Road to Tokyo…のようで違う話。〜東京オリンピック・五輪サッカー観戦日記〜第5話 2021年の憂鬱(2021.1.1〜2021.4.4)

前話第1話はこちら↓】

 

 

 

1月1日(金)

 

激動の2020年が終わった。

2020年という年は間違いなく世界史に残る年だった。概念とは往々にして変わるが、100年後、1000年後の歴史の授業でもきっと描かれる一年になったと思う。だって、2020年に起こった出来事は今まで教科書と映画の中でしか見たことのない世界だったし、そしてそれは未だ現在進行形なのだから…。

前回のこの日記は7月26日で止まっているが、あの日からの流れは収束傾向というか、コロナに気をつけつつ、如何に経済を戻すか…という流れの状態が続いていた。政府主導による「Go Toキャンペーン」が始まり、人の流れは流動的になっていく。自分自身もGoToは使ったし、今まで通り…とは制約もあって行かずとも徐々に経済的な流れは動いてはいた。

Jリーグにしても、夏場は観客動員の上限が5000人だったが、私も観戦したガンバ大阪vs北海道コンサドーレ札幌セレッソ大阪vsガンバ大阪では2万人近い動員を記録している。11月にはTHE YELLOW MONKEYがコロナ禍になってからは初めてとなる東京ドームでのライブも行った。

 

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ガンバも天皇杯を決勝まで戦い抜き、十分に成功と呼べる結果を残した。タイトルこそ獲れなかったが、色々あった中でのこの成績は立派である。

 

 

さてさて、世間の流れに話を戻すと、今は再び医療体制が逼迫してきている。

12月になるに連れて一気に第2派と呼ぶべき状態が到来した印象だ。2度目の緊急事態宣言だなんだ…という話にもなってきて、今年もまた相当なカオスに苛まれる一年にはなるだろう。

 

そういえばあけましておめでとう。

 

 

 

3月10日(水)

 

今、ヤンマースタジアム長居で行われたセレッソ大阪vs清水エスパルスの試合から帰ってきたところだ。

セレッソと清水の試合に不満はない。清武弘嗣の決勝点は美しく、それだけでチケット代の元は取れてしまうようなゴールだった。だが試合中……ずっと「自分が今、長居にいる理由」が脳裏から離れなかった。

 

手元にあったガンバ大阪vs大分トリニータの試合のチケットは払い戻しを待つただのデータと化した。3月中であった事…それは不幸中の幸いだったのかもしれない。

緊急事態宣言も関東の一部を除いて解かれ、対策はしつつも…未だにコロナに対してのリアリティはどこかフワフワしている部分はある。そんな中、3月3日にもたらされたその一報が持つ言葉の威力には電気ショックほどの衝撃があった。各ニュースサイトに写るZoom越しの小野社長の表情とあまりにも悲壮な……正直今はなにか、あまり物事を考える気が起きない。

今年から施行されるみなし開催……不戦敗がどうなるのかもわからない。代替試合を開催するにあたって、少なくともガンバ側の都合を優先する事は出来ないだろう。立場としては「代替試合をお願いする立場」になる。いくら感染する事に罪はないとはいえ、対戦相手になる予定だったチームは巻き込んだ形になる。みなし開催引き分け説も出ているし、ガンバ的にはそうなればありがたいといえばありがたい。だがそれはそれで、中立的に見れば対戦相手側が不憫な制度のような気もする。そういう事を考えれば考えるほどわからなくなる。

 

人間たるもの、極端にネガティブにはなってはいけない。だがそう簡単にポジティブにはなれない。今年のガンバのスローガン…「TOGETHER as ONE」がまるで、なにか予言めいたスローガンだったようにさえ思えてくる。今はただ、回復と再開を願うことしか出来ない。

 

去年、鳥栖と柏でクラスターが発生した時、心配もしたし憂慮したりもした。でもきっと、当時は本心でも上っ面での感情でしかなかった。要するに他人事だからこそ言えた言葉であり、持てた感情だった。いざこうなると、どんな言葉を並べるべきか、どんな気持ちで3月を過ごせばいいのかわからない。

これを更新する時、飛んだ6試合のカタは何をもってついているのだろうか。そしてその時、ガンバの立ち位置はどこにいるのだろうか…。まさかこんな形でコロナに対してのリアリティを持つなんて夢にも思わなかった。今のところ、自分の知り合いの界隈でコロナを患った人は誰もいない。初めてリアリティを持つ恐ろしさがまさかガンバだったとは…。

 

とにかくコロナは後遺症が云々、とも聞く。無理だけはしないでほしい。

 

 

 

4月4日(日)

 

ガンバファンにとっては本当に長い1ヶ月だった。本当に……。

だが昨日、アウェイ広島戦からようやくJリーグに帰ってきた。結果は0-0の引き分け。もちろん勝って欲しいと思って試合を観ているが、昨日に限ってはむしろこの難しい状況でよくぞ勝点1をもぎ取ってくれたと思う。なんなら、昨日に関しては試合を観れた、ユニフォームを着てピッチで動くガンバを観れただけで良かったと思っている部分さえあった。仮に敗れていたとしても、昨日ばかりは何か文句や愚痴を言う気にはならなかったと思う。

 

さて、競泳の池江璃花子が五輪出場を決めた。美談には時として捻くれた見方をしてしまう事もあるけれど、こればっかりは素直に美談として飲み込まざるを得ない、いや、そう受け止めたいと心から思えるほどのほどのストーリーである。彼女のここ2〜3年は映画にしても足りないほどの濃密さだろう。

