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【ガンバ30周年】ポジション別ベスト5!ガンバ大阪歴代選手ランキング【MF編(ボランチ&攻撃的MF)】

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ヤット像パナスタに建たないかしら

 

どーもこんばんは

 

さてさて、本日は以前更新したクラブ創立30周年記念、独断と偏見によるガンバ大阪歴代選手、ポジション別ランキング企画の第2回です。

 

 

 

 

ポジションはGK部門、センターバック部門、サイドバック部門、ボランチ部門、攻撃的MF部門、FWに関しては外国人選手がかなり多かったので日本人FW部門と外国人FW部門に分け、そして最後に監督部門を考えていきます。

第1回がFW編でしたので、今回はMF編です。ボランチ部門と攻撃的MF部門に分けて、それぞれトップ5をランキングにしていきます。それでは、ドン!

 

 

※データは2020年シーズン終了時のデータです。また、あくまで成績はトップチームに限り、ガンバ大阪U-23での成績は含みません。

 

オリジナルアルバムの配信も開始したのでそちらも観てね

 

 

【攻撃的MF部門】

 

 

第5位

フェルナンジーニョ

 

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生年月日:1981年1月13日

在籍年:2004〜2006

背番号:8

獲得タイトル:J1リーグ(2005)

獲得個人タイトル:Jリーグ優秀選手賞(2004、2005)、Jリーグベストイレブン(2005)

【ガンバでの成績】

リーグ戦通算:81試合23得点

公式戦通算:117試合34得点

 

2004年にブラジルのサンカエターノから獲得。球離れの悪さが散見される部分こそあったが、卓越したテクニックとボールを持った時のスピードを武器にドリブラーとして君臨。初年度から二桁得点を記録し、アラウージョ大黒将志とのトリオを築いた2005年はリーグ初優勝のみならず自身もベストイレブン入りを果たした。2006年途中からは西野朗監督の構想から外れ始めてきたが、同年も出場した試合での得点率は高い。

2004年時点でのエースはマグロンだったが、マグロンが負傷離脱した際にフェルナンジーニョや遠藤、二川といったテクニカルな選手が流動的な攻撃を見せた事が翌年以降のサッカーに大きな影響を与えた。

 

 

第4位

阿部浩之

 

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生年月日:1989年7月5日

在籍年:2012〜2016

背番号:25(2012)→13(2013〜2016)

獲得タイトル:J2リーグ(2013)リーグ杯(2014)J1リーグ(2014)天皇杯(2014、2015)ゼロックス杯(2015)

獲得個人タイトル:Jリーグ優秀選手賞(2014)

日本代表通算成績:3試合0得点(2017)

【ガンバでの成績】

リーグ戦通算:135試合21得点

公式戦通算:187試合31得点

 

大卒ルーキーとして2012年に加入。降格の憂き目に遭った初年度だったがスーパーサブとしてコンスタントに出場機会を得て、1分4敗で迎えた第6節川崎戦では終盤のJ初ゴールがシーズン初勝利の決勝点となった。長谷川健太監督就任後は守備での献身性や両脚でのシュート精度が買われ、倉田秋大森晃太郎と併用する形で主力に定着し、特に2014年には宇佐美貴史、パトリックに次いでチーム3位となる7得点を挙げてガンバの三冠達成に大きく貢献した。

2017年に移籍した川崎で初タイトルに貢献して以降はガンバでの成績と併せて「タイトルを請負人」とも呼ばれるようになる。大阪ダービーでは2試合3得点を記録しており、ディエゴ・フォルランと2発ずつ打ち合った2014年4月のダービーは語り草。

 

 

 

第3位

礒貝洋光

 

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生年月日:1969年4月19日

在籍年:1993〜1996

日本代表通算成績:2試合0得点(1995)

【ガンバでの成績】

リーグ戦通算:125試合26得点

公式戦通算:163試合34得点

 

