気が付いたら智さん湘南の監督になってた。
どーもこんばんは
監督、山口智#ガンバ大阪#湘南ベルマーレ#天皇杯 pic.twitter.com/o09ilzoKc5
— R (@blueblack_gblue) 2021年9月22日
さてさて、本日もガンバ大阪クラブ創立30周年記念企画「独断と偏見で選ぶガンバ大阪歴代選手ポジション別ランキング」の第3回です。
この企画の詳しいことは第1回(FW編)、及び第2回(MF編)の方をご覧いただけますと幸いです。
今回はDF編!黄金期は攻撃的サッカーのイメージが強かったガンバですが、代表選手は結構守備者からも出てるんですねぇ……今回もセンターバック編とサイドバック編に分けて作っていきます。それでは見ていきましょう。
※データは2020年シーズン終了時のデータです。また、あくまで成績はトップチームに限り、ガンバ大阪U-23での成績は含みません。
↓
【サイドバック編】
第5位
生年月日:1988年5月17日
在籍年:2014〜2019.7
背番号:14
獲得タイトル:Jリーグ杯(2014)、J1リーグ(2014)、天皇杯(2014、2015)、ゼロックス杯(2015)
日本代表通算成績:2試合0得点(2015)
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:120試合5得点
公式戦通算:178試合9得点
元々は2列目の選手だったが千葉に所属していた2013年から右SBにコンバート。同年のガンバ戦で活躍したインパクトもあったのか、その翌年にに右SBとしてガンバに移籍した。当初は加地の控えという立場だったが、加地のアメリカ移籍以降はオ・ジェソクと激しいレギュラー争いを展開し、2014年の三冠にはレギュラーとして立役者の一人となる。尚、長谷川健太監督は獲得時に「米倉だけは獲ってほしい」と強く要望していたらしい。ハリルジャパンでは2015年に日本代表デビューも果たした。
米倉といえば印象深いのは、ガンバ史上最も劇的な試合と呼ばれる事も多い2015年のACL準々決勝全北現代戦での決勝ゴールだが、今や伝説となった同年のチャンピオンシップ準決勝浦和戦のに「丹羽大輝セルフカウンターからの藤春廣輝のゴール」をアシストしたのも米倉で、2018年には宮本監督体制初ゴールも叩き出すなど重要な試合でのゴールやアシストも多い。
第4位
★ガンバユース出身
生年月日:1987年12月20日
在籍年:2006〜2010
背番号:33(2006)→13(2007〜2010)
獲得タイトル:ゼロックス杯(2007)、リーグ杯(2007)、パンパシフィック杯(2008)、AFCチャンピオンズリーグ(2008)、天皇杯(2008、2009)
獲得個人タイトル:ナビスコカップニューヒーロー賞(2007)、ナビスコカップMVP(2007)など
日本代表通算成績:7試合1得点(2008〜2009、2011)
ガンバ所属選手としての国際大会出場:2007年U-20W杯、2008年北京五輪
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:111試合1得点
公式戦通算:172試合6得点
「G6」と呼ばれた2006年昇格組6名の筆頭格。初年度の出場機会は乏しかったが、翌年にMFから左SBにコンバートされると超攻撃的SBとして定着し、2007年のナビスコ杯決勝川崎戦では安田のゴールが優勝決定弾となりガンバの優勝の立役者に。同大会のニューヒーロー賞とMVPをダブル受賞したのは現在も安田を含めて3人しかいない(安田は史上2人目)。
Jリーグ初ゴールより先にナビスコ杯決勝とACL決勝、更には代表戦で得点を決めた稀有なキャリアを持ち、101試合目にしてようやく挙げたJ初ゴールも安田にとって初の大阪ダービーでの決勝点だったなど何かと持っている選手である。少年時代からガンバファンで、初めて観に行った試合は清水戦だったそうだが、自身のデビュー戦の相手も清水となった。現在は千葉でプレーしており、一時期は下平匠、米倉とガンバの歴代SBが揃い踏みしていた、
ムードメーカーというか、圧倒的な話術を駆使したお笑い担当としても印象深く、ジュニアユース時代の一年先輩である本田圭佑をイジリにイジったブログは伝説レベル。また、クラブW杯マンU戦の後にクリスティアーノ・ロナウドがガンバのユニフォームを身に纏う写真が有名だが、あれは安田と交換したユニフォームである。
第3位
★ガンバユース出身
生年月日:1979年7月12日
在籍年:1997〜2003
背番号:31(1997)→17(1998〜2003)
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:140試合13得点
公式戦通算:181試合18得点
