RK-3はきだめスタジオブログ

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Road to Tokyo…のようで違う話。〜東京オリンピック・五輪サッカー観戦日記〜第10話 東京五輪が映した光と影(2021.9.8)

前話第1話はこちら↓】

 

 

 

9月6日(月)

 

昨日、パラリンピックの閉会式が行われた。

これにより、先日お亡くなりになられたジャック・ロゲIOC会長がブエノスアイレスで発した「トキョォ」の言葉から続く「Tokyo2020」の全てが終わったことになる。新しく作り替えた国立競技場に、誰一人として観客を入れないままに。

 

 

 

コロナ禍以前から今回の五輪は色々なケチの付きどころが多かったのは確かで、逆に言えばコロナ禍がそれらの問題からピントを逸らしたとも言える。だが、それで解決する訳ではないし程度の差もあるが、そもそも全てが順風満帆に成功に導かれた五輪なんて無かっただろうし、外国で行われた過去の五輪も日本に伝わっていないローカル的なネガティブな側面もあっただろう。それを踏まえれば、少なくとも日本には間の悪さと不運を嘆く権利は持ち合わせていると思う。

別になにもオリンピックに限ったことではない。ただ、このパンデミックは「正義は立場によっていくらでも変わる」という現実を今までにないほど色濃く突きつけてきた。そして、その風景の中心には常にオリンピックの存在があった。このブログやnoteでも過去に何度も書いたが、私は中止論自体を否定するつもりはない。一応チケットを持っていた立場だが、中止と言われたとしても納得はするつもりでいたし、実際に無観客となってチケットが意味を成さないものとなった今でも……嘆きこそはするが、それについて不満と文句を垂れるつもりはない。「◯◯はこれだけ観客を入れているのに」という声もよく聞くが、感情論としては理解できるが、基本的にそこは個別に考えるべきだと思っている。「◯◯がやったから△△もOK」「◇◇がダメなら××もダメ」ではなく、それぞれにそれぞれの出来る要素と出来ない要素はあるだろう。だから無観客開催の決定についても、もちろんショックだったが受け入れてはいた。

ただ、悔やみ惜しむ事すら悪とする層がいたり、或いは…「良かった」「英断」くらいなら理解出来るけど、無観客となった時に絵文字をふんだんに使って「やったーーー!!!」と書くツイートを見た時には、さすがに何とも言えない気持ちになってしまった。だからこそ、吉田麻也が有観客の再考についてインタビューで語った時、その実現性はともかくとして、チケットを持っていた身としては少し溜飲が下がったし、少し救われた気もした。

 

 

 

オリンピックの後、似たような意味合いでの賛否両論が巻き起こったのはフジロックフェスティバルだろう(愛知県の某フェスに関しては五輪やフジロックとは比べる次元が違いすぎる)フジロックの時にこの議論が大きく話題になったのは、オリンピックの賛成派と反対派によるある種の代理戦争のような構図になってしまった事が大きい。要するに、オリンピックは有観客開催なら賛成派の勝ちで、中止なら反対派の勝ちみたいな構図になっていた以上、無観客開催はある意味ではドローと言える形だった。フジロックの時の論争は、結果的にその延長戦のような意味合いも持っていたように感じる。

あの時、一番論争の火に油を注いだのは「オリンピック中止を訴えていたファン及びアーティスト・関係者がフジロックは全力擁護していた事」だった。上でも書いたように、私自身はオリンピックが出来たからフジロックもOKとか、オリンピックが無観客だからフジロックも客を入れるなといったシンプル過ぎる意見には反対の立場である。五輪には反対でもフジロックは賛成(或いはその逆)という意見でも、そこに論理的な理屈があれば耳を傾ける必要はある。ただ、フジロックを擁護した人から多く聞いた言葉が「アーティストだけでなく、ライブスタッフなど周辺に人々の生活も懸かっている」と言った言葉だった。

それ自体はその通りである。だけど、それはオリンピックも同じなのでは?と思う。確かにオリンピックの場合、協議結果を始め何かを発信した時にニュースとして取り上げられるのは既に有名な選手達ばかりで、確かに彼らは五輪の中止で夢は潰えども収入に莫大なダメージが及ぶ事はおそらく無いだろう。だが、その一方でマイナースポーツの選手は五輪の結果が今後の活動さえも左右する訳で、彼らにとっては五輪の開催可否はまさしく死活問題だった。要は根っこの部分は同じだったりするのだ。