Jリーグ開幕当初のガンバの看板選手。当時は背番号が固定番号制では無かったが、その中でも10番が定着しており、そしてそれに似合うようなファンタジスタだった。当時のガンバは「Jリーグのお荷物」とさえ称されるようなクラブだったが、その中で実績のある外国人助っ人や永島昭浩松波正信といったFW陣を操り続け、自らも多くの得点を記録。シジマールが持つ連続無失点記録を731分で止めたのも磯貝のゴールである。

ガンバのユニフォームといえば「青黒の縦縞」が伝統としてベースデザインになっているが、1997年から採用された縦縞デザインは実は磯貝の提案だった。ただし、磯貝自身は1997年に浦和に移籍したので縦縞デザインのユニフォームを着る事は無かった。

 

 

第2位

倉田秋

★ガンバユース出身

 

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生年月日:1988年11月26日

在籍年:2007〜2009、2012〜

背番号:31(2007)→20(2008〜2009)→14(2012)→6(2013)→11(2014〜2016)→10(2017〜)

獲得タイトル:ゼロックス杯(2007、2015)リーグ杯(2007、2014)、パンパシフィック杯(2008)、AFCチャンピオンズリーグ(2008)天皇杯(2008、2009、2014、2015)J2リーグ(2013)J1リーグ(2014)

日本代表通算成績:9試合2得点(2015、2017)

【ガンバでの成績】

リーグ戦通算:305試合51得点

公式戦通算:415試合63得点

 

ユース時代から期待も高く、2007年のトップ昇格時には「ポスト遠藤」と呼ばれてボランチ、それもゲームメイカータイプの選手として入団。しかし当時のガンバと言えば遠藤、橋本、二川、明神の「黄金の中盤」が支配する時期。チーム自体が過密日程だった2008年はコンスタントに出番を得たが、出番はカップ戦が中心だった事もあってレンタル移籍を決意。千葉・C大阪で大きく飛躍し、2012年ボランチではなく攻撃的MFとして復帰した。

それ以降はアタッカーとして大きく飛躍。2012年はチームは降格したが、倉田個人としては気を吐いた。長谷川監督体制では阿部や大森と併用されながらも常に主力として結果を残し続けた。二川が退団した2017年からは自ら志願して背番号10を着用。2013年から副キャプテンにも就任しており、遠藤や三浦弦太の不在時にはキャプテンマークも巻くなど名実ともに中心選手に育った。ミドルシュートも持ち味の一つで、得点のゴラッソ率が高いのも特徴。

ヴァイッド・ハリルホジッチ監督体制では日本代表にも定期的に選ばれていた。ガンバでは二川の10番を継いだ倉田が、代表では遠藤の7番を継いだ姿にエモいものを感じたガンバファンは多いはず。

 

 

第1位

二川孝広

★ガンバユース出身

 

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生年月日:1980年6月27日

在籍年:1999〜2016.7

背番号:32(1998)→16(1999〜2001)→8(2002)→10(2003〜2016)

獲得タイトル:J1リーグ(20052014)、ゼロックス杯(2007、2015)リーグ杯(2007、2014)、パンパシフィック杯(2008)、AFCチャンピオンズリーグ(2008)天皇杯(2008、2009、2014、2015)J2リーグ(2013)

獲得個人タイトル:Jリーグ優秀選手賞(2004、2006、2007)

日本代表通算成績:1試合0得点(2006〜2007)

【ガンバでの成績】

リーグ戦通算:430試合47得点

公式戦通算:597試合67得点

 

言うまでもなくガンバ史上最高のファンタジスタ。遠藤とはまた違った角度と視点を持つパスの名手で、そのラストパスの精度とアイデアJリーグ史上という視点で見てもトップクラス。西野監督時代のガンバでFW陣があれだけのスコアを残せたのは二川の存在を抜きにしては語る事は出来ず、中東に移籍したブラジル人FWは退団の際に口を揃えて「二川も連れて行きたい」と語ったんだだとか。今でも二川のアシスト集は見ていて惚れ惚れするほどの美しさを持っている上に、ドリブルやミドルシュートのセンスにも長けていて自分で得点を取り切る事も出来る。クラブW杯のマンチェスター・ユナイテッド戦、もし二川が居れば…というのはガンバファンの多くが持つ心残りだろう(ベンチ入りはしたが負傷中だった)