今となっては「鹿島のレジェンド」という印象の方が強いが元々はガンバユース出身選手であり、19歳だった1998年に30試合出場を果たすなど稲本潤一や宮本恒靖らと共に当時のガンバの大いなる希望と言える選手だった。鹿島ではバランス型SBのイメージが強いが、優勝争いに絡んだ2000年にサイドバックにも関わらず7得点を挙げた事実が示すようにガンバでは超攻撃的SBとして君臨。ユース同期の稲本、同い年の播戸竜二とは仲が良く、JFLに所属しているティアモ枚方は元々この3人が共同オーナーとして設立したクラブだった(現在は3人ともオーナー業から撤退)。
ガンバ退団時には西野監督との確執があったとされているが、2011年に西野監督がガンバを退任した際には宮本・播戸と4人で食事を共にするなど、現在はギクシャクした関係も解消されていると見られる。
第2位
生年月日:1988年11月28日
在籍年:2011〜
背番号:15(2011)→4(2012〜)
獲得タイトル:J2リーグ(2013)、Jリーグ杯(2014)、J1リーグ(2014)、天皇杯(2014、2015)、ゼロックス杯(2015)
獲得個人タイトル:Jリーグ優秀選手賞(2016)
日本代表通算成績:3試合0得点(2015〜2016)
ガンバ所属選手としての国際大会出場:2016年リオデジャネイロ五輪
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:274試合12得点
公式戦通算:362試合14得点
新井場、安田と続く攻撃的SBの系譜を継ぐ超速サイドバック。大卒ルーキーとして入団した初年度からコンスタントに出番は得ていたが、第31節鹿島戦でラフィーニャの得点をアシストした一連のプレーを機に下平からスタメンの座を奪取。以降、ガンバの左SBとして10シーズンに渡って絶対的な存在として君臨しており、その化け物じみたスプリント力とスタミナは言うまでもなくリーグ屈指で、左サイドをトップスピードでぶっちぎれるクロスをフリーの状態で上げる事が出来る。特に日本代表デビューも果たした2015年の働きは圧巻で、左サイドで縦の関係になる事も多い倉田秋とはゴールデンコンビとして知られる。近年は怪我が増えて稼働率は下がってしまった一方で、プレーそのものは以前よりも洗練されてきているのが印象的。
貴重な生え抜きかつ、ガンバ一筋11シーズン目となる選手で、J2に降格した2012年には某J1クラブからのオファーを断ってまで残留してくれた。一方、チーム内でもきっての変人キャラとしても知られており、ファン感謝デーでは大体半裸である。
第1位
生年月日:1980年1月13日
在籍年:2006〜2014.6
背番号:21
獲得タイトル:ゼロックス杯(2007)、リーグ杯(2007)、パンパシフィック杯(2008)、AFCチャンピオンズリーグ(2008)、天皇杯(2008、2009)、J2リーグ(2013)
獲得個人タイトル:Jリーグベストイレブン(2006)、Jリーグ優秀選手賞(2006、2007)
日本代表通算成績:64試合2得点(2003〜2008)
ガンバ所属選手としての国際大会出場:2006年ドイツW杯、アジアカップ2007
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:225試合2得点
公式戦通算:298試合6得点
リーグ初優勝の翌年、2006年にガンバは総額6億円に及ぶ大型補強を行なったが、その中でも最大の注目がドイツW杯を控えるジーコジャパンの不動のレギュラーであった加地の獲得だった。デビュー戦となる浦和との開幕戦では、三都主アレサンドロとの日本代表両翼対決としても注目されたが、その試合で胸トラップから鮮やかなゴールを決めた鮮烈なデビュー戦を覚えている人も多いはず。
それまでは右サイドのレギュラーをなかなか決め切れていなかっただけに、加地の獲得はガンバのステージを更に一段引き上げたのは言うまでもない。「超攻撃」を掲げるチームの中でうまくサイドでバランスを取り、かつ機を見た攻撃参加は間違いなくチームのキーパーソンだった。唯一の難点は怪我が多かった事で、加地がいる時といない時ではガンバのパフォーマンスは目に見えて安定感がまるで違い、それだけ加地の存在は大きかったと言える。
遠藤や播戸とは同世代という事もあり、ガンバ加入前から親交が深い。ファン感謝デーでの暴走でも伺えるようにお笑い担当選手の一人でもあった一方、身体のケアに対するストイックな姿勢は「加地より早くクラブハウスに来た選手はいない」という伝説が生まれた程であり、オ・ジェソク曰く加地より早く来ようとしても2番目が限界だったらしい。現在はDAZNでの解説やガンバ公式YouTube「CAZI散歩」のMCを務める他、妻がオープンした飲食店「CAZI CAFE」を手伝っている。ここがクソ美味いの。
【センターバック部門】
第5位
生年月日:1986年9月24日
在籍年:2012.7〜2016