そんな中、3月末頃から聖火リレーが始まっている。感染者数は1年前の今よりも増えている事から五輪開催の是非が改めて叫ばれている。少なくとも、今の流れとしては五輪開催自体はやるつもりなのだろう。有観客か無観客かはともかく。それに際して、それでも五輪をやるべきだのいやいや中止にすべきだの方々で色々な意見が噴出しているが、正直辟易している部分もある。

 

それは五輪開催是非の議論ではない。むしろこれに関しては議論が行われるのは自然な流れだし、当然でもある。「やるべき」とする側にも理由があり、「中止するべき」という人にも理由はある。それは当然である。

だが、池江璃花子の五輪出場に至るまでの感動的なストーリーを利用して、ある意味ではそれを人質かのように五輪開催を求める層には少し疑問を抱く。そしてそれと同時に、五輪中止を求める層にも同じ感情は常々抱いている。簡単な言葉で「賛成派」と「反対派」に分けるとすれば、明確にどちらの立場も嫌いになっている自分がいる。

 

 

先日、堂安律のインタビュー記事がアップされていたが……これは本当にそうだと思う。「やるべきorやるべきでない」と「やりたいorやりたくない」は同じ線の上にはない。アスリートの立場からすれば、当然オリンピックにはそりゃ出たいだろう。「絶対に開催すべき」と言ったのであれば批判されるのもある程度仕方ないのかもしれない。私自身、五輪のチケットを持っている立場として「やるのなら行きたい。でも中止も理解できる」と思っている。やるべきかどうかと、出たいかどうかは別軸として考えなければならない。だが「出れるものなら出たい」という希望にすら批判を注ぐのは……。堂安の件に関しては「五輪には反対だし、中止してほしい。だから堂安の意見に賛同はできないが、堂安の姿勢は共感(理解)する」みたいな意見も多かったが、こういうスタンスを持てる人が増えてほしい。五輪出場が決まったアスリートが「五輪に向けて云々」というコメントを残す度に批判する人もいるが、アスリートからすればそりゃ誰だって「やるなら出たい」と思っているだろう。ましてや今回は東京五輪。自国開催の五輪に巡り会える機会など一生に一度あって多い方な訳で、アスリートで有れば現役の間にそのタイミングに巡り会える機会は今回を流せば永遠にない。

 

そもそも、最近はあまりにも政治や五輪関連の話題になるとポジショントークが過ぎるように思う。聖火ランナーの辞退者が続出した件で一層そう思った。

多くの人が辞退の理由を「スケジュールの都合」としていた。中には便宜上としてそう言っている人もいるのかもしれないが、実際問題として……例えばミュージシャンがコンサートを使用とした時、横浜アリーナZepp Tokyoのような超人気会場は1年前からの予約ですら遅いとも言われている。ドラマや映画なら長期に渡ってスケジュールを確保する必要のあるものも多いので、1年後…或いは2年後のスケジュールが埋まっているのは多忙な著名人では珍しい話でもなんでもない。言葉にするとボンヤリしているのは否めないが、スケジュールの都合としか言えないのは確かだと思うし、実際にスケジュールの都合だとも思う。要するに言いたいのは、辞退理由を明確に表明している人ならまだしも、スケジュールの都合をみんなが五輪の是非への抗議関係に直結させている人が多過ぎるのだ。それは辞退を理由に批判している人も横暴になっているし、同時に勝手に抗議と捉えて賛同している人も辞退した側からすれば迷惑でしかないだろう。

正直、私は「正論」という言葉があまり好きじゃない。人は「◯◯さんは『正論』だと思う」とよく言うが、こういう時に使われる「正論」とはその意見が正しいのではなく、たまたま自分の近い意見を持っていただけの話だと思っているから。文脈的に他の表現が見つからない場合を除いて、ブログでも日常会話でも正論という言葉はあまり使わないようにしている…というかあまり使いたくない。

もし仮に、与党と野党の主張がまるっと入れ替わった時、世論はどんな感じになるのだろうかとふと思う。例えばもし、与党側が五輪中止論を唱えるようになって、野党側が五輪開催派として今のようなテンションの議論が行われたとしたら(まぁ、仮にそういうシチュエーションになったら五輪中止の動きに舵を切るんじゃね?というツッコミは発生するので、たとえ話としては正しくないかもしれないけど…)。今、与党側で五輪開催を支持している人は五輪開催派の野党を支援するのだろうか、それとも与党派として五輪中止を唱え出すのか。逆に五輪中止を声高に叫ぶ人は与党を支持するようになるのか、それとも与党憎しで野党と共に五輪開催を叫ぶようになるのか…。別に五輪に限った話ではない。

最近は政治的な主張の支持・不支持が「誰が賛成しているのか」「誰が反対しているのか」に余りにも依存し過ぎていると思う。逆にいえば、AとBの派閥があったとして…これまでA寄りの意見を述べていた人がB寄りの意見を述べた時、まるで「裏切り者」だとか「金が動いた」とか言い出す人が多くなった。例えば議題が3つあったとして「3つのうち2つはA寄り、でも1つはB寄りの意見」という結論に自分で至るのはごくごく自然な事だ。だが最近では「全部A(or全部B)じゃないと許さない」みたいな空気になっているような気がする。それこそ多様性の否定なんじゃないか、と感じるのは野暮な事なのだろうか……。

 

 

 

つづく。