究極の無口&人見知りとして知られ、中村俊輔の「二川くんっていつもああなの?」しかり、それに関連した伝説エピソードも数多く残しており、そのキャラクターも相まってファン感謝祭ではオチや目玉として扱われがち。初めて10番を背負った2003年、目標ゴール数を5点に設定したところ、その受け答えを見ていた西野監督に「背番号!」と強制的に10得点に設定されたが、最終的には5点に落ち着いた。

現在はティアモ枚方の選手としてプレーする一方、ガンバの小学生年代の指導者や鍼灸院の経営などセカンドキャリアを見据えた活動もしている。余談だが、ティアモ枚方は元々新井場徹播戸竜二稲本潤一の3人が共同オーナーとして設立したクラブである(現在はオーナー業からは撤退)

 

 

 

ボランチ部門】

 

 

第5位

明神智和

★キャプテン経験者(2010〜2012)

 

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生年月日:1978年1月24日

在籍年:2006〜2015

背番号:17

獲得タイトル:ゼロックス杯(2007、2015)リーグ杯(2007、2014)、パンパシフィック杯(2008)、AFCチャンピオンズリーグ(2008)天皇杯(2008、2009、2014、2015)J2リーグ(2013)J1リーグ(2014)

獲得個人タイトル:Jリーグ優秀選手賞(2007〜2009)

日本代表通算成績:26試合3得点(2000〜2003)

【ガンバでの成績】

リーグ戦通算:250試合14得点

公式戦通算:116試合19得点

 

ガンバ加入前に日韓W杯にも出場したMFは、柏時代の恩師でもある西野監督の下で「黄金の中盤」の一角を形成。遠藤や二川が持ち前のパスセンスを120%発揮できたのは明神の存在があったからこそであり、その運動量は明神が一人しか存在しないという当たり前の事実すら疑わせるほどだった。守備職人のイメージが強いが、ミドルシュートや機を見た飛び出しなど攻撃センスにも優れており、特に2007年第13節千葉戦で決めたゴールは明神という選手の魅力全てを詰め込んだようなゴールと言える。2013年以降は出番こそ減ったが、出れば確実に仕事をするなど職人ぶりには磨きがかかっていた。

その濃い見た目からファン感謝デー等ではテルマエ・ロマエムエタイ選手の扮装をさせられるなどお茶目な一面も持つ。新スタジアム移転直前にガンバを退団したが、移籍先となった名古屋が市立吹田サッカースタジアムこけら落としの対戦相手だった為、結果的に明神もこけら落としに出場する事が出来た。現在はガンバユースのコーチを務める。

 

 

第4位

今野泰幸

 

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生年月日:1983年1月25日

在籍年:2012〜2019.7

背番号:15

獲得タイトル:J2リーグ(2013)Jリーグ杯(2014)J1リーグ(2014)天皇杯(2014、2015)ゼロックス杯(2015)

獲得個人タイトル:Jリーグ優秀選手賞(2014)、Jリーグ月間MVP(2018年9月)など

日本代表通算成績:93試合4得点(2005〜2015、2017)

ガンバ所属選手としての国際大会出場:2013年コンフェデ杯、2014年ブラジルW杯、アジアカップ2015

【ガンバでの成績】

リーグ戦通算:210試合17得点

公式戦通算:282試合23得点

 

入団初年度の2012年、当時の日本代表は海外組の割合が増しており、Jリーガーでレギュラーなのは今野、遠藤、前田遼一のみだったからこそ、同年最大の大型移籍として注目度もすこぶる高かった。しかしセホーン&呂比須体制の大混乱の中で、守備を建て直すどころか濁流に飲み込まれる形になった今野はその後2014年のブラジルW杯終了までスランプに陥る事にり、当時は「舌を噛んで死にたい」発言が飛び出す追い詰められていた。

