチームとして躍進したのは他でもなく、シドニー世代の年代で優秀な選手を多く育て上げた事だった。それは宮本恒靖や稲本潤一を輩出したガンバユースのみならず、都築龍太や播戸竜二を育成した高校サッカー組も然りなのだが、高校から引き上げた中で最もスター性を放っていたのが小島であり、小島・宮本・稲本の3人はガンバの育成の代表的な選手であった。
高校時代に対戦経験があり、かつ2001年に加入した遠藤保仁には「この人はもうマジ凄かった」と語っている。1998年には21歳ながら17得点を上げてブレイク。2000年には日本代表デビューも果たした。
第4位
生年月日:1974年11月21日
在籍年:1993〜2005
背番号:11(1997〜1998)→24(1999〜2001)→11(2002〜2005)
獲得タイトル:J1リーグ(2005)
日本代表通算成績:0試合0得点(1994)
ガンバ所属選手としての国際大会出場:1996年アトランタ五輪予備登録メンバー
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:280試合45得点
公式戦通算:358試合67得点
高校サッカーで小倉隆史や城彰二、前園真聖らを差し置いて大会得点王に輝いた国立のスーパースターは名古屋、鹿島、市原(千葉)が争奪戦を繰り広げる中、ガンバの初代監督である釜本邦茂や帝京高校の先輩である礒貝洋光の誘いもありガンバを選択。そこから2005年の引退までガンバ一筋でプレーし、人々は彼を「ミスターガンバ」と呼ぶようになった。
キャリアハイの1997年はパトリック・エムボマの相方としてチームの上位進出に大きく貢献。その後は若手の台頭などもあってベンチが定位置となったが、それでもスーパーサブとして強い存在感を残し、ピッチ内外で大きくチームに貢献した。ガンバが「お荷物」と呼ばれた時代からチームを支えた男の現役ラストを初優勝で飾れたのは余りにも美しい結末だった。
襟を立ててプレーするのがトレードマークで「襟兄」とも呼ばれているのはその為。ユニフォームが襟なしのモデルだった時は、わざわざ襟付きのアンダーシャツを作るなどして無理矢理立てるほどの拘りだった。
第3位
生年月日:1979年8月2日
在籍年:1998〜1999、2006〜2009
背番号:29(1998)→18(1999)→11(2006〜2009)
獲得タイトル:ゼロックス杯(2007)、リーグ杯(2007)、パンパシフィック杯(2008)、AFCチャンピオンズリーグ(2008)、天皇杯(2008、2009)
日本代表通算成績:7試合2得点(2006〜2008)
ガンバ所属選手としての国際大会出場:1999年ワールドユース
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:131試合31得点
公式戦通算:189試合43得点
テスト入団からプロ契約を勝ち取ったFW。当時の同期には新井場徹や橋本英郎がいる中で、後に黄金世代と呼ばれる1999年のワールドユースには稲本潤一と共にガンバ所属選手として出場した(ちなみに遠藤保仁は京都、加地亮はC大阪の所属選手として出場)。その後、出場機会を求めて移籍した札幌・神戸で実績を積み2006年にガンバに復帰。同年は16得点を叩き出し日本代表デビューも果たす。2007年以降はベンチに座る機会が増えたが、スーパーサブとして2008年の天皇杯決勝柏戦や2009年の浦和戦など印象的なゴールが多い。
無所属状態だった2019年にガンバと一日契約を交わす形で引退発表とセレモニーを実施。その後は指導者ではなくリーグやクラブを運営する側の道を目指しており、既に要職にも就いている一方で、今夏には「孤狼の血 LEVEL2」で俳優デビューもした。
第2位
生年月日:1980年5月4日
在籍年:1999〜2000、2002〜2005
背番号:29(1999〜2000)→16(2002〜2005)
獲得タイトル:J1リーグ(2005)
獲得個人タイトル:Jリーグベストイレブン(2004)、Jリーグ優秀選手賞(2004、2005)、Jリーグフェアプレー個人賞(2005)
日本代表通算成績:22試合5得点(2005〜2006、2008)
ガンバ所属選手としての国際大会出場:2005年コンフェデ杯
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:111試合48得点
公式戦通算:140試合64得点
純粋なストライカーとしてはガンバユース史上最高傑作とも言えるFW。デビュー当初は出番に恵まれなかったが、2003年に頭角を表すと翌2004年には20得点を記録しベストイレブンも受賞。アラウージョと2トップを組んだ2005年は2人だけで49得点を叩き出した。ガンバのリーグタイトル獲得を置き土産に海外挑戦でフランスのグルノーブルに移籍。ユース時代は二川孝広と同期で、共にクラブユース選手権を制覇した(二川が主将で、大黒は副主将)。
2005年には日本代表デビューを果たし、代表2戦目で挙げたW杯最終予選北朝鮮戦でのゴールは「神様仏様大黒様」と呼ばれるなど伝説となるなど一躍時の人になった。筆者個人としても、ガンバファンになるきっかけを作ったのは大黒将志(と宮本恒靖)とも言える。現在はガンバジュニアユースでストライカーコーチを務めている。