一度自分の中で「善」と「悪」が固まってしまった以上、後は徹底的に擁護し、糾弾するしかないのだろうか…。自分の望むイベントが中止になった時に「オリンピックなんて興味ないのにそのせいで…」と言う人もいたが、例えば私はチケットを買うほどオリンピックに興味がある。要するに、自分が全く興味を持たない事も、違う誰かは興味みを持っているはずで、その発言が正しいものとして扱われるのであれば、あなたが興味を持つものも「興味ない」の一言で切り捨てられる事になってしまうのだ。フジロックの件でそこにまで気を回す事が出来るのなら、なぜオリンピックの時はあそこまで、無神経なほどに辞退まで求める事が出来たのだろうか、とは心底思う。オリンピック開催前からそうだったけど…賛成派にとっても反対派にとっても、東京五輪という四字熟語はいつしか政治を語る時にマウントを取る為のツールになってしまった。オリンピックは閉会したのに、フジロックでまたそれを改めて痛感した。実は賛成派も反対派も、オリンピックが開催されるか中止になるかは実はどうでもいいと思っている人もいるんじゃないか…みたいな意味も含めて。

「正論」という言葉が使われる場面を想像すると、所詮自分の意見に近い事を言ってくれた人に対してしか使わない。ニュースに躍る色々な事件を見ても思うが、SNSの発展と共に民意の意味と定義は変わり始めてきたように感じる。リーガルハイの2期9話じゃないけど、近い将来、民意が法律さえ超えるようになってしまうんじゃないか、みたいな事すら考えてしまう。世の中にある事象なんて、全てがトリックアートと同じである。どの距離で見るか、どの角度で見るか、どこにピントを合わせるか…一つの絵にも関わらず、それだけでまるで違う絵が浮かび上がる。その感想の全ては100%の正解ではなく、そして100%の間違いでもない。オリンピック中止を求める声を出場選手から発させたかった人達は「アスリートは声をあげろ」「アスリートは意見を表明しろ」と度々求めていたけど、実際に一部のアスリートがオリンピックの開催や有観客を望む声を挙げた時、そこに寄せられた反応を見て……「声をあげろ」なんて要求は所詮、クイズに過ぎないのだと思った。その正解は正しいか正しくないかではなく、自分が求めていた答えかどうかであって、それが合っていようが間違っていようが関係ない。「私の考えと同じことを言ってください」「私の考えと違う事を言ったら叩きます」…みたいな。思考の楽園はそれぞれがそれぞれに持っていていいものではあるけれど、いつしか人はそこから抜け出せなくなってしまい、楽園の中の全てをシロだと確信してしまっているし、きっと自分にもそういう部分はあるのだろう。そんな事は無いと思いたいけど、100%否定する事なんて出来ない。

だからこそ、吉田麻也の有観客発言の時に……ブックマークなどはしていなかったので完全な引用ではないが、「私は五輪に反対の立場だから吉田麻也の発言は支持できない。だけど、公の場であれを言った気概は買いたいし、偉いと思う」というツイートを見た時、こういう事を言える人間でありたいと素直に思った。

 

 

 

本当はこんなブログを書いているはずじゃなかった。

当たったチケットを握りしめ、オリンピックを現地で見れた喜びと、4年に一度じゃなく一生に一度のカタルシスを、ちょっとした観光日記と合わせてゆったりと綴るつもりだった。それがいつしか、ネットスラング的に言うところの「お気持ち表明」みたいなブログに変わってしまった。これまでのブログでも、どこかイキって平静でも装っているように振る舞いながら、自分自身もまた、これまで批判めいた口調で書いた人と同じように廃れ、壊れ、自暴自棄になっているのかもしれない。2019年、この日記をつけ始めたあの時、こんな結末は予想なんてするはずもなかった。当たり前のようにオリンピックが来て、当たり前のようにパラリンピックまで終わり、当たり前のように2020年のトピックとしてあーだこーだと振り返っているはずだったのだから。半年を切った北京での冬季五輪や2024年のパリ五輪がどうなるかはわからないけど、東京五輪は当たり前は信用出来ない代物だという事は我々に突きつけてきた。

テレビで見たオリンピック、パラリンピックは本当に楽しかったし、面白かった。「スポーツで感動なんかしない」という人はいるし、実際に興味のない人からすればそうだと思うけれど、少なくとも私は感動した。それは多分、男子サッカーの東京五輪世代に一応私が該当しているように、私と同い年のアスリートにとっては一番良い年で迎えたオリンピックだった事で感情移入がいつもより深かったのもあると思う。2つの大会を合わせたこの1ヶ月半、退屈する事は何も無かった。感謝しかない。ただ、感動すればするほどに「なぜ今回だったのか」「なぜよりにもよって東京だったのか」という虚しさとやり切れなさが増したのも否めない。不運だった…世の中にはそれでしか片付けようのない理不尽は多く訪れる。

日本がこのオリンピックで不運と引き換えに得たものが何なのか、それがどのような意味を持つものなのかは今はまだわからない。ただ、COVID-19によるパンデミックという、我々の世代の人間が全員死んだ後の世界でも教科書に刻まれるであろう時代を、図らずも生きてしまった事だけは確かな事実である。

 

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Road to Tokyo…のようで違う話。〜東京オリンピック・五輪サッカー観戦(予定)日記〜

完。