1993年に開幕したJリーグ。30周年のアニバーサリーイヤーとなるのは来年ですが……今年は記念すべき30シーズン目のシーズンになっています。
という訳で、当ブログでもJリーグ30シーズンの歴史を振り返る様々な企画をやっていこうじゃないかという事で、前回からオリジナル10の10クラブが、それぞれ歩んだ30年史を10年単位で分けてざっくり振り返るブログを書いております。
前回は東日本編という事で鹿島アントラーズから横浜マリノスまでの5チームを取り上げました。というわけで今回は横浜フリューゲルスより西の5チームです。
今回取り上げる5チームはいずれもJリーグ開幕戦を5月16日に行った5チームですね。
※最長指揮監督・最多出場選手・最多得点選手は2022年5月15日時点での記録とします。
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【オリジナル10の10クラブ(当時のホームスタジアム)】
【開幕戦の結果】
1993年5月15日(土)
1993年5月16日(日)
13:05 横浜フリューゲルス3-2清水エスパルス@三ツ沢公園球技場
13:59 サンフレッチェ広島2-1ジェフユナイテッド市原@広島スタジアム
16:00 鹿島アントラーズ5-0名古屋グランパスエイト@茨城県立カシマサッカースタジアム
19:04 ガンバ大阪1-0浦和レッドダイヤモンズ@万博記念競技場
J1最高順位:3位(1996)
リーグ杯最高成績:ベスト4(1993,1997)
天皇杯最高成績:優勝(1993,1998)
最長指揮監督:加茂周(1992〜1994)
最多出場選手:山口素弘(1992〜1998)
最多得点選手:エバイール(1995〜1996)
【1993〜1998】
全日空のチームを前身とし、全日空と佐藤工業が共同出資する形で参加したクラブであり、30シーズンの歴史で「唯一Jリーグから姿を消したクラブ」である。
Jの中で元々特徴的なキャラクター性を持つクラブとして認識されており、後に日本代表監督も務める加茂周が率いた初年度はゾーンプレスを実践して話題に。リーグでの成績は芳しくなかったが、Jリーグ開幕年の天皇杯を制した。エドゥー、ジーニョ、サンパイオ、エバイールといった実績ある外国人選手に、山口素弘や前園真聖といった日本人スターの誕生、更に当時の若手である楢崎正剛、三浦淳宏らが台頭。リーグ戦では1996年の3位が最高成績と伸び悩んだが、天皇杯やアジアカップウィナーズカップでの優勝や、前述のような個性溢れる選手の躍動、娯楽性のあるサッカーに人気は高かった。
だが1998年10月、佐藤工業がクラブ運営から撤退し、全日空も一社ではクラブを支えられないという事で、同じ横浜を本拠地とする横浜マリノスとの合併を発表。合併とは言っても、これはマリノスへの吸収合併であって事実上の消滅……プロ野球で言うところの、この6年後に発生するオリックスと近鉄バファローズの合併のようなケースだった。選手が街頭に立って署名活動を行い、まさしくクラブ間の垣根を越えた抗議運動が行われるも決定は覆らなかった。
それでもチームは、当時は出場機会に恵まれていなかった桜井考司による「強いフリューゲルスを見せよう」という言葉の下に神懸かり的なパフォーマンスを見せ、「負けたらクラブのラストゲーム」という状況下で磐田・鹿島と当時の二大巨頭を立て続けに撃破。勝っても負けても横浜フリューゲルスとして最後の試合となった天皇杯決勝では、先制されながらも久保山由清と吉田孝行のゴールで逆転勝利。この時の試合球は、当時の主将である山口素弘が今でも保管しているという。
フリューゲルスの最期は人々の記憶に生き続ける美談であると同時にそし、Jリーグの歴史に永遠と刻み込まれた負の歴史でもある事を忘れてはならない。フリューゲルスのような結末を迎えた事はJリーグが犯した失敗の一つでもあるが、それ以降フリューゲルスのような事態が起こらずに済んでいるのはその反省を活かせられた表れとも言える。諸権利の所在を含め、法的な意味でフリューゲルスの後継クラブにあたるのは吸収先である横浜F・マリノスだが、フリューゲルスの後を継ぐ意味合いで立ち上げられたクラブとして横浜FCが挙げられ、フリューゲルスの前身である全日空横浜サッカークラブの後継クラブとしてはYSCC横浜がある。尚、2022年のJリーグに登録されている選手の中で、フリューゲルス在籍歴を持つ選手は遠藤保仁が唯一である。