第1位
生年月日:1992年5月6日
在籍年:2009〜2011.7、2013.7〜2016.6、2019.7〜
背番号:33(2009〜2010)→11(2011)→39(2013〜2016)→33(2019〜2020)→39(2021〜)
獲得タイトル:天皇杯(2009、2014、2015)、J2リーグ(2013)、リーグ杯(2014)、J1リーグ(2014)、天皇杯(2014、2015)、ゼロックス杯(2015)
獲得個人タイトル:Jリーグベストヤングプレーヤー賞(2010)、日本プロスポーツ大賞新人賞(2010)、J2月間MVP(2013年8月、2013年11月)、J1月間MVP(2014年9月、2015年4月、2019年11・12月)、Jリーグ杯ニューヒーロー賞(2014)、Jリーグベストイレブン(2014、2015)、Jリーグ優秀選手賞(2014、2015)
日本代表通算成績:27試合3得点(2015〜2019)
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:182試合77得点
公式戦通算:248試合106得点
ガンバファンにとって「特別な選手」という言葉が彼以上に似合う選手はいないのかもしれない。それは小学校時代から「宇佐美っていうエグい子供がいるらしい」とその名が都市伝説レベルに知れていた事やユース時代から圧倒的な才能を見せつけていた事もあるが、それ以上に宇佐美のキャリアがガンバファンというところから始まったのもあるだろう。2016年6月の海外移籍時のスピーチがその全てを物語っている。
一時は同い年の「ネイマール以上」とも称されていたほど、デビュー前の期待値は異常なまでに高まっていた事もあって、日本代表を含めた宇佐美のキャリアにはガンバファン内外を含めて賛否両論はある。ただ一般論で見れば、Jリーグで宇佐美がガンバに残した数字と貢献は既に十分レジェンドと呼ぶべきものだと思う。17〜18歳のシーズンに、優勝候補のチームでレギュラーを掴んで7得点なんてそうそう出来る事ではないし、長谷川健太監督体制のガンバではまさしくエースだった。
現在は苦しい状況の中に放り込まれたガンバの中で、おそらく今の宇佐美は遠藤保仁に次ぐガンバの象徴にならなくてはならないという事を強く背負っている。背負いすぎているようにも映る。どうにかして、その想いにチームと個人の成績がついてくる事を願ってやまない。
【外国人FW部門】
第5位
生年月日:1976年1月13日
在籍年:2006〜2007.11
背番号:9
獲得タイトル:ゼロックス杯(2007)、リーグ杯(2007)
獲得個人タイトル:ACL得点王(2006)、Jリーグ得点王(2006)、Jリーグベストイレブン(2006)、Jリーグ優秀選手賞(2006)
ブラジル代表通算成績:3試合0得点(2001)
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:53試合36得点
公式戦通算:78試合54得点
基本的にブラジル人FWは他のJクラブで活躍した選手を中心にリストアップしているガンバ。マグノはその代表的な存在で、初優勝を果たした翌年の2006年にアラウージョや大黒将志、吉原宏太に松波正信と一気にFWが4人抜けたところに播戸竜二と共に加入した。第2節の大阪ダービーでいきなりハットトリックを決めるなど序盤から圧倒的な得点力を見せ、最終的には26得点でかつてブラジル代表で2トップを組んだ浦和のワシントンと同率で得点王を獲得。特に同年の第33節京都戦で優勝の可能性を最終節に繋ぎ止めたハットトリックは伝説である。
パフォーマンスと衝撃具合は尋常じゃなく、当時のチームメイトも印象的なFWとして彼の名を挙げる者は多い。しかし去り方は良くなく、俗に言うガンバ大阪助っ人中東輸出事業の第1号である(ちなみに無断移籍)。
第4位
ルーカス
生年月日:1979年1月3日
在籍年:2008〜2010
背番号:9
獲得タイトル:パンパシフィック杯(2008)、AFCチャンピオンズリーグ(2008)、天皇杯(2008〜2009)
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:80試合21得点
公式戦通算:128試合41得点
U-23ブラジル代表としてシドニー五輪にも出場したFW。FC東京での実績が評価されて2008年にガンバに加入した。当時のガンバが織り成した攻撃的なサッカーも移籍の決め手だったという。2008年のACL決勝では2試合で3得点を叩き出した。FC東京時代を含めた活躍が評価され、2014年には外国籍選手としては史上5人目となるJリーグ功労選手賞を受賞している。
歴代の外国人FWと比べるとゴール数こそ少なかったものの、チャンスメイクやパサーとしての能力にも秀でた万能型FWで、攻撃的MFとして起用も多かった。また、人格者としても知られており、2010年には副将にも任命。引退後もガンバ及びFC東京の関連イベントにも顔を出している。2014年ブラジルW杯の日本vsギリシャの試合にはハチマキ着用で応援に駆けつけた。
第3位
パトリック
生年月日:1987年10月26日
在籍年:2014.7〜2017.6、2019.7〜
背番号:29(2014〜2016)→55(2017)→18(2019〜)