だがW杯終了後は盟友・遠藤とのWボランチがいわば無双状態と化してチームも好調に転じ、念願のリーグ優勝を含む三冠を達成。2015年以降は守れる・走れる・点も取れるとガンバ自体が「今野依存症」と言ってもいい状態となった。特に圧巻だったのが2018年で、負傷の影響でシーズンの2/3ほどを欠場している間にガンバは降格圏に低迷。しかし今野が復帰した第25節で当時2位の川崎に完封勝利をすると、そこから一気に9連勝という離れ業をやってのけた。あそこで今野が戻ってなかったらと思うとゾッとする。

運命めいたものを感じるといえば、2005年のガンバ初優勝の際…セレッソから引きずり下ろす同点ゴールを奪ってガンバの劇的優勝を演出したのも今野だった。ちなみに、市立吹田サッカースタジアムで最初にゴールを決めたガンバの選手も今野である(第1号はオウンゴール)。現在はジュビロ磐田で遠藤、大森といった2014年三冠メンバーらと共にJ1昇格を目指す。

 

 

第3位

稲本潤一

★ガンバユース出身

 

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生年月日:1979年9月18日

在籍年:1997〜2001.7

背番号:29(1997)→6(1998〜2001.7)

獲得個人タイトル:AFC月間最優秀選手賞(2000)、Jリーグベストイレブン(2000)など

日本代表通算成績:82試合5得点(2000〜2010)

ガンバ所属選手としての国際大会出場:1999年ワールドユース、2000年シドニー五輪アジアカップ2000、2001年コンフェデ杯

【ガンバでの成績】

リーグ戦通算:118試合16得点

公式戦通算:143試合17得点

 

ユース時代からその才能は突出しており、1997年には飛び級でトップチームに昇格するどころかレギュラーを獲得。エムボマらと共演した同年は2ndステージの優勝争いにも絡むなど、17歳にして絶対的な存在となった稲本は、当時中堅クラブに過ぎなかったガンバに於ける最大のスターであり、希望であった。実際、ガンバ所属選手で代表常連となったのは稲本が最初である。それと同時に、アジアカップ2000やシドニー五輪、そして2得点を挙げて国民的英雄となった日韓W杯を始めとした日本と海外での活躍はガンバ大阪ユースの評価を決定的に高め、現在にも通ずるブランドとしての礎を築いたと言っても過言ではない。

稲本に関するエピソードは多く、一番有名なのは1998年1st第12節平塚戦で都並敏史を吹っ飛ばしたプレーが都並に現役引退を決意させた話だろうか。1998年5月から1999年6月までガンバの指揮を執ったフレデリック・アントネッティは退任の際、欧州で所属する日本人選手がほとんどいなかった時代に稲本をフランスに連れて帰ろうとしたという(その後、2009年に自身が監督を務めるフランスのレンヌで稲本を獲得)。また、高校生Jリーガーの元祖といえば稲本というイメージが強いが、実際のところ現役高校生Jリーガーとしては稲本は2番目であり、史上初は当時市原(千葉)に所属していた山口智である。山口は2001年にガンバに加入。稲本は同年の7月にアーセナルに移籍した為わずか半年のみだったが、現役高校生Jリーガーの初代と2代目が同じチームでプレーした時期があった。

 

 

第2位

橋本英郎

★ガンバユース出身

 

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生年月日:1979年5月21日

在籍年:1998〜2011

背番号:27

獲得タイトル:J1リーグ(2005)ゼロックス杯(2007)リーグ杯(2007)、パンパシフィック杯(2008)、AFCチャンピオンズリーグ(2008)天皇杯(2008、2009)

日本代表通算成績:15試合0得点(2007〜2010)

ガンバ所属選手としての国際大会出場:アジアカップ2007

【ガンバでの成績】

リーグ戦通算:287試合18得点

公式戦通算:414試合23得点

 