J1最高順位:準優勝(1999)
リーグ杯最高成績:優勝(1996)
天皇杯最高成績:優勝(2001)
ACL最高成績:グループステージ敗退(02-03)
最長指揮監督:長谷川健太(2005〜2010)
最多出場選手:伊東輝悦(1993〜2010)
最多得点選手:澤登正朗(1993〜2005)
歴代MVP受賞者:アレックス(1999)
【前期:1993〜2002】
オリジナル10で唯一、母体となる親会社を持たない市民クラブという立ち位置での開幕となったが、そこはやはりサッカーどころ清水。堀池巧、大榎克己、長谷川健太から成る"清水東三羽烏"や三浦泰年、澤登正朗など地元出身選手の活躍で開幕当初から好成績を残す。1997年には経営危機に陥ったがアルディレスにペリマンといった指導者の下で森岡隆三、伊東輝悦、戸田和幸、市川大祐、アレックスらが大活躍。1999年には2ndステージを制し、チャンピオンシップでの磐田との静岡ダービーは敗れこそしたが、この激闘は多くのJリーグファンの記憶に刻まれた。
【中期:2003〜2012】
2001年の天皇杯優勝を最後に低迷期に陥ったが清水だったが、2005年からOBである長谷川健太が監督に就任。初年度こそ残留争いに巻き込まれるが、同年の間に育成とスカウト体制を徹底して整えると、長谷川監督の積極的な若手起用とチョ・ジェジンやヨンセンといった外国人選手が融合。2006〜2010年の間は優勝争いにも絡み続けて、90年代後半ほどではないがクラブにとっての一時代を築き上げた。しかし3度の決勝進出がいずれも準優勝に終わるなど、長谷川健太と清水にはシルバーコレクターの印象が付く事になる。長谷川体制が終焉して発足したアフシン・ゴトビ体制は主力の大量流出から始まり、それでも2012年のナビスコ杯で決勝に進んだが、ここでも鹿島の前に敗れた。
【後期:2013〜2022】
サッカーの名門・清水にとって、なんなら磐田も含めた静岡サッカーにとっての長い暗黒期に突入したのが2013年と言っても過言ではない。2013年こそ磐田の降格を尻目に中位でシーズンを終えたが、2014年は最終節まで降格危機に瀕し、2015年は残留争いさえ出来ずに降格した。J1は復帰は1年で果たしたが、2017年以降は躍進した2018年を除いて、残留が決まった状態で最終節を迎えられていない。特に2021年はロティーナ監督の招聘に空前の大型補強を敢行したが、成績は振るわずにロティーナも途中解任となった。近年は「なにかあればとりあえず平岡か篠田に任せとけ」的な流れが目立つ。
J1最高順位:優勝(2010)
リーグ杯最高成績:優勝(2021)
天皇杯最高成績:優勝(1995,1999)
最長指揮監督:ドラガン・ストイコビッチ(2008〜2013)
最多出場選手:楢崎正剛(1999〜2018)
最多得点選手:ウェズレイ(2000.7〜2005.3)
歴代MVP受賞者:ストイコビッチ(1995)、楢崎正剛(2010)
歴代得点王獲得者:ウェズレイ(2003)、ジョシュア・ケネディ(2010、2011)、ジョー(2018)
【前期:1993〜2002】
最下位こそ免れていたが、イングランドのスーパースターであるガリー・リネカーの不振もあって最初の2年は低迷。ストイコビッチも1994年夏の加入当初は振るわなかった。しかし1995年、アーセン・ベンゲルの監督就任から全ての流れは一変する。ストイコビッチの大活躍もあって同年は3位に躍進するとともに天皇杯を制すと、翌年にはJリーグで準優勝。CSの代替大会として1996年だけ行われたサントリーカップでは唯一の優勝チームとなった。その後は優勝争いにはほとんど絡まなかったが、豊富な資金力を活かして中位よりちょっと上の位置は常にキープしていた。ちなみに当時のトヨタの方針もあって、2000年まで胸には「TOYOTA」ではなくチームロゴを掲載していた(規約上、ロゴは掲示しなければならなかったのでトヨタのロゴは袖に付いていた)。
【中期:2003〜2012】
