QUEENいつ観に行こうかしら
どーもこんばんは
さてさて、昨日のJリーグ第32節、ガンバ大阪vs湘南ベルマーレで偉大な記録が達成されました。
遠藤保仁、J1通算600試合出場達成。
我らがヤット大先生が遂に600試合の大台に辿り着きました。これまでにこの記録に辿り着いた選手は名古屋グランパスのGK楢崎正剛ただ1人。即ちフィールドプレーヤーとしては史上初の偉業となります。
今更ではありますが、ここでヤット大先生の生ける伝説とも言える軌跡を改めて振り返ってみましょう。
高校サッカーの名門、鹿児島実業高校から1998年に横浜フリューゲルスに入団。本人もその後のプレースタイル形成に大きな影響を与えたというカルロス・レシャック監督の下で現在の日産スタジアムの杮落としでもあった開幕戦に先発出場。そして1年目からチームの消滅という波乱のスタートを迎えます。
フリューゲルスの消滅に伴い、同期入団の手島和希、辻本茂輝らと共に京都パープルサンガに移籍。そう、彼も所謂「サンガの歴代ベストイレブンくっそ強い説」の主軸を担う1人です。京都では2シーズンプレーし、シドニー五輪出場は逃したものの黄金世代で1999年ワールドユース準優勝に貢献。飛躍の足場を固めた2シーズンとなりました。
そして「遠藤のガンバでの軌跡=ガンバ栄光の歴史」と言っても過言ではない18シーズンの幕開けとなったのが2001年。
世代別代表で共にプレーした宮本恒靖、吉原宏太、山口智、同年代の二川孝広、橋本英郎、大黒将志らといった才能が2002年の西野朗監督就任の頃から一気に花開きます。
2002年に日本代表デビューを飾ると2003年には初のベストイレブンを受賞。ガンバがここから築き上げる事になるパスサッカーのキーマンとなり、2005年には遂にJリーグ優勝を達成。
直前に行われたナビスコ杯決勝では自身のPK失敗という苦い思いもしましたが、この優勝決定戦ではPKを自ら決めてみせてリーグ戦で10ゴール。アラウージョ、大黒の異次元ツートップに目が行きがちなこのシーズンですが、遠藤抜きでは語れないのも誰もが共通して抱くところです。
この頃にはすっかり遠藤は欠かせない存在に。2006年、遠藤の離脱が無ければ…というタラレバを思い浮かべる人は多いでしょう。
しかし遠藤のプレーヤーとしての最盛期はここから先でした。遠藤保仁、二川孝広、橋本英郎、明神智和で形成された黄金の中盤を軸に2008年には遂にアジアチャンピオンズリーグを制覇。2009年には遠藤自身もアジア年間最優秀選手を受賞。名実共に日本サッカー、いや、アジアサッカー史にその名を刻みます。
日本代表としても3度のW杯に出場するなど、クラブ、代表両方に於いて不可欠な存在となった遠藤ですが、2012年、ガンバはまさかのJ2降格…。
J2降格……それによってクラブの主力が大量流出が起こる事はザラです。しかし遠藤は誰よりも早く残留宣言。チームの大黒柱が真っ先に宣言した事はガンバが大規模な流出を回避出来た要因として小さくはないでしょう。
長谷川健太監督と下でJ2を制したガンバは、J1に返り咲くと2014年にJ1昇格即三冠という前代未聞の偉業を達成。遠藤もJ1MVPを受賞し、2015年、2016年も好成績をキープ。西野体制での黄金期も、長谷川体制での黄金期も、いつもその中心には背番号7が君臨していました。
とはいえ、年齢的な影響もあってさすがに近年では守備力などは衰えきています。それでも随所に「らしさ」を見せ、チームのポゼッションを円滑に進めるには今でも必要不可欠な選手。特に今シーズン、今野泰幸の復帰以降は守備でも負担が軽減された事もあって攻撃面で大きな輝きを放ち、怒涛の8連勝にも大きく貢献。
冷静沈着、マイペース、司令塔…遠藤保仁を語る上で枕詞は多く出てきますが、その存在感はもはや居るだけでチームに落ち着きと安定をもたらしているとも言えます。
遠藤の最大のポイントは同業者からの評価が半端なく高いところ。これからも間違いなくガンバ史上最高の選手として輝き続ける事でしょう。
もちろん来シーズンも、かつて共にプレーした宮本恒靖監督と共に素晴らしい働きを見せてくれるはずです。
後どれくらい遠藤のプレーをガンバで見られるかはわかりませんが、遠藤がガンバに君臨しているこの時代にガンバファンで居る事が出来た事は感謝してもしきれません。
全てはここから。マスターオブガンバ!
ではでは(´∀`)