獲得タイトル:Jリーグ杯(2014)、J1リーグ(2014)、天皇杯(2014、2015)、ゼロックス杯(2015)
獲得個人タイトル:Jリーグ杯MVP(2014)、Jリーグベストイレブン(2014)、Jリーグ優秀選手賞(2014、2015)
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:117試合34得点
公式戦通算:163試合51得点
2000年の鹿島以来2チーム目となる三冠王者となった2014年、そのターニングポイントが夏のパトリック加入にあった事は言うまでもない。倉田秋の出場停止に伴い初先発を果たした第16節清水戦で大暴れすると、すぐさま宇佐美との2トップはゴールデンコンビと化し、同年は19試合の出場ながらベストイレブンも受賞している。2014年ナビスコ杯決勝や2015年天皇杯決勝ではそれぞれ2得点を挙げて優勝に貢献する勝負強さも魅力。2016年以降は怪我やスランプもあったが、広島での復活を経て2019年夏に復帰。当初は4番手FWの扱いで途中出場がメインだったが、突然のアデミウソン退団以降はチームの最重要人物として2位躍進の原動力となった。
近年は試合後のインタビューにも日本語で応対出来ている他、息子のフェリペ君はガンバの下部組織に所属している。広島時代も度々ガンバを気にかけており、ロシアW杯の際には日本代表ユニを着用して宇佐美のタオルを掲げながら応援していた。
第2位
生年月日:1970年11月15日
在籍年:1997〜1998.5
背番号:9
獲得個人タイトル:Jリーグ得点王(1997)、Jリーグベストイレブン(1997)
カメルーン代表通算成績:57試合33得点
ガンバ所属選手としての国際大会出場:1998年フランスW杯
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:34試合29得点
公式戦通算:40試合33得点
1997年に加入し、Jリーグ史上最大級のインパクトを残した。そのインパクトは本人のアクロバティックなプレーは勿論、当時「Jリーグのお荷物」とまで言われていたガンバに優勝争いをさせた部分も大きい。Jリーグ史上最高の助っ人を語る際に必ず使われる映像が1997年開幕戦で異次元のボディバランスで浮き球をコントロールしながらボレーを叩き込む衝撃的なゴールである。このゴールの時、現地には宇佐美貴史や川崎の登里享平がいたらしい。
ガンバはこの年の2ndステージで準優勝を果たし、エムボマは得点王・ベストイレブン、更にオールスターのMVPなど獲れるもの全てを獲っていった。尚、得点王とベストイレブンはガンバの選手としては初めての受賞であり、ガンバ大阪所属選手として初めてW杯に出場したのもエムボマである。1997年は練習場の移転や宮本や稲本らユース出身選手が台頭するなどクラブとして変革を迎えていた年であり、この一年の経験がその後の黄金期に繋がったとも言えて、もしエムボマが来ていなければガンバの今はまた違った形になっていたかもしれない。また、加入前はフランスで伸び悩んでいたエムボマにとってもキャリアの大きな転機となった。
「浪速の黒豹」という愛称はサッカーダイジェストの当時のガンバ担当記者が命名した。その担当記者はエムボマと同い年であり「日本では同い年の事を『タメ』と言う」と教えたところ、何かを勘違いしたエムボマから「タメさん」と呼ばれるようになったらしい。
第1位
生年月日:1977年8月8日
在籍年:2005
背番号:9
獲得タイトル:J1リーグ(2005)
獲得個人タイトル:Jリーグ得点王(2005)、JリーグMVP(2005)、Jリーグベストイレブン(2005)、Jリーグ優秀選手賞(2005)、日本年間最優秀選手賞(2005)、IFFHS世界主要国内リーグ得点王(2005)
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:33試合33得点
公式戦通算:46試合41得点
2005年シーズン開幕前、当初ガンバが獲得に動いていたのは京都の韓国代表FW・崔龍洙であり、アラウージョは前年に所属した清水では期待外れの烙印を押されていたので、計算が立ちやすいという意味でJでの実績面で市原のエースでもあった崔龍洙の方が数段上なのは明白だった。しかし当時の西野朗監督を始めとした強化部は2004年後半から浸透し始めたパスサッカーに手応えを感じており、そのスタイルを進化させる意味で方針を急転換し、アラウージョ獲得に踏み切る。そしてこの判断はガンバ史上最大の歓喜を呼び込む事となった。
豊富なフィニッシュのバリエーションは33試合33得点という脅威の得点率を誇り、2005年は世界の主要リーグ全体での得点王にも輝いている。また、チャンスメイクもこなせる万能型FWとしての側面もありアシスト数でもリーグトップだった。大黒将志とフェルナンジーニョと形成したトライアングルはまさしくJ史上最強クラスの攻撃ユニットで、そこに遠藤保仁と二川孝広、家長昭博辺りもいた訳で、そりゃあんだけの攻撃力にもなるわな…と。
性格も真面目かつ勤勉だったらしく、チームメイトとも良好な関係を築いていた。2005年最終節、4点目を叩き出し、サポーターの待つスタンドに一目散に駆けて行ったあのシーンが色褪せる事は永遠にない。
万博に一年だけ舞い降りた天使
ではでは(´∀`)