背番号:13(2012)→8(2013〜)
獲得タイトル:J2リーグ(2013)、Jリーグ杯(2014)、J1リーグ(2014)、天皇杯(2014、2015)、ゼロックス杯(2015)
日本代表通算成績:0試合0得点(2009)
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:95試合4得点
公式戦通算:125試合6得点
降格危機に瀕した2012年夏、緊急大型補強の一人としてレンタル移籍で清水から獲得した。代表経験があるだけあって好プレーは見せたもののチームの降格は止められず自身も最も重要なラスト2試合を出場停止で欠場という事態になってしまった事への責任もあり、J1からのオファーを蹴ってまでJ2での戦いを強いられるガンバへの完全移籍を選択。J1への復帰、そして翌年の三冠達成に多大なる貢献を果たした。やや怪我がちで稼働率はそこまで高くなかったが、出場時のレベルは高く、今野泰幸や丹羽大輝らと守備に課題のあったガンバを立て直した。
時折ラフプレーという形で物議をかもす事もあったが、伝統的にクールタイプのキャラが多いガンバでは稀有で貴重なキャラであり、当時の主将格である明神智和や遠藤保仁とのキャラクター的なバランスも良かった。「岩下兄貴」という愛称が定着するように若手選手への面倒見の良さも知られており、宇佐美貴史や大森晃太郎らは今なお岩下を慕う。ガンバ退団後に移籍した福岡では冨安健洋の成長にも一役買った。
第4位
生年月日:1982年10月26日
在籍年:2007〜2012
背番号:2
獲得タイトル:ゼロックス杯(2007)、リーグ杯(2007)、パンパシフィック杯(2008)、AFCチャンピオンズリーグ(2008)、天皇杯(2008、2009)
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:136試合14得点
公式戦通算:212試合19得点
「ガンバで最もスゴい」のは、ある意味では…物の捉え方、角度によっては中澤なののかもしれない。
柏とFC東京では泣かず飛ばずだった為、順位も選手層も上のガンバに移籍した時は「なんでまた?」「中澤佑二じゃなくて?」的な風潮すらあった。しかしガンバ移籍後は初年度こそ試合出場は少なかったものの全試合でベンチ入りを果たす。そして2008年、開幕前に現役日本代表だった水本裕貴を獲得したガンバだったがなかなか水本の状態が上がらず、第3節東京V戦でスタメンに抜擢されると、それ以降水本が中澤からポジションを奪う事は出来なかった。Jリーグ史に残る過密日程となった同年のほぼ全ての試合に出場してACLと天皇杯の優勝に貢献。ガンバは翌年も高木和道とパク・ドンヒョクの日韓代表CBを獲得したが、気が付けば山口智の相棒を務めているのはいつも中澤だった。当時のガンバが目指すスタイルに於いて、守備に少々の不安があっても遠藤率いる「黄金の中盤」に縦パスを強気に入れられる中澤は合っていたのだろう。長身を活かした得点力も高かった。
明るい性格から安田理大、木村敦志、武井択也らと共にムードメーカーとしても活躍。引退後はガンバでのスカウト業を経て、現在は代理人として活動している。西野監督を命の恩人と語り、明神智和を師と仰ぐ。
第3位
★キャプテン経験者(2005)
生年月日:1972年5月13日
在籍年:2004〜2007
背番号:2(2004〜2006)→5(2007)
獲得タイトル:J1リーグ(2005)、ゼロックス杯(2007)、リーグ杯(2007)
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:122試合9得点
公式戦通算:171試合16得点
4クラブでプレーするなど既にJリーグでの経験も豊富だっただけに確実に計算できるDFとして獲得したが、その期待通りに4シーズンで抜群のパフォーマンスを残す。フィジカルの強さや戦術眼、元々ボランチだった為に足下の技術も高く、宮本、山口と組んだ3バックはビルドアップにも長けたCBとして攻撃陣を支えるなど、西野監督からの信頼はとても厚かった。引退後の2013〜2015年にはガンバでコーチを務め、J1復帰と三冠達成に大きく貢献した。日本語にも堪能で人間性も絶賛されており、2005年には外国人選手ながらも主将を務めたので初優勝時のキャプテンである。
ネットスラングとして、サッカーや野球で攻守を見せた選手に対して某漫画のフレーズである「残念、そこは○○だ」が用いられる事が多いが、これが多用されるようになったきっかけは2005年のナビスコ杯決勝にて、千葉の攻撃を跳ね返すシジクレイの姿を実況の西岡孝洋氏が「そこはシジクレイだ!」と叫び、それにちなんで「残念、そこはシジクレイだ」というスレとアスキーアートがウケたのがきっかけ。
第2位
★キャプテン経験者(2000、2004)
☆ガンバユース出身