2001年にストイコビッチが引退するとクラブとして成績がじわじわ下降。2005年は開幕ダッシュを飾りながらも、最終的には14位と残留スレスレの順位でシーズンを終えた。しかし2008年にはGMとしたら久米一正、そして監督してストイコビッチを招聘すると、クラブに黄金期が到来する。2008年にはベンゲル時代を彷彿とさせる魅力的なサッカーで3位に躍進すると、ケネディや田中マルクス闘莉王をスカッドに組み入れた2010年には攻守のバランスを調整し、遂に悲願のリーグ制覇を成し遂げた。翌年もリーグで準優勝を果たすなど、かつてのレジェンドであるピクシーの下で黄金期を築き上げた。また、これまで育成はおろそかになっていたクラブだったが、ピクシー政権の間に吉田麻也がユース選手として台頭している。
【後期:2013〜2022】
ストイコビッチ体制ラストシーズンとなった2013年シーズン終了後、慢性的な赤字体質改善を目的に複数の主力を放出。西野朗監督を招聘して世代交代を図った。しかし2016年、西野監督に代わって小倉隆史GM兼監督体制にシフトするとチームは崩壊。鹿島・横浜FMと共に降格未経験のオリジナル10として知られていたが遂に初降格を喫し、経営陣の対立も盛んに報じられた。一方、翌年は風間八宏を監督に招いて何とかプレーオフでJ1復帰を果たすと、2016年6月に正式にトヨタの子会社となった事で再び大型補強を度々敢行。2020年には久々にトップ3に入り、2021年にはルヴァン杯を制して3大タイトルをコンプリートした。尚、近年はクラブの営業活動の努力が身を結び、Jリーグでも有数の集客力を誇るクラブとしての地位が確立されつつある。
リーグ杯最高成績:優勝(2007,2014)
天皇杯最高成績:優勝(2008,2009,2014,2015)
最多出場選手:遠藤保仁(2001〜2020.10)
最多得点選手:遠藤保仁(2001〜2020.10)
歴代MVP受賞者:アラウージョ(2005)、遠藤保仁(2014)
歴代得点王獲得者:パトリック・エムボマ(1997)、アラウージョ(2005)、マグノ・アウベス(2006)
【前期:1993〜2002】
1994年までは関西で唯一のJクラブであり、かつ当時の日本サッカーにとって英雄的な存在であった釜本邦茂が監督に就くなど注目度は低くなかったが、蓋を開けてみれば浦和や名古屋、市原と共に「Jリーグのお荷物」と言われるようになる。ナビスコ杯でヴェルディに1-7で敗れ、当時の川淵三郎チェアマンに「ガンバなんて消えてなくなれ」と言われた話は有名で、1990年代はエムボマを擁して躍進した1997年以外は全てボトムハーフとなり、1995年に至っては年間最下位だった。一方、ヴェルディやマリノスなど一部チームを除いて多くのJクラブが下部組織をイチから作る必要に迫られた中で、ガンバは釜本氏が主宰していた釜本FCをスタッフ含めてそのままガンバユースとして移管する事が出来た。この事が育成部門で他クラブをリードする大きな要因となり、2000年には宮本恒靖や稲本潤一といったユース組の台頭で上位進出。そして2002年、西野朗を監督に招聘したところから歴史は一気に動き始めた。
【中期:2003〜2012】
ガンバの30年の歴史は前半後半で分けるより、「西野以前・以後」で分けた方がしっくりくる。2002年から2011年までの10シーズンに及ぶ西野体制は栄光の歴史だった。10シーズンでトップ3を逃したのは僅か2シーズン。2005年の劇的優勝、2008年のACLでの浦和戦、そしてその後のマンチェスター・ユナイテッドとのクラブW杯は今でも語り草である。「ガンバ=攻撃的サッカー」という認識を定着させるほどの魅力的なスタイルを築き、その上でJ1リーグやACLなど多くのタイトルも獲得。更に優秀なユース組織から多くの日本代表クラスが育ち……私自身がガンバファンだったので贔屓目は入るが、2000年代後半のガンバは「サッカーファンが求めるもの」の全てが詰まっていたと表現しても過言ではなかったと思うし、ガンバファンが未だに成績と内容のジレンマに苛まれる事が多いのは、実際に理想郷に間違いなく触れてしまった時期があるからこそとも言える。西野体制が終わって最初のシーズンとなる2012年、監督選びに失敗し、西野時代から続く問題を放置した上で拠り所を失ったガンバは落日の一途を辿る。前年に勝点70を積み上げたチームは、僅か1年でJ2降格という結末に至ってしまった。
【後期:2013〜2022】