遠藤、二川、明神と形成した「黄金の中盤」のうちの一人。ユースの同期が稲本や新井場だった為にやや遅咲きだったが、オシムジャパン岡田ジャパンでは日本代表にもコンスタントに招集されていた名MFとして知られる。堅実な技術と豊富な運動量、そして卓越したサッカーIQと戦術眼を駆使し、当時のチームメイトや西野監督から絶大なる信頼を得ていた。本職はボランチだが、サイドハーフサイドバックは両サイドこなせるなど万能性も高い。当時は遠藤や二川がいた事もあって「守備の人」というイメージが強かったが、クラブW杯のマンチェスター・ユナイテッド戦でのゴールや2010年の6試合連続ゴールなど攻撃センスも光る。

「プロと大学を両立した選手」といえば同志社大学と掛け持ちしていた宮本が有名だが、橋本も天王寺高校から大阪市立大学に進学し、プロと両立しながら卒業したバケモノレベルの頭脳の持ち主で、現在もFC今治でプレーする傍ら経営者としても活動しており、サッカーダイジェストで連載しているコラムの内容も好評だった。ちなみに祖父の橋本三郎は千葉ロッテマリーンズの前身の一つである金星スターズのオーナーを務めていた。

 

 

 

第1位

遠藤保仁

★キャプテン経験者(2013〜2017)

 

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生年月日:1980年1月28日

在籍年:2001〜2020.10

背番号:19(2001)→30(2002)→7(2003〜)

獲得タイトル:J1リーグ(20052014)、ゼロックス杯(2007、2015)リーグ杯(2007、2014)、パンパシフィック杯(2008)、AFCチャンピオンズリーグ(2008)天皇杯(2008、2009、2014、2015)J2リーグ(2013)

獲得個人タイトル:Jリーグ優秀選手賞(2003〜2012、2014〜2015)、Jリーグベストイレブン(2003〜2012、2014〜2015)、AFCチャンピオンズリーグMVP(2008)、日本年間最優秀選手賞(20082014)、アジア年間最優秀選手賞(2009)、Jクロニクルベストベストイレブン(2013)、J2 Most Exciting Player(2013)、JリーグMVP(2014)など

日本代表通算成績:152試合15得点(2002〜2015)

ガンバ所属選手としての国際大会出場:2003年コンフェデ杯アジアカップ2004、2005年コンフェデ杯、2006年ドイツW杯、アジアカップ2007、2010年南アフリカW杯、アジアカップ2011、2013年コンフェデ杯、2014年ブラジルW杯、アジアカップ2015

【ガンバでの成績】

リーグ戦通算:605試合98得点

公式戦通算:787試合124得点

 

もはや説明不要であり、遠藤保仁こそが「ガンバ史上最高の選手」である事に異を唱える人物は少ないだろう。2001年に京都から移籍した当初こそ目立つ存在というほどでは無かったが、初優勝の2005年の頃にはすっかりチームの攻撃を司る選手にまでなっていた。日本代表での活躍もあってそのプレースタイルは広く知られているので、今更遠藤保仁という選手の特徴についてはあえて語らないが、ガンバの繁栄が遠藤抜きでは考えられないのは言うまでもない。遠藤個人としての伝説、そしてガンバの栄光の全てはこのクラブで刻まれた。それはこれからも、ガンバ大阪という概念が生き続ける限り色褪せる事は無いだろう。ガンバファンとしては監督・宮本恒靖とMF・遠藤保仁の組み合わせは夢でしかなかったし、それが実現する日が来るとは思ってもみなかった。

契約上は今もガンバの選手ではあるが、現在はレンタル移籍として磐田でプレーしており、やはりここでもチームの心臓となっている。いつかは来る引退までに再びガンバに戻る日はくるのか、いつかガンバの監督を務めるような日はくるのか、そして…いつか遠藤保仁が背負った「背番号7」を背負うに相応しい選手は現れるのだろうか。もはやJリーグにとってヤット大先生はレジェンドではなく歴史的偉人である。

 

 

 

次回はDF編です!

 

 

黄金の中盤

ではでは(´∀`)