生年月日:1977年2月7日
在籍年:1995〜2006
背番号:20(1997〜1999)→5(2000)→35(2001〜2002)→5(2003〜2006)
獲得タイトル:J1リーグ(2005)
日本代表通算成績:71試合3得点(2000〜2006)
ガンバ所属選手としての国際大会出場:1997年ワールドユース、2000年シドニー五輪、2002年日韓W杯、2003年コンフェデ杯、アジアカップ2004、2005年コンフェデ杯、2006年ドイツW杯
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:295試合7得点
公式戦通算:363試合9得点
日本サッカー史に残るキャプテンであり、センターバック。いわゆるガンバユース一期生で、ユース出身選手として初めてピッチに立った選手でもある。ユース時代は一期生という事で入団時から上級生がいなかった為、3年間ずっとキャプテンを務めた。日本代表での印象もあってTHE・キャプテンのイメージが強いが、意外にもガンバでは正式に主将を務めたのは2000年と2004年のみである(これは代表とクラブの2チー分の主将を務める事で負担が増す事を考慮したものでもある)。
3年目となる1997年からレギュラーに定着。シドニー世代の選手が多く台頭したチームの中で存在感を発揮し、1997年以降は退団する2006年までオールスターに1998年以外毎回選ばれるなど(2003年は怪我で辞退)、稲本と共にクラブの顔として君臨した。2002年日韓W杯ではガンバユース出身として出場した二人が「主役」として活躍した事になる。西野監督就任後は本人が最も得意とする3バックの中央で起用され、優勝のかかった2005年最終節では得点も挙げた。優勝決定直後にはクールなキャラとして知られる中で人目を憚らずに号泣し、Jリーグ史に残る名シーンとなっている。
2006年を最後にレッドブル・ザルツブルクに移籍し、その後2011年に神戸で現役引退。2015年からアカデミーのコーチとしてして復帰すると、ユース監督・U-23監督を経て、ガンバファンの誰もがいつかその日が来る事を信じていたトップチームの監督に2018年7月より就任。2021年5月まで監督を務め、監督としての勝利数は西野朗・長谷川健太に次いでクラブ歴代3位となっている。
私にとっても、宮本恒靖と大黒将志、遠藤保仁はガンバファンになるきっかけを作った3人でもある。2021年5月の解任は仕方なかった反面、誰もが望んだ別れの形では無かった。またどこかで、どこかのタイミングで再会がある事を祈っている。
第1位
★キャプテン経験者(2006〜2009)
生年月日:1978年4月17日
在籍年:2001〜2011
背番号:5(2001〜2002)→6(2003〜2007)→5(2008〜2011)
獲得タイトル:J1リーグ(2005)、ゼロックス杯(2007)、リーグ杯(2007)、パンパシフィック杯(2008)、AFCチャンピオンズリーグ(2008)、天皇杯(2008、2009)
獲得個人タイトル:Jリーグベストイレブン(2006〜2008)、Jリーグ優秀選手賞(2006〜2009)
日本代表通算成績:2試合0得点
【ガンバでの成績】
リーグ戦通算:320試合32得点
公式戦通算:454試合49得点
ガンバの誕生から繁栄までの軌跡を紡いだリーダーが宮本ならば、繁栄から黄金期を築いた軌跡を体現したのが山口だった。ディフェンスリーダーとして多くの選手に影響を与えるのみならず、元々MFでデビューしただけあってDFラインからガンバのポゼッションスタイルを支え、セットプレーではDF離れした得点力を発揮。遠藤のセットプレーに山口が頭で合わせるのは当時の黄金パターンの一つであり、2006年にはDFながら公式戦で8得点を挙げた。ガンバが獲得した9つのタイトルのうち、2008年のACLを筆頭とした4つは山口の手によって掲げられている。宮本、シジクレイから受け継ぎ、丹羽大輝、三浦弦太に引き継いだ背番号5は、今やガンバのDFリーダーに与えられる称号のような背番号になっている(ただし、2001年は開幕前に宮本の海外移籍が成立寸前まで行った事から世間の印象より先に5番を背負っている)。
2015年に京都で引退し、2016年2月のパナソニックスタジアム吹田のこけら落としの前座試合として引退試合を開催。その後は宮本恒靖、松代直樹と共にU-23及びトップチームのコーチに就任し、宮本監督の就任に併せてヘッドコーチに就任。2020年限りで退任したが、選手からは感謝の声も多く聞かれた。2021年8月からは湘南の監督に就任し、湘南と監督としてパナスタに乗り込んだ9月の天皇杯では盛大な拍手によって迎えられている。
次回、いよいよオーラス!GK&監督編です!
ヤット→智さんセットプレーライン…智さんツネ様シジクレイ3バック…
ではでは(´∀`)