初めてのJ2となる2013年は「ガンバノミクス」とも呼ばれた集客効果で話題になると共に、守備の再建と若手の育成を両立させて1年でJ1に復帰。迎えた2014年、開幕当初こそ苦しんで降格圏にまで陥ったが、宇佐美貴史の復帰とパトリックの加入を経た後半戦は大爆発。Jリーグ史上最大となる首位との勝点差14を逆転して2度目のJ1制覇を果たすと、J1制覇前に獲得していたナビスコ杯、J1制覇の翌週に制した天皇杯を合わせ、2000年の鹿島以来2チーム目となる三冠を達成。2011年の柏に次いで2例目となる昇格即優勝、そして当然ながら史上初となる昇格即三冠と記録ずくめの復活劇となった。しかし、2015年に天皇杯連覇を果たして以降は下降線を辿る。2020年こそ宮本恒靖体制で2位に入ったものの、2018年と2021年は終盤まで残留争いを余儀なくされた。2022年は西野体制・長谷川体制をコーチとして経験した片野坂知宏が監督に就任。復活というよりも新時代を築きたい。
ちなみに、当ブログはガンバファンとして運営しておりますので、過去にもガンバの過去を振り返るブログは大量に更新していますので、是非そちらもご覧下さいませ。
J1最高順位:優勝(2012,2013,2015)
リーグ杯最高成績:準優勝(2010,2014)
天皇杯最高成績:準優勝(1995,1996,1999,2007,2013)
ACL最高成績:ベスト16(2014,2019)
最長指揮監督:ミハイロ・ペトロヴィッチ(2006.6〜2011)、森保一(2012〜2017.7)
最多出場選手:森崎和幸(1999〜2018)
最多得点選手:佐藤寿人(2005〜2016)
歴代MVP受賞者:佐藤寿人(2012)
歴代得点王獲得者:佐藤寿人(2012)、ピーター・ウタカ(2016)
【前期:1993〜2002】
Jリーグ初期の広島は特異なキャラクター性を持つクラブだったと言える。J開幕当初から資金繰りは苦しく、地方クラブという事情もあってか選手確保にも苦戦し、松田浩やヤン・ヨンソンなどコーチを選手を現役復帰させなければならないくらい選手層は薄かった。しかし逆にそうした背景もあって前身のマツダSCの頃から育成には徹底して力を注いていた事もあって、風間八宏を筆頭にハンス・オフト率いる当時の日本代表の主力でもあった森保一、高木琢也、前川和也のような核となる選手は揃っていた。1994年にはサントリーステージ(1stステージ)を制覇。その後は中位が定位置だったが、天皇杯では3度決勝に進出。優秀な外国人監督が若手を抜擢しながら結果に結びつけるスタイルは確立されていた。しかし2002年、結果と内容に手応えを掴んでいた中でヴァレリー監督が突如退任し、後任のガジエフ体制で低迷。最終節は悲劇的な負け方でクラブ初のJ2降格を喫した。
【中期:2003〜2012】
1年でJ1に復帰し、2006年の途中にはペトロヴィッチが監督に就任。ドイツW杯にも選ばれた駒野友一を始め、森崎兄弟、槙野智章、柏木陽介らが台頭。2005年に獲得した佐藤寿人も大ブレイクを果たしたが、2007年には入れ替え戦で京都に敗れて2度目のJ2降格となった。しかし、降格したにも関わらずペトロヴィッチ監督は続投。当時ではかなり異例な事であり、近年はこういう事例もちょこちょこ見かけるが、それは広島の成功が与えた影響も小さくなかったと思う。J1に復帰した2009年以降は上位にも顔を出すようになる中で2011年を最後にペトロヴィッチが退任。後任の森保一監督は初監督だった事もあって不安視されたが、前体制での粗を修正して見事初優勝に結びつけた。
【後期:2013〜2022】
森保体制で広島にとっての黄金期が訪れる。2013年には最後の最後で横浜FMを振り切ってリーグ連覇を果たすと、2ステージ制が復活した2015年では年間勝点で当時の記録となる勝点74を記録し、G大阪と対戦したチャンピオンシップでは第1戦で劇的勝利を飾り、2試合で1勝1分。森保体制では5シーズン半で3度のJ1制覇を成し遂げて、天皇杯とナビスコ杯でも1度ずつ決勝に進んだ。当時はペトロヴィッチ率いる浦和が、彼の教え子でもある広島の選手を多く引き抜き続ける中でこの成績を残した意味は大きい(ちなみに広島は甲府からよく引き抜く)。森保体制は2017年に降格危機に陥った事で終焉したが、2018年から始まった城福浩体制でも初年度に準優勝するなど、一定の成績は常にキープしていた。
今年の30シーズン目が終われば、来年はいよいよ30周年。まだまだヨーロッパの比べれば歴史は浅いでしょうが、なによりも濃い誇りと共に、これからもJリーグを追い続けていきたいです。
サッカー見始めて18シーズン。
ではでは(´∀`)